2021年6月26日土曜日

土曜日になり…

昨夜の雨で少しは涼しいかなと思ったけど蒸し暑かったです(^^;
昨日まで駐車場は数台だけでしたが、今朝は、いっぱい…
これから台風5号の影響があるようですね

 田中均さんのTwitterに

天皇陛下が名誉総裁を務められる五輪での感染拡大に懸念を持たれるのは一般国民の感じ方と同じであり、不自然ではないし、およそ政治的発言でもない。
宮内庁長官の推察であり、天皇のお言葉ではないと敢えて否定するのは、防御的反応か。
政府として感染防止に全力を尽くすと言っておけば良いものを。


西村長官は覚悟をもって拝察を述べたと思います。
「陛下は開催で感染拡大しないか懸念と拝察」宮内庁長官〟(朝日新聞 6月24日)
香山リカさんのTwitterに

陛下もそうですが、雅子さまの勉強好きは筋金入り。公務で訪問する先のことも、専門家顔負けのレベルまで下調べするのだとか。
おそらくコロナに関しても英語文献など広く読んで、最新の知見を陛下にお伝えしてるのだと思います。


天皇陛下が国連会合で講演「災害の経験、記憶伝える努力が次防ぐ」〟(毎日新聞)
もう一度聞きたいと思うちあきなおみさんのことを

 龍谷ミュージアム元館長のつぶやきさんのTwitterに

ちあきなおみの「夜へ急ぐ人」、紅白での熱唱は確かに異様なものでした。
大学4回生のときであったかと。
今でも記憶に鮮明に残っています。
「おいて、おいで」の歌詞と画面越しに手招きされる仕草に圧倒されました。


ちあきなおみ 紅白で“気持ちの悪い歌”と言われた『夜へ急ぐ人』」(NEWSポストセブン)
(「原民喜全集Ⅱ 月報 恵女君 宇田零雨」続き)

温室のぬくみにそまりシネラリア  18

春雨に罌粟の糸根は浮きて見ゆ  19

噴水のしぶき一瞬頬に来る  20

噴水を写生する子等かたまれり  21

明易く始発電車の響かな  22

原君が執筆して徹夜のときなど、恵女君は徹夜を付きあっていたようだ。
「とうとう徹夜になってしまった、あれは始発の電車の音だ」という22の句など、そのころの原君夫妻の生活が察せられる。
(『定本原民喜全集Ⅱ』編集委員 山本健吉・長光太・佐々木基一 青土社 1978年)
夾竹桃町を見下ろす石崖に  23

氷ひく音ききてゐる夕涼み  24

とりどりの数珠持ち出して墓参かな  25

荒れ肌の化粧目につく里祭  26

焼印の乃木刀を売りぬ里祭  27

石多き川のせゝらぎや曼殊沙華  28

山上の雑木林や蕎麦の花  29

  明治神宮にて
神苑の空うつくしや明治節  30

ここまでで昭和十一年の部が終る。
現在は家毎に電気冷蔵庫があるが、その頃は毎日氷屋が氷を配達してくれたものだ。
24はその氷を一貫目・二貫目と挽いている音なのだ。
27の乃木刀を売ったりするのも戦前らしい。
  昭和十二年の「草茎」より

よく晴れて蜂の来てゐる枇杷の花  31

枯萩の呆けはてたる小枝かな  32

白紙の凧よく上る麦畑  33

冬暖し聯隊の倉庫みな鎖ざし  34

  某盆栽家を訪れて三句
松の枝を夜寒の部屋に剪りおとす  35

盆栽の枝の針金寒灯下  36

幽谷をしのぶ小枝の枯葎  37

豆練炭にほふて来るや雨の街  38

竹藪につゞく藁屋の更紗木瓜  39

洋館と白木蓮の高さかな  40
黒すみれ大南風の中にあり  41

更衣好みのセルは昔模様  42

葉蔭より白蝶いでし葵かな  43

桶黒く水は澄みたり心太  44

白粉の花いきいきと今朝の秋  45

踊見て水車の道を帰りけり  46

ころころと芙蓉散りつぎ野分めく  47

菜を洗ふ手もと暮れゆく秋の雨  48

夕霧のふと温かし柿紅葉  49
以上で、「草茎」の初めの三年間、即ち昭和十年・十一年・十二年を見終ったことになる。
 これから戦争は次第に烈しくなり、銃後の生活は益益きびしいものになる。
俳句にも、特に連句にもその世相がおのずから現われてくることになる。
恵女君の作品も、そんなところを示しながら、十三年・十四年・十五年とつづくのであるが、何か機会があったら又書くことにして、この辺で一応筆を擱こうと思う。
療養中の老人は少々疲れたから許してほしい。
 最後に一言、原君の家へ行って三人で酒をのんだりした時、連句を巻いたことも度々あった。
しかし、その原稿の殆どが私の家の数次に及ぶ戦災のため、みな灰燼に帰してしまったのは、返すがえすも残念である。
その中には恵女君の付句もあったのだが、茫々四十年昔の話、いま思い出すこともできない。
    (文博・俳人)
(『定本原民喜全集Ⅱ』編集委員 山本健吉・長光太・佐々木基一 青土社 1978年)
   望月優子
     原さんは生きているべきでした!

「私は歩み去ろう、今こそ消え去って行きたいのだ。透明のなかに、永遠のかなたに」
 原民喜さんの自殺された朝五時、中央線の西荻窪の鉄道線路に私と夫鈴木重雄は、飛んでいった。
原さんは筵の下で、その姿は見えなかった。
私は恐しくて、見る事が出来なかった。
原さんが死ぬ前日に書きとめた「私は歩み去ろう……透明のなかに、永遠のかなたに……」は、原さんの死体が運ばれてから、原さんの下宿の机の上に書きとめてあった自殺の意志の言葉です。
(『定本原民喜全集 別巻』編集委員 山本健吉・長光太・佐々木基一 青土社 1979年)
  自殺の前日、夜半遅く私の家に友人である夫鈴木重雄をたずねて来ました。
 永遠の別れを、原さんはしようとしたのでしょうか。
  私はいつも、鈴木のかげにいて、原さんと言葉をかわした事は、一度もありませんでした。
ただ、何か淋しそうな、文学以外に、人間として語らない原さんに、私は、鈴木と相談して、お嫁さんを世話する事ばかり考えておりました。
私達の勝手な思い方の中で、良いお嫁さんをさがして原さんに引き会わせたのです。お嫁さんは再婚の人でした。
原さんも結婚すれば、再婚する事になるのです。
ところがその見合いの日、お嫁さんは原さんを気に入ったのに、お嫁さんのお父さんが私に、いきなり、どなりつけました。
 「どこの馬の骨かわからない男をつれて来て……」私は、いきなり声を出して泣いてしまいました。
原さんに悪いことをした、と思ったのです。
でも原さんは、無関係な顔をしていました。
結婚してもよし、しなくてもよし……と言う顔つきでした。
 その時から、原さんの心は、透明のかなたに、行っていたのかもしれません。
いや、もっと前、あの原爆にあった時、心は、永遠のかなたに、住んでいたのかもしれません。
 その肉体から、しぼり出すように叫びあげた、夏の花、その他の作品として、原爆を書き綴ったのかもしれません。
 原さんの心を焼き尽くした原爆、
 原さんから、人間をもぎとった原爆、
 それなのに原さんは、美しく書き残しました。
「私は歩み去ろう。今こそ消え去って行きたいのだ。透明のなかに、永遠のかなたに」
 原さんは透明のなかにいるのでしょうか。
永遠のかなたに、いるのでしょうか。
原さんは生きているべきでした。
原さんは私たちに語るべきでした。
その原爆の恐ろしさを……。
(『定本原民喜全集別巻』編集委員 山本健吉・長光太・佐々木基一 青土社 1979年)