2021年6月25日金曜日

曇りの予報が…

予報では曇りだったのですが、公園につくと晴れている。
蒸し暑さも加わってなおさら暑かったです。
それでも今までより1時間ほど早く歩けたのですこしはましかな?
うすいピンクのネジバナは見たことがあるのだけど
これほど白いネジバナは初めて出会いました。
シロバナモジズリより少しピンクがかっている。
 原武史さんのTwitterに

2016年夏の前天皇の「お気持ち」表明により、退位を支持する圧倒的民意が形成されたことで、天皇が政治家よりはるかに大きな影響力をもっていることが証明された。
当時官房長官だった現首相は、それを痛切に感じたはずだ。
今回も「お気持ち」に一番敏感になっているのは首相自身ではないか。


「天皇陛下 五輪開催で感染拡大 ご心配と拝察」 宮内庁長官〟(NHK 6月24日)
今回のご心配を政治的な発言だというように批判する人がいますが
水問題に関して研究されてきた天皇陛下の研究者としての考えだと思います。
水問題への取り組み」(NHK)
内田樹さんのTwitterに

天皇陛下が「国民の間で不安の声がある中」での五輪開催が「感染拡大につながらないかご懸念されている」との報道。
五輪開催の可否を決するのは政治判断でもビジネスマインドでもなく、科学的知性であるべきだと言われているのだと思います。

これを「政治的発言で憲法違反だ」と言う方たちはそれによって五輪開催の当否は「政治問題」だと主張していることになります。
むしろ陛下は「五輪開催の可否を論じることは科学の問題であって、政治問題ではない」と判断したからこそコメントされたのではないのですか?

香港みたいになってきた。

菅首相題材の映画、公式ツイッターアカウント凍結される」(朝日新聞 6月24日)

スターサンズは「ガイドラインにのっとった投稿していた」。
河村光庸・ス社長は「公式アカウントが突然凍結され、とても驚いている。
もし政治的な理由だとしたら大変な問題だ」
 江川紹子さんのTwitterに

なぜ日本の政府は、戦争で亡くなった兵士の遺骨収集に不熱心なのだろうか…。

不熱心だけでなく、遺骨の交じった土を米軍基地のために使おうとしている。

激戦地土砂の辺野古使用に反対、具志堅さん抗議を配信 ハンスト4日目」(琉球新報 6月23日)

「できる限り沖縄に通いたい」収骨の担い手、県外からも 戦没者への思い〟(沖縄タイムス 6月24日)
太宰治のとって津島美知子さんがいたからこそ立ち直り、名作を次々と発表できました。
そして原民喜にとって貞恵さんという熱烈な理解者がいたから数々の作品を書くことができ
貞恵さんの死後も、貞恵さんのことを書き残そうとして懸命に生きたと思います。
『原民喜全集Ⅱ』の月報に宇田零雨氏が「恵女君」という一文を寄せています。
そこには貞恵さんの句が紹介されています。
原民喜全集Ⅱ 月報
  恵女君 
         宇田零雨

 原君の随筆には、「妻やつてきて《早く行つて御覧なさい、梯子段の下のところに狐が化けてをります》と云つた」というように、妻が登場するが、また「この拙文に関する恵女君の批評を列記すると――」「三ちやんは呆れるであらうと、これは恵女君の憶測である」というように、恵女君として登場する。
 私は昔、原君の千葉寒川の家に何度かよばれて行ったことがあった。
そのたびに恵女君は、郷里の酒と、すき焼をご馳走してくれた。
そして、無口の原君にかわって、いろいろ話題をみつけながら接待してくれた。
原君の寒川在住時代は昭和十年前後で、それから数年で、自由に酒も飲めないし物資も不足の時代になるのだが、それでも原君の家では酒は豊かだったし、すき焼には松茸がたくさん入ったりした。
思えば、この頃は原君の不遇時代だったのだが、恵女君の努力で、家のなかは明るかった。
恵女君は決して泣き言はいわず、原君を激励しつづけたのである。
原君の仕事は、傍らに恵女君があったからこそ続けられたのだろうと、今にして私はしみじみと思う。
(『定本原民喜全集Ⅱ』編集委員 山本健吉・長光太・佐々木基一 青土社 1978年)
 昭和十年に私は「草茎(くさぐき)」という俳誌を創刊した。
それから四十年余つづき、途中で戦災に遭ったりして休刊したときもあったが、今年の春は五00号の記念号を出した。
その「草茎」の創刊号以来、原君夫妻の俳句、連句、随筆が載っているのがなつかしい。
原君は「草茎」では「原杞憂」という俳号を使っていた。
原君の作品の方は、この全集のために、全部報告済みだが、いま気がついてみると恵女君の俳句は忘れられたままになっている。
いささか残念なので、その一部を次に採録して、私の感想を添えることにする。
  昭和十年の「草茎」より

砲声の地にとどろきて冬籠  1

庭垣のやぶれ見ゆるや冬籠  2

  潮来十二橋
薄ときの山茶花水に映ゆるなり  3

1の砲声とは千葉野砲連隊の演習がきこえてきたのであろう。
2、千葉寒川の原君の家は平家、四部屋ほどの家で、小さな庭がついていた。
3、原君は、子供がいないためもあって夫婦で旅行をしたり散歩に出たりした。
出不精の原君を、恵女君が引きたてるようにして外出することが多かったようだ。
  昭和十一年の「草茎」より

紺菊の残るあわれや冬の雨  4

着ぶくれて庭はく人や枯芙蓉  5

押売りの隣へ来てゐる師走かな  6

気にいらぬコートの柄や年暮るゝ  7

4・5・6は寒川宅の即興であろうし、7には、自分の着物を新調することはなく、ひたすら原君のために奉仕した恵女君の姿がみえるようだ。(42も同様)
 この辺から、恵女君の弟で、当時、東大学生であった永井大魚君(佐々木基一)の句も「草茎」に見えるようになる。

すさまじく鳶の舞ひゐる枯野かな
冬日和畑の土の湿りかな
泥道に轍の深し冬日和

は大魚君の「草茎」における最初の作であった。
御飾を振返り見る小路かな  8

麦の芽は丘にうねりて冬日さす  9

8・9ともに寒川宅の近辺の景であろう。
霜土に水仙の芽は浮きてあり  10

雪晴れや白く光れる波頭  11

枯れ残る大根畑春寒し  12

おぼろなる二十才の夢や涅槃像  13

蝋燭の光とどかず涅槃像  14

雪解けの水につかりぬ三葉芹  15

  千葉海岸
海の家の影くつきりと春寒し  16
  
のぼり来て千光寺の桜まだ固し  17

 身辺の材料だけでは物足りなくなると、しばしば郷里のあったころの思い出が、13・14・17のように句の上に蘇ってくるのであった。
(『定本原民喜全集Ⅱ』編集委員 山本健吉・長光太・佐々木基一 青土社 1978年)

つづく
今朝の父の一枚です(^_^)v
ワクチン接種でしばらく休養してもらったりしたので、歩かないことが続きました。
歩きたくてうずうずしていましたp(^^)q

散歩から帰ってきて、父がリクエストした画像をプリントするのですが
いつも使っているプリンターが故障…
もう一台プリンターがあるのですが、今まで、小さいサイズ(L版)に使っていなかった。
マニュアルを見ないで印刷しようとするので四苦八苦していました(^^;