2021年6月23日水曜日

慰霊の日

父は、昨夜、寝る前に体温を計ると36.9度と普段より高めだったので心配しましたが
今朝計ると36.3度と平熱になっていたので安心しました。
副反応としては接種したところの痛みが少しと、だるさがあるようです。
副反応がひどかったら父の様子をみようと思っていましたが、食欲もあるので出かけました。
父は、今日は静養日です。

新型コロナワクチンQ&A(厚生労働省)

 Q.高齢者で一番多い副反応は何でしょうか。

 Q.年齢によって、ワクチンの効果や副反応に違いはありますか。
 ホタルガ マダラガ科
頭が赤く、腹が黒いことがホタルに似ていることで命名されたようです。
幼虫に触れると液をだしかぶれることがあるので気をつけしましょう!

今朝の浮世絵EDO-LIFE
粋!女心透ける広告 歌麿“夏衣裳当世美人ちぢみ向キ”
に描かれていた虫かごには蛍を入れていたとのこと。
虫取りに使う虫かごと違っていて粋ですよ(^_^)v
 「ジャーナリスト・作家 立花隆さん死去 幅広いテーマ取材」(NHK)
立花隆さんは、地道な取材活動を積み重ねてロッキード事件の核心に迫っていました。
首相などの記者会見などを見ていると、現在の記者は立花さんと違い
まるで大本営発表をそのまま記事にしているとしか思えません。
半藤一利さん、立花隆さんと本物のジャーナリストが亡くなっていくのは
戦前戦中の風潮に戻っていく防波堤を失ってしまうような思いになります。
『出る杭』続けた理由 JOC理事・柔道家、山口香さん」(朝日新聞)

山口香さんの言葉に納得しています。
全文は転記できないので最後の言葉を紹介します。

――世論が割れる中での五輪開催はどんな意味を持ちますか。
 「開催すれば盛り上がり、感動も生むでしょう。
無事に終われば、スポーツの力があったとなるかもしれません。
ただ、多くの国民の心にしこりは残ると思います。
それは、スポーツやオリパラへの不信感です。
五輪の理念を無視し、スポーツの価値から逸脱することをやりながら開催しても、素晴らしかった、とは言えない


 「大事なことは、今回のことをのど元過ぎれば……で忘れないことです。
中止や延期を求めた声がなぜ届かなかったのか。
私もそうですが、自分なりに反省し、次の行動をしていくことで、日本が変わることにつながるかもしれません
「忘れない…」 沖縄 慰霊の日 「平和の礎」は祈りに包まれる〟(NHK)

上原美春さんがつむいだ平和の詩「みるく世の謳」全文〟(朝日新聞)

うちなーぐちを取り上げられた沖縄を

父が夕刊で上原美春さんの詩を読んで、素晴らしさにビックリしていました。
そして宮古島の人は勤勉で、戦後、国際通りで懸命に働きビルを建てたのは宮古島の人が多かったと話していました。

母は、昭和8年生れ。
学校では、徹底的にうちなーぐちを禁止され、思わず使うと「方言札」をかけられました。
そのために母は、聞きとれても話すことができませんでした。
艦砲射撃の鉄の雨の中を逃げまどい、
艦載機の銃撃で頭を吹き飛ばされた死体を見たりしたので戦争映画は大嫌いでした。
 沖縄忌<慰霊の日>仲夏 行事

 沖縄は日米最後の決戦地とされ、多くの市民が犠牲になり、1945年6月23日、沖縄の日本軍は壊滅した。
1962(昭和37)年から、この日、沖縄全戦没者追悼式が行われ、沖縄戦犠牲者の遺族や子孫がなどが集まり、正午に黙禱を捧げる。
 この日、沖縄戦の組織的戦闘が終結したことにちなんで、琉球政府と沖縄県が「慰霊の日」を住民の祝祭日に関する立法に基づいて公休日と定めた。
1972年、日本に復帰後、「慰霊の日」は、日本の法律による休日としての法的根拠を失った。
1991年、沖縄県が条例で6月23日の「慰霊の日」を休日と定め、沖縄では国の機関以外の役所や学校などが休みとなった。
 島田牙城は、『里』(2013年9月号)で、忌とは何かというテーマで、忌日のことを論じている。
忌日は、ある人の死後、その人に尊敬の念をもって寄り添いたいという願う大切な「個人の命日」である。
「広島忌」「長崎忌」と言っても広島や長崎の命日ではない。
多くの市民が殺された命日なのである。
事件、事故、天災に「忌」を用いるのは誤用で、流布しているにしても、今後使うことはないという意を書いた。
 この考えに従うかどうかは別だが、沖縄では梅雨の蒸し暑い日が続いた後、6月23日ごろ梅雨が明けて、青い空と青い海になる。
この「六月二三日」を詠むことで、沖縄の人の思いを伝えることが可能で、沖縄戦犠牲者の一人ひとりの忌日である。
(『季語の科学』尾池和夫 淡交社 令和3年)
 国土交通省は、沖縄本島を本土五島の一つとする。
沖縄県は160の島しょ(面積が1ヘクタール以上の島)から成り、47の有人島と多数の無人島から成る。
沖縄県の県域は、最東端から最西端まで約1000キロ、最北端から最南端まで約400キロと広大である。
南西諸島は鹿児島県から台湾近くまで延びている。
その南西諸島へほぼ直角方向にフィリピン海プレートが潜り込んでいる。
潜り込む前にプレートが持ち上がるように曲がって海上に出ているのが南大東島である。

 絶ゆるなきわだつみの声沖縄忌  友永美代子

(『季語の科学』尾池和夫 淡交社 令和3年)
 太宰治の旧制高校時代のエピソードの中に津軽言葉への劣等感のようなものがあったことが書かれていました。
一方、津島美知子さんの『回想の太宰治』に、「津軽言葉」という一文があります。
転記しようと思っている本は、初版です。
この本を出版した後、

津島美知子著『回想の太宰治』書込本
太宰の真実の人間性と生活を伝えるため、初版刊行(1978年〔昭和53〕5月、人文書院)後も丹念に調査した結果を補充している。
(『図説 太宰治』日本近代文学館編 ちくま学芸文庫 2000年)

とあるように増補改訂版と違っている箇所があるかもしれません。
また、微妙な津軽言葉を表記するのに本に書かれているように転記できていないと思います。
現在、講談社文芸文庫で読むことができます。

また美知子さんの好きな若山牧水の次の歌が紹介されていました。

朝の歌 南津軽板留温泉雑詠
 雪消水(ゆきげみづ)岸に溢れてすゑ霞む浅瀬石川(あせいしかは)の鱒とりの群
(『若山牧水歌集』若山喜志子選者 岩波文庫 1936年)

美知子さんの書かれた本では「浅瀬石(あせし)川」となっています。
これは、太宰の言葉を尊重したのだと思います。
  津軽言葉

 「北への憧れ」は、どのような心情から生まれるのだろう。
「北の〇〇」というような題の歌謡曲が次々に生れて流行している。
私の若いときにも級友と『奥の細道』を歩いて辿りたいと、熱心に語り合ったことがある。
それはついに実現できなかったが、北上川を高館から望み見るあたりに、その夢のクライマックスがあった。
 北上川という大河も見たかったが、私はもっと北の浅瀬石(あせし)川にも憧れていた。
 牧水の「雪消水岸に溢れてすゑ霞む浅瀬石川の鱒とりの群」という歌が好きで、その歌から私の少女趣味的なロマンチシズムが生れていた。
(『回想の太宰治』津島美知子 人文書院 昭和53年)
  太宰と知り合って間もなく、御坂から降りてきた彼と、甲府の町を歩きながら、浅瀬石川というのは津軽の方の川でしょうと聞くと、太宰は「あ、アセシ川」と私の問いをひきとって、一種独特な発音で言い直して、あれは南津軽の黒石の方の川だと言った。
太宰が「アセシ川」と言い直すのを聞いた瞬間、私は外人教師から誤れる発音を正されたような気がした。
活字で現せない微妙な差違があった。
この川の名が、私の初めて意識して聞いた純粋の津軽言葉である。
 そのあと「雀こ」のことで、私は語尾の「おん」「ずおん」はどんな風に発音されるのか、ふしぎな気がすること、それから、「わらは」「まなこ」「右り」だのという古語が入っているのがおもしろいと思うことなどを話した。
太宰は「はにやす」とか「たかまど」など、ニュアンスを出すために入れたのだと言っていた。
 同じころ、彼は郷里の祖母が大変いばっている証拠に、自分のことを「オバサ」とよばせていると語ったが、どうしてそれがそれ程特別な敬称になるのかわからなかった。
  結婚後、太宰は私のことを「おい、おい」とよぶ。
 「おい」と言っているつもりなのだろうが、じつは「おい」ではなく、「おえ」なのである。
「い」と「え」の間で、「え」の方に多少近い難しい音で、私だけでなく、三鷹通いした人の中にもこの「おえ」を耳にした人がいる筈である。
 日常会話ではほとんど訛を出さないが、「おい」と短く切って言う場合には、太宰の「い」が「え」に近いことが露われてしまう。
彼はよく津軽訛のことを、自分から持ち出して笑い話の種にしていたが、そうかといって、私の方から「おい」ではなくて「おえ」と聞こえるなどとは言い出せなくて、それでずっと通ってしまった。
名前を呼ぶよりも呼び易いのだろうと思っていた。
 女子の名で「〇子」と子をつけるのは、昔は公卿以上の身分に限られていたそうだ。
それがいつしか崩れて誰も彼も、子をつけるようになったが、堅く伝統を守る太宰の郷里では、母、叔母はもちろん、同世代の姉たちみな、子をつけず、漢字も避けて仮名の名である。
(大正末から漸く姪の名が漢字になり、子をつけた名に変化している。)
 「美知子」という漢字を頭において私をよぶことは、明治末に生れた津軽人太宰の言語感覚がゆるさなかったろう。
 娘の名は、子をつけず「園」とよんでいた。
 疎開中私は「みつ子」とよばれたことがあって、津軽弁では「ち」と「つ」も紛らわしいのかと思ったが、太宰が第三者に私のことを話すとき、幸にも「みち」は「みち」で、「みつ」ではなかった。
 太宰は生国の訛から完全に脱け出すことは一生出来なかったのではなかろうか。
執筆中、突如「おえ!」と襖越しに、言葉についての問いが私に飛んでくることがあった。
 疎開中のことになるが祖母は寝たきりになってから、ふたりの女中の名を何度もくり返しよんでいた。
長生きするくらいで発声機能の強い人だったのだろう。
かなり離れたところまで聞こえる。
別に用事があるわけではないので嫂や女中たちは当惑していたが、祖母のよぶ「たみコ」は「たみクォ」と聞こえ、「きんコ」あるいは「きんチャコ」は「クインクォ」「クインチャクォ」と聞こえる。
安政生まれのこの祖母のよび声からカ行が古い津軽言葉ではクワクィと発音され、ハ行がファフィと発音されること、津軽で名詞全般につける「コ」と、女子の名の「子」との間に違いがあることを知った。
津軽弁の「コ」は名詞の尾につける「コ」だから、「きん子ちゃん」ではなく、「きんちゃコ」になるのだ。
これはおもしろい発見だった。
 四歳の長女は早々と津軽言葉を覚えて、おれよりうまいじゃないか、と父に言われていた。
この娘も津軽では「園ちゃん」で、「園子ちゃん」とよぶ人はなかった。
  二、三年前祖母がまだ元気で台所の炉端で話しているとき、「ハネモド」という言葉に曽孫の若い娘たちが顔を見合わせて、なんのことか論議した末、リボンのことと決まったことがある。
津軽言葉も徐々に移り変わって、消えてゆくものもあることを感じた。
 姪のひとりが言った。
ワ(我)とナ(汝)ですむのに、わたくしだの、君だのあなたにだのと言うことはなかろうと。
ほんとうに、「ワ」と「ナ」で自称他称すべての場合済むなら、どんなにすっきりするだろう。
そしてみな、名前をもっているのだからさしつかえのない限り名でよぶことにしたらよいのに――。
  私が疎開中一番困ったのは家族の呼称で、女衆のことを「アパ」とよぶのだが、今まで「パ」で終る音で人を呼んだことがないから言いにくい。
母屋の主人のことを奉公人らは東京風に旦那様とよんでいるが、もし私が、おにいさまとか、伯父さまとか呼んだとしたらたいへん失礼なことになりそうだ。
津軽で「おじ」というのは、伯叔父をいうのではなく、二男以下を指している。
長男あるいは二男三男でも家督相続権をもつ子は幼少のときから「あんさま」と尊称されて育ち、分家金をもらって分家するか、養子にゆくか、どちらかの宿命をもつ二男以下は「おじ」とよばれて「おじ」には軽蔑や自嘲のいみが含まれているらしいのである。
これは驚きだった。
(『回想の太宰治』津島美知子 人文書院 昭和53年)

つづく…