〝気象庁「東北の南部と北部が梅雨入り」すべての地域が梅雨入り〟(NHK)
本降りなので、大人しく本を読んだりしていました。
6月19日は…
そして遺体が発見された日。
桜桃忌。
いくつか本を探してみると、
『写真集 太宰治の生涯』(毎日新聞社編 昭和43年)、『文芸読本 太宰治』(河出書房新社 昭和50年)、
『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫 2000年)、『太宰治に聞く』(井上ひさし こまつ座編著 文春文庫 2002年)
いずれも絶版か品切れになっています。
とはいっても太宰治の著書や太宰に関連する書籍は、いまもたくさん出版されています。
太宰が誕生したころについて
太宰誕生
●あれは、明治40年6月のことでございました。
青森県北津軽郡金木(かなぎ)村の中心部に、目を見張らんばかりの豪邸が落成いたしました。
宅地だけで約六百坪、1階に11室、2階に8室。
しかも、家のまわりは、高さ4メートルの煉瓦塀で囲まれておりまして、まるで宿屋のような大変に大きな家でした。
総工費は4万円。
当時、資本金が1万円あれば、銀行を設立し、自分が頭取になれたくらいですから、この家のすごさがおわかりになると思います。
しかも、この誇らしげな家を守るように、役場や郵便局、銀行、医院、警察署などが取り囲んでおりますから、まさにこの家は、金木村のへそ。
このゴミでも取ろうものなら、村全体がおなかをこわすといった存在でございました。
さて、この家。
持ち主は津島源右衛門、もちろん、この土地の権力者。
小作人が三百人もいる大地主というだけでなく、金貸し業を基礎とした新興商人、多額納税による貴族院議員有資格者というわけですから、まごうことなき、この村のボス、いや、青森県全体の「ドン」のひとりだったかもしれません。
この家が完成いたしまして、源右衛門ほか三十人の家族、使用人が住みはじめます。
そして、二回の冬を越しました明治42年6月19日、この家に移って初めての子供が誕生しました。
産声が上がったのは、裏階段の横の大きな部屋。
誕生したのは六男、源右衛門の何と十番目の子供でした。
もうおわかりでございましょう。
この子が津島修治、そう、のちの太宰治でございます。
(『太宰治に聞く』井上ひさし こまつ座編著 文春文庫 2002年)