2025年11月8日土曜日

検査の後

来週、循環器内科の診察があるので、事前に血液検査と尿検査をしました。
検査後、少し出発が時間が遅くなったので電車の中で予定を変更して
前回と同じ「神宮丸太町」駅で下車。
今日は、丸太町橋を渡りました。

平成3年に架け替えられたそうです。
◆ 京都市の橋の変遷 ① ◆ 明治時代の橋 」(京都市建設局)

橋を渡る前に目についたのが新しい顕彰碑

 梁川星巌と紅蘭の寓居跡 

 この川端丸太町上ル東には美濃大垣出身の勤王詩人梁川星巌・紅蘭夫妻の寓居の「鴨沂小隠」があった

 原銅像設置 岐阜県大垣市曽根(生誕地)  案内 梁川星巌記念館

梁川星巌(1789~1858)は、和漢の詩文を学び、従妹の紅蘭(1804~79)と結婚し、長らく夫婦連れ立って西日本の各地を歴訪し、やがて江戸に出て詩塾玉池吟社を営み、斬新な漢詩人として名声を博した。
しかし、尊皇の志を懐く夫妻は、弘化3年(1846)から京都へ移り、鴨川べりの当所「鴨沂小隠(おうきしょういん)」に10年近く住んだ。
ここで朝廷の公家や天下の志士たちと自由に交流を深めた、維新回天の功労者である。
ただ、星巌は安政の大獄直前に病没し、紅蘭は夫君の顕彰に努めている。

 令和4年(2022)9月2日 (星巌の旧暦命日)
    寄贈 公益財団法人 霊山顕彰会 岐阜県支部
        梁川星巌・紅蘭顕彰碑建立委員会
昨日「立冬」なのに暖かいと日記に書きました。
今朝も青空が広がりポカポカ陽気でした。
駅に着いたときは11時を過ぎていてこのまま目的地に行くと
食事が遅くなるなと思って中華そばをいただきました(^_^)v
気になっていたのが「レジ」
お店に人に「現役ですか?」と聞くと引退しているそうです。
「こちらは現役ですよ」と教えてもらったのが
「黒電話」
懐かしいので撮してもいいですかとお聞きすると
年配の店員さんがニコニコしながらいいですよと言ってくださったので
「レジ」と「黒電話」を撮しました(^_^)v
お店は上京区丸太町通河原町の交差点にある「初音
営業時間:11:00~16:00
定休日:火曜日

(以前は、公式サイトのないお店は「食べログ」にリンクを貼っていましたが、「口コミ」に時々、ムッとするようなコメントがあるので止めました)
京都御苑に入ろうと歩いていたら目に入ったのが「新島旧邸

 京都市指定有形文化財
 新島襄旧邸 

 新島襄旧邸は、同志社の創立者新島襄の自邸として建設されたもので、明治11年(1878)に竣工したと伝える。
また、設計は宣教医テーラーの助言のもとに新島自身が行なったといわれている。
 建物は木造の2階建で、北側に平屋部分が付属する。
外観はコロニアルスタイルを基本としているが、細部装飾がほとんどなく、真壁の白い壁面に配された茶褐色の木部が単純明快な美しさを見せている。
また、この建物はいわゆる洋風建築に属するものの、畳敷や箱階段などの伝統的手法も用いられている。
日本人の設計により、日本人のために建てられた明治時代初期の洋風住宅として、さらに新島襄の住宅遺構として貴重である。
 同じ敷地内に建つ付属屋と門は旧邸の同時期のものであるが、これらは伝統的な様式で建てられており、旧邸と合わせて住宅の洋風化のあり方を示すもとして注目される。
 また、旧邸に残る家具57点はこの建物が住宅として使われていたときのもので、簡素な屋内意匠とよく調和しており、なかでも国産の洋家具は明治時代初期に家具技術を示す資料としても価値が高い。
   旧  邸  昭和60年6月1日 指定
   附 付属屋・門 平成5年4月1日 追加指定
     家具57点 昭和61年6月2日
         京都市
係の人にお聞きすると写真撮影はいいですとのことで撮しましたが
公式サイトの「新島旧邸デジタルブック」をご覧下さい。

 新島襄と八重夫妻 1876年頃 

 結婚後間もない頃の新島夫妻の肖像写真。
洋装姿の襄と、和装でありながら靴を履き、飾り付きの帽子を持つ八重の姿。

 新島襄と八重 

 1876年1月3日、襄と八重はキリスト教式による結婚式を挙げ、新烏丸頭町(現在の鴨沂高校の東側)の借家で、襄の両親らと共に生活を始めた。
襄は、後の京都府知事・槇村正直に結婚相手について聞かれた際、日本人女性が良いが、夫の言うことにただ聞き従っているだけの女性はご免だと述べ、槇村が薦めた人物が当時女紅場(にょこうば<府の女子教育機関>)で舎監として働いていた八重であった。
 夫が妻を「八重さん」と呼び、妻は夫を「ジョー」と呼ぶ。
当時になって、2人の夫婦としての在り方は、周囲に特異に映ったかもしれないが、八重は学校運営に奔走し体調を崩す襄を支え新島家の一員として高齢の親の面倒を見た。
 2人の生活の場は、この新島旧邸が中心であった。
自宅が竣工してからの結婚生活は12年間だったが、襄は伝道や大学設立運動などで留守がちであった。
留守宅を守る八重に、襄はたびたび手紙を送っている。
八重からも襄へ手紙が送られており、(手紙は現存せず数通の封筒のみ残る)離れていても互いに気持ちや考えを伝えあっていた。

 ※展示品はすべて同志社史資料センター所蔵資料の複製品(レプリカ)です。

同志社人物誌103 槇村正直―京の文明開化の「牽引車」〟(同志社大学)

女紅場趾(にょこうばあと)」(フィールド・ミュージアム京都)
 襄が伝道先から八重に送った手紙 1880年 

 1880年2月、襄が岡山へ伝道旅行に出た際、留守宅を守る八重に向けて出した長文の手紙(1880年2月25日付)。
備中松山(現・高梁市<たかはしし>)を訪問し、現在は岡山に滞在中であること3月には四国へ渡り伊予松山(現・松山市)まで行くことなどを記し、備中松山の城下町の様子を挿絵を交えて書き送っている。

建学の精神と新島襄」(同志社大学)

新島 八重(にいじま やえ)」(同志社大学)
 自宅にて同志社の学生たちと 昭和初期 

 旧邸のベランダで同志社中学の学生たちと記念撮影をする八重。
襄の永眠後も、同志社の学生たちはたびたび自宅を訪れており、八重は「新島のおばあちゃん」と呼ばれ、学生たちに慕われていた。
  海外留学中の女学生からの手紙 1890年 

 同志社女学校の卒業生である土倉政子が、留学先のフィラデルフィアから八重に宛てた手紙(1890年7月13日付)。
八重は土倉の在学中の保証人でもあった。
日本を離れてから初めて書いた手紙で、内容は、まだ環境になじめい様子や、出発の際に八重が雨の中で見送ってくれたことを折々思い出し、八重の写真を毎日眺めて気持ちをなぐさめていることなどを書き綴っている。
 旧邸での交遊 

 新島夫妻は同志社の学生をたびたび自宅に呼んで、歓待した。
学生が訪れると、夫妻は八重手製の西洋料理をご馳走したり、汁粉をふるまったりしてもてなし、帰りには袖いっぱいの蜜柑や菓子を持ち帰らせた。
また、親元を離れて暮らす学生に対して、服や食料といった生活に必要なものを援助し、学生たちを助けた。
 当時の学生にとって尊敬すべき「先生」である襄に八重が接する態度は、時として批判の対象にもなった。
しかし八重は、学生が気軽に「奥さん」と呼べる家族的な存在であったのだろう。
襄の永眠後も、折に触れて学生が新島邸を訪れ、八重と同志社の生徒との交流は続いた。
 同志社の卒業生の多くが、八重の面倒を見てもらったことを回想し、八重の米寿に際してたくさんの祝辞を寄せていることからも、学生たちの八重に対する敬愛をうかがい知ることができる。
 勝海舟「六然の書」 

 1882年9月9日、新島襄が津田仙とともに勝を訪れた際、勝が新島に与えた書。
勝の座右の銘が揮毫されている。

 自処超然
  (自ら処するや超然)

 処人藹然
  (人を処するや藹然)

 無事澄然
  (事無ければ澄然)

 有事斬然
  (事有れば斬然)

 得意淡然
  (得意なるも淡然)

 失意泰然
  (失意なるも泰然)
 茶 室 

 大正初期、もとは洋間であった場所に、八重が4畳半の茶室「寂中庵」を設置しました。
襄の永眠後、八重は裏千家に入門し、茶道にいそしみます。
そして茶道教授の許状を受け、この「寂中庵」で稽古や茶会を開いていました。
 室内に掲げられた扁額の文字は、裏千家第13代家元・圓能斎鉄中によるものです。

 屏 風
▶左隻…李樹延(イスジョン)から新島に贈られた漢詩。
    李は、1880年代に朝鮮政府使節団の一員として来日し、津田仙と出会い、日本で洗礼を受けた。

▶右隻…多賀城南門近くに建つ多賀城碑の拓本(宮城県多賀城市)。
    日本三古碑に数えられている。
    新島が仙台訪問時に知事から贈られたもの。
 書 斎 

 日当たりの良い、東南の部屋が襄の書斎です。
襄が使った机や書類棚等がそのまま残されています。
また、壁一面に書棚が置かれていますが、蔵書(現在、同志社社史資料センターで保管)の約8割が洋書です。
当時の同志社の学生たちは、この書斎にある本を、図書館代わりに利用していたようで、本の表紙裏には、小さな貸し出し票が残っているものもあります。
 風呂・トイレ 

トイレは、木製の腰掛式です。
日本に存在する洋式トイレとしてはごく初期のものです。
現在置かれている風呂桶は、解体修理工事(1990年)の際、新たに据えつけられました。
風呂は、竣工当時の姿から改変が重ねられてきたため、調査がなされたものの、元の形が分からず、当時一般的であった木桶風呂を再現しています。

※展示品が多いのでぜひ来館されることをお勧めします(無料ですよ!)
姪が卒業した大学ということもあってついつい長居をしてしまった(^_^;
京都市歴史資料館の前を通ると
企画展「19世紀京都発の地域情報」が開かれており
期間が明日の9日(日曜日)までということで見学することにしました。
館内は撮影禁止でした…

事務室に『新版 平安京図会』があったので購入しました。
ここでも予定外の時間を過ごしたので(^_^;
寺町御門(てらまちごもん)から京都御苑に入りました。
 大人の京都修学旅行

 …前略…

 と、妙なことに気がついた。
広場を通る自転車の動きが何かおかしい。
 ちょうど夕方ということもあり、玉砂利の広場を何台もの自転車が横切る。
広場と自転車といえば天安門広場だが、あそこほどはいない。
しかしその通る自転車の奇妙なリズムに気がついたのだ。
広場をワッショワッショと漕いで来た自転車が、あるところにくるとスーッと通る。
別の方からもワッショワッショと漕いできた自転車が、あるところにくるとスーッと通る。
ここにくると自転車がみんな同じリズムを持っている。
何故あるところにくるとスーッと走るのか。
 妙に思ってその「あるところ」に近づくと、そこにぼんやりと線が見える。
玉砂利の広場にぼんやりした直線が伸びていて、広場を横切ろうとする自転車はみんなそこを通る。
 さらに近づき、その線の真上に立ってみた。
見ると砂利が捌(は)けてそこだけ固い地面が露出している。
その地面の露出が連なって直線となり、そこを自転車が……。
「ケモノ道だ!」
 ズームレンズの全員が顔を見合わせていた。
無限遠のピントがまた至近距離に合ってしまった。
大発見だ。
御所の中にケモノ道があったとは(P38-39参照:略)。
(『京都おもしろウォッチング』赤瀬川原平他 路上観察学会編 とんぼの本 1988年)
 もちろん犯人はケモノではなくジテンシャだ。
だから正しくはジテンシャ道というところだが、見ていると玉砂利の自転車はじつに重そうに漕いでいる。
玉砂利は自転車の細いタイヤが食い込んで走りにくい。
だから何とか楽な方へ楽な方へと進みながら、結局は砂利の少ない、誰かの通った跡を走る。
それが度重なってジテンシャ道が。
 おそらく自転車に乗っている人の脚だけが知っている道だろう。
その人が自転車を外してここに歩いてきたら、もう意識にないような、そういう存在ではないだろうか。
 みんなその発見に酔ってぼんやり見とれていた。
夕焼け空をバックに、遠くからぼやけた直線上を自転車が進んでくる。
と、こちらからも自転車が一台、その直線上を進んで行った。
その法則性がじつに愉快だ。
さてしかしそのすれ違いはどうなるのかと見守っていると、両方が一本の直線上をぎりぎりまで進みながら、ついに根負けした方が直線を外れて玉砂利の道を走り、しかしそこはやはり漕ぐのに猛烈に力がいるから、すれ違うとまたすぐ直線上に戻ってスーッと進む。
「一直線だからねぇ」
 と言ってみんな笑った。
御所の細道
 と藤森(照信)さんが言った。
「そうそう、御所の細道!」
 とみんなが歓声を上げる。
 しかし人が見たら何と思うだろうか。
 ズームレンズはその大発見に満足しながら、夕焼に映える御所の細道をいつまでも眺め入った。

 …後略…

(『京都おもしろウォッチング』赤瀬川原平他 路上観察学会編 とんぼの本 1988年)
 猿ヶ辻(さるがつじ)

京都御所の周囲を廻る築地塀の東北の角に大きく欠き込みが造られ、軒下には災い除けの彫像(雲板)があります。
これは、鬼門にあたる場所に、御幣を担いだ猿の彫像を置くことで、災いが去ると伝えられるものです。
現在の猿ヶ辻は慶応2年に京都御所の敷地が拡張された際に今の位置になり、それまではもう少し西側の朔平門
(さくへいもん)寄りにありました。
 猿ヶ辻の怪 コラム

 猿ヶ辻の名称の由来となったサルの像に金網がかぶせてある。
このサル、夜な夜なぬけだして通行人をからかうなど悪さをし、またその鳴き声が天皇の寝所までとどいて、天皇を悩ませたという。
その封じ込めのために、網が張られたと伝えられる。
古名をつくばいの辻といったが、夜更(よふ)けにこの辻にさしかかると、なぜか茫然自失(ぼうぜんじしつ)となり、道に迷ってつくば(うずくま)ってしまうということからその名がついたともいう。
(『京都洛中散歩21コース』京都史跡見学会 山川出版社 2004年)
のんびりとあっちこっち見てしまったので
予定していた時間をかなり過ぎてしまい
帰宅後、買い物の時間が遅くなりそうなので焦ってしまった(^_^;
それでも見たいものがあるので、今出川御門から
同志社大学の間を通って「臨済宗相国寺派 相国寺(しょうこくじ)

12月14日まで「秋の特別拝観」が開催されていますが
先に見たいのがあります。
前から訪ねたいと思っていました。
総門(境内案内)のところに警備の方がおられたのでお聞きすると
大本山 相國寺 全景」を見ながら
W.C.」(赤の「」)が目印になると教えてくださった。
(「」や赤丸で囲っているのは、私が書き込んでいます)
教えてもらった道を進むと
墓地に入った時に六地蔵が目に入りウロウロしてしまったのですが
(この時、振り返ったらよかったのに…)
 幻想の博物誌―伊藤若冲

 …前略…

 若冲の伝記について、まず手がかりとなるのは、相国寺の墓地に残る墓の側面と背面を埋めて刻まれた大典禅師の碑文である。
これは、明和3年(1677)51歳の彼が、妻子もなく、跡を継がせようとした末弟にも先立たれた事情から、生前に自らの墓を建てておくことを思い立ち、親交のあった大典に碑文を依頼したもので、若冲の出生、人がらや制作態度などについての貴重な証言がそこに含まれている。
よほどよい石材が使ってあるのだろう、この刻文は、二百年後の現在も鮮明に読みとれるのだが、全文は大典の詩文集『小雲棲稿(しょううんせいこう)』にも載せられている。
ほかにもいくらか資料はあるが、ただ、彼自身の言動の直接の証拠ともなるべき手紙や日記類の全く知られていないのは残念だ。

 …後略…

(『奇想の系譜―又兵衛-国芳』辻惟雄 ちくま学芸文庫 2004年)

伊藤若冲の生前墓は右側(左:藤原定家 中央:足利義政)
墓(生前墓)は、墓地に入ってすぐのところにあったのに長いこと探していました…
向かいに見える「法堂(はっとう)」では「鳴き龍」を体験しました。
耳の悪い私でも聞こえましたし
「蟠龍図(ばんりゅうず)」の龍とは、グルッと回っても目が合いました(^_^)v
「方丈杉戸絵 白象図(はくぞうず) 原在中筆(複製)江戸時代」は、撮してもいいとのことでした。
相国寺には「七重大塔」があったのです。

 7章 北山から東山へ
 相国寺大塔


 さて義満は、花の御所を営んで4年後の永徳2(1382)年正月、左大臣に任ぜられたのを機に、花の御所の近く(東)に壮大な寺院(相国寺)の建造に着手いたします。
左大臣の唐名である相国を寺名としたもので、正しくは相国寺承天禅寺(しょうこくしょうてんぜんじ<当初は承天相国寺>)といい、春屋妙葩(しゅんおくみょうは)・義堂周信(ぎどうしゅうしん)ら臨済宗の禅僧がこれに協力しています。
早くも翌年には主要部分ができ、至徳(しとく)3(1386)年7月には、いわゆる京都五山の第二位に置かれます。
もっともこの建物は、応永(おうえい)元(1394)年9月の大火で大半を焼失、同6年9月に再建されましたが、このときには七重大塔も建造されたのでした。
ちなみに現在京都で一番高い塔は東寺の五重塔ですが、約60メートルです。
しかしこの大塔は、はやくも4年後、応永10年6月の雷火で焼け、その後場所を北山に移して造営中、応永23年正月、またまた雷火のため炎上、以後再建されることはありませんでした。
その他の伽藍(がらん)もたびたび罹災(りさい)し、現在の建造物の大半は江戸時代、文化年間(1804-18)になるものです。

 …後略…

(『京都史跡見学』村井康彦 岩波ジュニア選書 1982年)
開山堂(かいさんどう)前庭 

 開山堂の庭は、手前が白砂敷きの枯山水(かれさんすい)、奥部が軽くなだらかな苔地築山で奇岩を配し樹木が植えられており、その巧みな調和の美しさが特徴である。
このような二様の庭が一体となっているのは、禅宗寺院では珍しい。
 また、庭の水路は「龍淵水(りゅうえんすい)」と呼ばれており、創建当時は相国寺境内の水路(碧玉溝<へきぎょくこう>)に通じて賀茂川の水を御用水として皇居に流していた。
鴨さんのblogに

相国寺 街中の静寂を求めて」(2011年9月13日 火曜日)

京都御苑の北側、同志社大学に隣接する京都五山の第2位の名刹。
創建は足利義満が夢窓国師を迎えて開山した臨済宗のお寺です。

街中にあって周囲は烏丸通や今出川通という大きな道路があり
時に今様の学生も行き過ぎます。

突然思い立って早朝5時36分
地下鉄烏丸線の始発で今出川駅に降り立ち、境内を散策してみました。

まだ散歩する方もなく、御苑とは違った静けさに包まれた雰囲気と
朝のさわやかな空気をを独り占め、となりました。

水上勉の「雁の寺」の舞台となった瑞春院も門は開いていましたが
拝観は10時から。覗いて帰りました。

地下鉄 烏丸線今出川駅下車
バス  烏丸今出川下車

 …………………

相国寺承天閣美術館」にも寄りたかったのですが諦めて
「同志社前」から市バスに乗って出町柳駅に向かいました。

2025年11月7日金曜日

立冬

暦の上では「立冬」になりましたが、ポカポカ陽気でした(^_^)v

七十二候「山茶始開(つばきはじめてひらく)
蕾から赤い花びらがチョコンと顔をだしていました。

立冬 千枚漬の伝統的な漬け込み作業を報道公開 京都」(NHK)

2025年11月5日水曜日

大阪防災情報メール(訓練)が届き

公園を歩いていると避難訓練の放送が流れました。
放送が終了しても訓練のアナウンスが流れているなぁと思ったら
背負っていたリュックに入れていたスマホから流れていました。
「OK」をタップしないと止まらない……
私も含めてですが周りの人は気にせずに歩いていました(^^ゞ
一方、ヤマトシジミは葉陰に隠れていましたが
避難訓練ではなく寒かったからかな(^_-)

「世界津波の日」 電車から高台への避難訓練 和歌山 広川町〟(関西NHK)

2025年11月3日月曜日

文化の日(金戒光明寺~聖護院門跡……)

今日は「文化の日」
明治時代は「天長節」、父や母の時代は「明治節」でした。

京阪電車神宮丸太町駅で降りて山の方に向かって歩きました。

2025年11月1日土曜日

霜月になりました

昨日は、冷たい雨が降り続いていて外に出られませんでしたが
唯一、運動ができたのは、「心臓リハビリ」でした。
30分間、トレッドミルで歩き続け、1.7km歩きました。
公園で30分間ひたすら歩き続けることはしません(^_^;
今朝は、曇ったり晴れたりの天気でした。
この夏にあまりカマキリと出会うことがありませんでしたが
オオカマキリの卵鞘(らんしょう)に出会いました。

カマキリの冬ごし」(小学3~6年)

2025年10月29日水曜日

風が吹かない間は…

今朝は、風があまり吹いていない秋晴れでした。
天気予報を見ると明日までは晴れるようです。
公園にはキンモクセイの香りが漂っていて秋だなと思いました。

2025年10月27日月曜日

久しぶりの青空

今朝は、青空が広がっていました。
暖かかったからでしょうか?
コスモスの花にミツバチがやってきていました。

冬のはじめのミツバチ」(小学4年生)

2025年10月25日土曜日

次第に空が暗くなってきました

空が暗くなったり、青空になったりしていましたが
次第に冷たい風が吹くようになり
夕方、買い物に出かけると本降りの雨になりました。

昨日、高校のクラス会のラインに
長野県在住の同級生から
近くで子熊らしく村役場から一斉連絡有り
と、書き込みがありました。

山に登っていた頃は、クマと出会わないように鈴を鳴らしながら歩いていました。
当時は、山のなかだけだったのに、近頃は、町中でも出てきています。
猛暑で、ドングリなど木の実が不作だったことも影響しているのかな?

クマ出没情報(10月24日)」(長野NHK)

2025年10月23日木曜日

洗濯日和

昨日は、雨が降って寒かったです。
妹が父に付き添って病院に行くと
子どもたちが多かったのでインフルエンザかなと思ったけど
ワクチン接種に来院していたそうです。

今朝も寒かったのですが、日ざしがたっぷりで洗濯日和(^_^)v
今日は、二十四節気の「霜降(そうこう)
神戸 六甲山の小学校でストーブの「火入れ式」〟(関西NHK)

2025年10月21日火曜日

一気に晩秋に

日曜日、京都の街歩きは蒸し暑いと思ったのに
今日は、20度に届かないとの予報。
そのうえ風が吹いていていっそう寒く感じました。
ヒガンバナは、花の時期を終えて花茎の根元から葉が出てきていました。

2025年10月19日日曜日

龍谷ミュージアム~文子天満宮~市比賣神社

昨日、父が、日曜日は人が多いので
公園への散歩を休むと言ったので
久しぶりに近鉄に乗って京都に向かいました。

2025年10月18日土曜日

傘をささずに歩けたけど

歩いている時にパラパラと小雨
駐車場から出るときにはワイパーを動かすほど降り出しました。
昨日は、秋晴れで青空が広がっていたのに…
来週は、一気に気温が下がるみたいです。

2025年10月16日木曜日

雨が降っていても

公園に着く前、車にあたる雨の音が聞えるほどでしたが
歩き始めると傘をささずに歩けました。
雨が降っても25℃以上の夏日になっていて蒸し暑い。
予報では急な雷雨もあるとのことなので早めに帰りました。

西~東日本 大気不安定 夜にかけ落雷 突風 激しい雨などに注意」(NHK)