2021年6月12日土曜日

雨は降っていないけど

雨は降っていなかったけど、気圧の谷や湿った空気の影響で曇っていました。
梅雨時の蒸し暑さ…
 滝本匠さんのTwitterに

新たに開設しました!琉球新報デジタル特設サイト「沖縄戦を知っていますか?」。
ステイホームの期間でも、お子さんとおうち学習にも活用していただけます!ぜひご覧ください!


沖縄戦を知っていますか?」(琉球新報)

戦争に巻き込まれた若者、海から渡ってきた人々」の中に
 そして、忘れてはならない人々がいます。戦争準備が進む沖縄に、朝鮮半島から大勢の人々が日本軍によって連れてこられたのです。
正確な人数は分かっていませんが、約1万人と言われています。
 男性は日本軍の基地づくりに参加させられました。
女性は日本兵の相手をさせられ、体を痛めつけられ、深い心の傷を負いました。
そして、戦争に巻き込まれ、多くの人が亡くなったのです。
 安田菜津紀さんのTwitterに

東日本大震災後、当時野党だった菅首相のブログ。

民自連初会合:復興のために国会会期延長を」(2011.05.21)

重要法案を残し国会閉会、無責任な政権与党」(2011.12.10)
 田中均さんのTwitterに

車検もない車で事故を起こしたとは気づかなかった、とうそぶく議員、企業を脅せと示唆し表現がまずかったと弁明する大臣。
この情報社会で外に漏れないはずがないのに、幼稚なのか傲慢なのか。
この緊張感のなさ。
選挙で選出し権力を付与している国民は怒るべきではないか。
もう諦めた方が良いか。
 原武史さんのTwitterに

今夜のBSフジのプライムニュースで、自民党の武見敬三が五輪中止派=共産党=非国民というニュアンスで喋っていた。
共産党を「アカ」と呼んでいた時代の感覚とほとんど変わらない。
もし開催が強行されれば、この感覚はもっと強まるだろう。
この時期、思い浮かべるのは太宰治のことです。
明日、13日のことです。
1948(昭和23)年、夜半に、山崎富栄さんと玉川上水に入水しました。
二人の遺体が発見されたのは6月19日。
太宰治の誕生日です(桜桃忌)。

松本侑子さんの『太宰治の愛と文学をたずねて』と野原一夫さんの『回想 太宰治』より一部転記しますφ(..)
第9章「人間失格
 死ぬ一年前に心中を決意する


 太宰は富栄を妻とよび、また自分を夫とよばせながら、『斜陽』のもととなる日記を借りた太田静子が愛人であることを隠していた。 
 富栄は、自分の夫がフィリピン戦で死んだことは、帰国した戦友から聞いていたが、遺骨も帰ってこない寂しさを胸の底に抱えていた。
その孤独、新婚十日あまりで未亡人になった悲しみを埋めるように、体をゆるした太宰に夢中になっていく。
太宰もまた、一途な若い恋人にほだされるように、富栄の下宿に泊まるようになった。
(『太宰治の愛と文学をたずねて』松本侑子 潮出版社 2011年)
 二人の思いが高まった七月、富栄のもとへ、夫の戦死公報がとどいた。
政府が正式に日本兵の戦死を通知したもので、彼女は法的に独身となり、再婚の道もひらける。
二十代の富栄は、家庭のある太宰から離れていくだろう。
 二人の思いが高まった七月、富栄のもとへ、夫の戦死公報がとどいた。
政府が正式に日本兵の戦死を通知したもので、彼女は法的に独身となり、再婚の道もひらける。
二十代の富栄は、家庭のある太宰から離れていくだろう。
 付 記

 書き終えたあと、東日本が未曾有の大地震におそわれた。
太宰は書いている。
――過ぎ去ったことは、忘れろ。そういっても、無理かも知れぬが、しかし人間は、何か一つ触れてはならぬ深い傷を背負って、それでも、堪えて、そ知らぬふりして生きているのではないか。
 過去の苦しみから立ち直りを誓って、太宰が御坂峠の天下茶屋で書いた小説の「火の鳥」の一節である。
 「火の鳥」とは、死から蘇(よみがえ)る不死鳥(フェニックス)であり、苦難からの再生と復活を願って、太宰がつけたタイトルである。
 次は、もともと戦時中に書いた小説だが、東京の印刷所が爆撃されて原稿と本が焼失するという、作家にとっては絶望的な災難にあったのち、戦争が終わって書き直した作品「パンドラの匣(はこ)」の一文である。
――人間は、しばしば希望にあざむかれるが、しかし、また「絶望」という観念にも同様にあざむかれる事がある。
(略)人間は不幸のどん底につき落され、ころげ廻りながらも、いつかしら一縷(る)の希望の糸を手さぐりで捜し当てているものだ。
(『太宰治の愛と文学をたずねて』松本侑子 潮出版社 2011年)
  附 記

 こんな愚かしいことを、今更らしく書くこともないのだが、太宰治他殺説というのがあるのだそうである。
各人各様、さまざまな意見があり、異なる見解があるのは結構だが、他殺説とはあまりに乱暴である。
(『回想 太宰治』野原一夫 新潮文庫 昭和58年)
  太宰さんの首筋に細紐(ほそひも)でしめられた絞殺のあとがあり、それは富栄さんの仕業で、つまり富栄さんが太宰さんを絞殺して水中に引きずりこんだのだという。
その説をなした最初の人は、三枝康高(さえぐさやすたか)さんという人だそうで、三枝さんの『太宰治とその生涯』という本によると、発表はさし控えたが、検視に立ち合った三鷹署員が絞殺の痕跡(こんせき)を認めたのだそうである。
太宰さんの友人の亀井勝一郎さんも、『無頼派の祈り』という本のなかで、「直接の死因は、女性が彼の首にひもをまきつけ、無理に玉川上水にひきずりこんだのである。遺体検査に当った刑事は、太宰の首にその痕跡のあったことをずっと後になって私に語った。」と書いておられる。
 三枝さんという人を私は知らないが、亀井さんはよく存じ上げている。
太宰さんの生前にも、吉祥寺の「コスモス」でよくお会いし、いっしょにお酒をのんだ。
いつも微笑を絶やさない、穏やかなお人柄だった。
親友をなくした亀井さんの無念さはよく判るつもりだが、それにしても、同行した女性を殺人者にしてしまうのは、あまりにも穏やかでないように思われる。
「遺体検査に当った刑事」の言を信用なさったようだが、その刑事とやらは、あの検視の場にいたどの人なのだろう。
 まさか、あの美男の検視医が刑事であったはずはない。
あとふたりほどいたなかの、ひとりだったのだろうか。
もし検視医が太宰さんの首筋に締められた痕跡を発見したら、黙って見のがすことはことはなかったにちがいない。
なにかの表情か身振りか、あるいは言葉があったはずだが、そんな気配はまるでなかったのである。
ごく事務的に事は運ばれ、ごく事務的に事はすんだ。
そのことは、すこし離れてはいたが、亀井さんは見て知っていたはずである。
  断じて、そのような痕跡はなかった。
私はすぐ間近かで、検視医と同じくらいの間近かさで、太宰さんを見入っていたが、その首筋には、締められた痕跡など、断じてなかったのである。
(『回想 太宰治』野原一夫 新潮文庫 昭和58年)