2021年6月18日金曜日

曇り空で

今朝は、予報通り曇りで午後からは雨が降り
明日の朝まで雨は降り続くみたい…
明日雨なら無理せずに自粛かな?
てるてる坊主にお願いしようかな?
 岸見一郎さんのTwitterに

今のオリンピック開催をめぐる議論は、親が子どもに「今すぐお風呂に入る?それとも、後から入る?」というのに似ている。
親は風呂に入らないという選択肢を子どもに与えない。
もちろん、入らないという選択肢はある。
高熱があれば入ってはいけないだろう。
何があっても入れというのはおかしい。

 岩永直子さんのTwitterに

そうなのだ。
これほど専門家が今の状況で五輪を開催するリスクについて分析を出しているのに、
「それにもかかわらず今開催する政治決断」について、
政府から国民に納得いく説明がないのが五輪開催のために協力する気持ちになれない一番の理由だ。


西浦博教授が緊急報告 “五輪のリスク”議論の背後にある「最大の問題」〟(西浦博 現代ビジネス)
 田中均さんのTwitterに

「政治的」なるものの無責任さ。
中途半端な宣言解除、補償なく自粛継続、観客数1万人の上限。
「五輪をやる為に」と正面切って説明し、自分が責任をとる、と何故説明しないのか。
裏で仕切ることは得意であっても、表で議論することを避けるのが政治なら、一刻も早く壊したい。
それが国益だから。
国立公文書館のTwitterに

昨日のクイズの答え水野忠邦。
厳しい倹約や風紀取締りで知られる天保の改革を行った老中ですが、
自身が老中の座を得るために多額のわいろを使いました。

水野家の家紋が沢瀉紋(おもだかもん)であることがヒントになっています。

天保武鑑(N0.3)

実は「田沼意次」(64%)だと決めつけていました(^^ゞ
国立公文書館がこの問題を出したことに(^_-)-☆
『おさん』に

「さるすべりは、これは、一年置きに咲くものかしら。」
……
「さうなんでせうね。」
 私もぼんやり答へました。
 それが、夫と交した最後の夫婦らしい親しい会話でございました。
……

とありましたが、
太宰治の妻、津島美知子さんの『回想の太宰治』に「百日紅」が載っています。
太宰治の作品で好きなのは、戦後の作品よりも美知子さんと結婚(1939年1月8日)してからの作品が好きです。
(人文書院版は品切れですが、講談社文芸文庫で読むことができます。
ただ、「試し読み」を見ると、人文書院版と内容が一部違うようで「百日紅」が目次に見られません?)
   百日紅

 太宰が住んでいた頃の三鷹駅には、南口しかなかった。
駅からまっすぐ南に商店街を百メートル程行くと、いまは埋めたてられてないが、右手から二メートル幅くらいの川が流れていた。
それに架かった橋を渡らずに流れに沿って商店や小工場などがゴタゴタ並んだ片側町を東に数分行く。
その川は人工の水路らしくドブ川に近いような川で、時々空鑵やごみのひっかかった河床が干されていた。
やがて人家がとぎれて川は雑木林に沿って南へ屈曲する。
川を見送って林と畠の間の道を東へゆくとまた人家が現われ、玉川上水べりまで中流住宅が続いている。
太宰の借家はその道をもう一度右折した通りの右側にあった。
(『回想の太宰治』津島美知子 人文書院 昭和53年)
東側は広い邸宅ばかりなのに、道路の西側に、昭和十四年の夏、借家群が出現した。
大家のおじさんが畠を作るよりも有利と考えて、まず四間で、家賃二十八円程の借家を六軒建てたのである。
借家探しに上京した私たちが来たとき、もうこの六軒は完成近くなっていたが、家賃をきいて太宰が、どうしても二十五円以下の家賃でなくてはと主張し、現場にいたおじいさんから、この南に二十四、五円の家を続いて建てる予定だと聞いて、六月はじめのその日はそれだけで帰宅した。
駅の南にも二十八円の新築借家があったが、太宰の主張は頑強で、そして家賃についての条件にかなえばほかのことにはかまわず、一刻も早くこの用件から免れたい様子で、私は、自分の住居のことは自分で当然為すべきことと考えていたから、この日の太宰の気乗りしない、迷惑気な様子はさびしく頼りなかった。
太宰にしてみれば、今までの住居はみな誰かが用意してくれて船橋の借家、三島の宿、荻窪のアパートその他、自分が探し歩いたことなどなかったから、ばかばかしく腹立たしかったのだろう。
甲府では私の母が下宿と借家をみつけてくれたが、東京までは手が届きかねた。
雑用をさせずにおきたくても事情が許さなかった。
歩き疲れて路傍のそばやで一休みしたとき、太宰はこれから清水町のI家にお伺いしようと言い出した。
希望通りの家がみつかり、きめたのでもないのに、まして汗と埃にまみれた姿で、結婚式以来のI家に――と、しぶる私をひき立てるようにして荻窪にまわった。
二度めに上京したとき、建ちかけていた三軒の一番奥の家を契約して、家主から連絡を待つことになった。
 一番奥を選んだのは、表通りに沿った家は人通りがうるさく、まん中はおちつかない、奥が一番住心地がよかろうということであってその点は予想通りだったが、井戸が隣りと共同でお勝手までいちいち水を運ばなくてはならず、御崎町の家同様、家賃の安い埋合せを主婦が補わねばならなかった。
そして一時の足がかりのつもりでいたのが、動けなくなって、十年間住むことになったのは不運というべきか、住居への努力が足りなかったというべきか。
 三鷹の土地もその家も、彼が自分のはっきりした意志で選定したとはいえない。
文筆業者にとって、住居は仕事場でもあるのに、あの土地で一生を終らせたのは無念としか言い様がない。
太宰自身も、この家から葬式を出したりするものかと言い、私もその言葉を信じ、そこから抜け出ることを念じていながら遂に出来なかった。
 あの頃の三鷹の住民のうち、大家さんなどの農家をAとすると、Aは三鷹開拓民(振袖火事以後)の子孫で、草葺の古い家に住み、広大な農地を持っていて、昔からの年中行事を守り落ち着いて暮らしている。
Bは三鷹という土地を選んで敷地を求め、家を建て、多少時間はかかるけれど都心への通勤、通学も出来るし、広い庭や畑を作って田園生活を楽しもうという人たちで、生活の不便を電話、自転車、女中で補って悠々と暮らしている。
Cは、近くの日本無線などの会社勤めの社員工員で、ABCそれぞれこの土地に住む必然性を持っている。
上記のどれにも入らない、偶然と、住宅難、つまりは住宅資金のないために、やむなく住んでいる私たちのような人種にとっては、三鷹という土地のわるい点がとくに強く感じられた。
 いま三鷹市は道路はことごとく舗装され、下水道の普及率では全国の都市でも上位とか聞くが、当時の三鷹町は村が町になっただけという感じで、道路はまだよく踏み固まっておらず毎年霜どけ頃の道のぬかるみに難渋した。
それから原始的な上水下水、田舎のよさもなく、都会のよさもなく、耳にするのはあちらこちらのお国訛りである。
お寺やお宮が少なく、古いのれんの店など一軒もない。
銀行支店が設けられたのが戦争末期で、それ迄は小切手を受けとると困っていた。
  いまの三鷹から、昭和十年代から戦後にかけての太宰が住んでいたころの三鷹を偲ぶことは難しい。
目印の川が埋め立てられたので、駅から行っても、墓のある禅林寺から廻っても、旧居のあたりに迷わず行き着けたことがない。
かつて何回も数えきれないほど往復した道であるのに――。
かえって吉祥寺から井ノ頭公園を抜けて右手に入る道筋の方が昔と変わっておらずわかりよい。
  気に入って住んだ土地ではないが、長年住んだ旧宅のあたりはやはり懐かしい。
 当時は小さな借家の並んだ一廓ではあったが、新築間もないのと、同じような外見の家が揃っていたので整然としていた。
駅からの道筋が一変したのと同様に、旧居もその近隣の家々も外観が変わってしまって、太宰在住当時の環境を偲ぶことは無理である。
 境界の生垣がすがすがしく、留守にして帰宅するとき、生垣のヒバの匂いで我が家に近づいたことを実感したものだが、いまブロック塀がその懐かしヒバの生垣と交じり合い、近隣の家々もそれぞれ増改築して、二階をのせたり、道路際までいっぱいに張り出したりして雑然としている。
戦後のインフレで、二十何円かの家賃は塵紙代にもしかないと、大家さんが我々店子に立ち退くか、家を買いとるかの交渉中、太宰の死に遭い、私は立ち退いた組であるが、買いとった人たちがその後、思い思いに手を加えた結果であろう。
  ただ旧宅の右の門柱に沿って植えてあった百日紅だけは枯れもせず、かくべつ成長も見せず、当時のまま残っている。
(『回想の太宰治』津島美知子 人文書院 昭和53年)
 今朝の父の一枚です(^_^)v
嘴の黄色いスズメ。

… 子スズメと親鳥は、慣れれば簡単に見分けられます。
子スズメは、黄色いくちばしをしています。
といっても、くちばし全体が黄色いわけではなくて、くちばしの根元、口角の部分が黄色いのです。
また背中の模様も、親鳥が濃い茶なのに対し、子スズメのそれは全体的に薄い茶色です。
スズメの特徴である頬の黒も、子スズメのものは、薄い墨が滲んだようにぼんやりしています。
こういった違いは、子スズメの羽が生え変わることでだんだんとなくなり、冬には見分けられなくなってしまいます。…
(『身近な鳥の生活図鑑』三上修 ちくま新書 2015年)