2021年6月14日月曜日

梅雨の晴れ間?

夜中に何度も雷鳴をうとうとしながら聞いていました。
今朝は、曇りの予報でしたが、青空が見えました。
でも、湿度が高く蒸し暑かったです(^^;
このニュースを聞いた時は、なんでと思った。 
江川紹子さんのTwitterにも

真っ先に接種するべき人たちなのに…。
ワクチン接種したからといって100%重症化が防げるわけではないとはいえ、
2回の接種を済ませていればどうだったろうと悔いが残るケースも。


「ワクチン接種まだ?」驚く医師 救急隊員が抱いた疑問〟(朝日新聞 6月13日)
 岸政彦さんのTwitterを見てビックリした。

これはひどい
ひどすぎる、、、、、、

きむちゃんさんのTwitter

自由社の新しい歴史教科書について④
沖縄戦について
「日本軍はよく戦い、沖縄住民もよく協力しました」
よくこんな教科書が検定合格したなぁ。


#自由社の歴史教科書

#林市長落選運動

教科書の画像

いよいよ日本の教科書も中国のようになってきた。
平野啓一郎さんのTwitterに

学校で感染症が流行してる時に、運動会やったら感動で勇気をもらえる、とか思うかね?
国家レベルでそういうこと言ってるよ。
戸籍によると、死亡推定月日は、昭和23年6月14日午前零時となっている。
(「太宰治略年譜」(五所川原市)

太宰治氏 情死か?」(NHKアーカイブス1948年)
このニュース映像には山崎富栄さんの父親の姿も。
山崎晴弘(はるひろ)氏は本郷お茶の水東京婦人美髪美容学校を創設しています。
もし、富栄さんが太宰治に出会わなかったら
昭和34年(1959)4月10日、明仁皇太子と美知子妃のご成婚の日、
山崎伊久江さんが、美智子妃の十二単衣紋者 八束清貴 青山鋹夫氏の助手をつとめました。
その時に富栄さんも伊久江さんと一緒におつとめしたのではないかともいわれるほどだった。(『恋の蛍 山崎富栄と太宰治』)

太宰治の『おさん』を数回に分けて転記しますφ(..)
  おさん

  一


 たましひの、抜けたひとのやうに、足音も無く玄関から出て行きます。
私はお勝手で夕食の後始末をしながら、すつとその気配を背中に感じ、お皿を取落すほど淋しく、思はず溜息をついて、すこし伸びあがつてお勝手の格子窓から外を見ますと、かぼちやの蔓のうねりくねつてからみついてゐる生垣に沿つた小路を夫が、洗ひざらしの白浴衣に細い兵古帯をぐるぐる巻きにして、夏の夕闇に浮いてふはふは、ほとんど幽霊のやうな、とてもこの世に生きてゐるものではないやうな、情無い悲しいうしろ姿を見せて歩いて行きます。
(『太宰治全集第九巻』 筑摩書房 昭和51年)
「お父さまは?」
 庭で遊んでゐた七つの長女が、お勝手口のバケツで足を洗ひながら、無心に私にたずねます。
この子は、母よりも父のはうをよけいに慕つてゐて、毎晩六畳に父と蒲団を並べ、一つ蚊帳に寝てゐるのです。
「お寺へ。」
  口から出まかせに、いい加減の返事をして、さうして、言つてしまつてから、何だかとんでも無い不吉な事を言つたやうな気がして、肌寒くなりました。
「お寺へ? 何しに?」
「お盆でせう? だから、お父さまが、お寺まゐりに行つたの。」
 嘘が不思議なくらゐ、すらすらと出ました。
本当にその日は、お盆の十三日でした。
よその女の子は、綺麗な着物を着て、そのお家の門口に出て、お得意さうに長い袂をひらひらさせて遊んでゐるのに、うちの子供たちは、いい着物を戦争中に皆焼いてしまつたので、お盆でも、ふだんの日と変らず粗末な洋服を着てゐるのです。
「さう? 早く帰つて来るかしら。」
「さあ、どうでせうね。マチ子が、おとなしくしてゐたら、早くお帰りになるかも知れないわ。」
 とは言つたが、しかし、あのご様子では、今夜も外泊にきまつてゐます。
 マサ子はお勝手にあがつて、それから三畳間に行き、三畳間の窓縁に淋しさうに腰をかけて外を眺め、
「お母さま、マサ子のお豆に花が咲いてゐるわ。」
 と呟くのを聞いて、いぢらしさに、つい涙ぐみ、
「どれどれ、あら、ほんたう。いまに、お豆がたくさん生(な)るわよ。」
  玄関わきに、十坪くらゐの畑地があつて、以前は私がそこへいろいろ野菜を植ゑてゐたのだけれども、子供が三人になつて、とても畑のはうにまで手がまはらず、また夫も、昔は私の畑仕事にときどき手伝つて下さつたものなのに、ちか頃はてんで、うちの事にかまはず、お隣りの畑などは旦那さまがきれいに手入れなさつて、さまざまのお野菜がたくさん見事に出来てゐて、うちの畑はそれに較べるとはかなく恥かしくただ雑草ばかり生えしげつて、マサ子が配給のお豆を一粒、土にうづめて水をかけ、それがひよいと芽を出して、おもちやも何も持つてゐないマサ子にとつて、それが唯一のご自慢の財産で、お隣りへ遊びに行つても、うちのお豆、うちのお豆、とはにかまずに府吹聴してゐる様子なのです。
  おちぶれ。わびしさ。
いいえ、それはもう、いまの日本では、私たちに限つた事でなく、殊にこの東京に住んでゐる人たちは、どちらを見ても、元気が無くおちぶれた感じで、ひどく大儀さうにのろのろと動き廻つてゐて、私たちも持物全部を焼いてしまつて、事毎に身のおちぶれを感ずるけれども、しかし、いま苦しいのは、そんな事よりも、さらにさし迫つた、この世のひとの妻として、何よりもつらい或る事なのです。
 私の夫は、神田の、かなり有名な或る雑誌社に十年ちかく勤めてゐました。
さうして八年前に私と、平凡な見合ひ結婚をして、もうその頃から既にそろそろ東京では貸家が少なくなり、中央線に沿つた郊外の、しかも畑の中の一軒家みたいな、この小さい貸屋をやつと捜し当て、それから大戦争まで、ずつとここに住んでゐたのです。
 夫もからだが弱いので、召集からも徴用からものがれ、無事に毎日、雑誌社に勤務してゐたのですが、戦争がはげしくなつて、私たちの住んでゐるこの郊外の町に、飛行機の製作工場などがあるおかげで、家のすぐ近くにもひんぴんと爆弾が降つて来て、たうとう或る夜、裏の竹藪に一弾が落ちて、そのためにお勝手とお便所と三畳間が滅茶々々になり、とても親子四人(その頃はマサ子の他に、長男の義太郎も生れてゐました)その半壊の家に住みつづける事が出来なくなりましたので、私と二人の子供は、私の里の青森市へ疎開する事になり、夫はひとり半壊の家の六畳間に寝起きして、相変らず雑誌社に通勤し続ける事にしました。
 けれども、私たちが青森市に疎開して、四箇月も経たぬうちに、かへつて青森市が空襲を受けて全焼し、私たちがたいへんな苦労をして青森市に持ち運んだ荷物全部を焼失してしまひ、それこそ着のみ着のままのみじめな姿で、青森市の焼け残つた知合ひの家へ行つて、地獄の夢を見てゐる思ひでただまごついて、十日ほどやくかいになつてゐるうちに、日本の無条件降伏といふ事になり、私は夫のゐる東京が恋ひしくて、二人の子供を連れ、ほとんど乞食の姿でまたもや東京に舞ひ戻り、他に移り住む家も無いので、半壊の家を大工にたのんで大ざつぱな修理をしてもらつて、どうやらまた以前のやうな、親子四人の水いらずの生活にかへり、少し、ほつとしたら、夫の身の上が変って来ました。
 雑誌社は罹災し、その上、社の重役の間に資本の事でごたごたが起つたとやらで、社は解散になり、夫はたちまち失業者といふ事になりましたが、しかし、永年雑誌社に勤めて、その方面で知合ひのお方たちがたくさんございますので、そのうちの有力らしいお方たちと資本を出し合ひ、あたらしく出版社を起して、二、三種類の本を出版した様子でした。
けれども、その出版の仕事も、紙の買入れ方をしくじつたとかで、かなりの欠損になり、夫も多額の借金を背負ひ、その後仕末のために、ぼんやり毎日、家を出て、夕方くたびれ切つたやうな姿で帰宅し、以前から無口のお方でありましたが、その頃からいつそう、むつつり押し黙つて、さうして出版の欠損の穴埋めが、どうやら出来て、それからはもう何の仕事をする気力も失つてしまつたやうで、けれども、一日中うちにいらつしやるといふわけでもなく、何か考へ、縁側にのつそり立つて、煙草を吸ひながら、遠い地平線のはうをいつまでも見ていらして、ああ、またはじまつた、と私がはらはらしてゐますと、はたして、思ひあまつたやうな深い溜息をついて吸ひかけの煙草を庭にぽんと捨て、机の引出しから財布を取つて懐にいれ、さうして、あの、たましひの抜けたひとみたいな、足音の無い歩き方で、そつと玄関から出て行つて、その晩はたいていお帰りになりません。
  よい夫、やさしい夫でした。
お酒は、日本酒なら一合、ビイルなら一本やつとくらゐのところで、煙草は吸ひますが、それも配給の煙草で間に合ふ程度で、結婚しても十年ちかくなるのに、その間いちども私をぶつたり、また口汚くののしつたりなさつた事はありませんでした。
たつたいちど、夫のところへお客様がおいでになつてゐた時、いまのマサ子が三つくらゐの頃でしたかしら、お客様のところへ這つて行き、お客様のお茶をこぼしたとやらで、私を呼んだらしいのに、私はお勝手でばたばた七輪を煽いでゐたので聞えず、返事をしなかつたら、夫は、その時だけは、ものすごい顔をしてマサ子を抱いてお勝手へ来て、マサ子を板の間におろして、それから、殺気立つた眼つきで私をにらみ、しばらく棒立ちになつていらして、一ことも何もおつしやらず、やがてくるりと私に背を向けてお部屋のはうへ行き、ピシヤリ、と私の骨のずゐまで響くやうな、実にするどい強い音を立てて、お部屋の襖をしめましたので、私は男のおそろしさに震ひ上りました。
夫から怒られた記憶は、本当に、たつたそれ一つだけで、このたびの戦争のために私もいろいろ人並の苦労は致しましたけれども、それでも、夫の優しさを思へば、この八年間、私は仕合せ者であつたと言ひたくなるのです。
 (変つたお方になつてしまつた。いつたい、いつ頃から、あの事がはじまつのだらう。疎開先の青森から引き上げて来て、四箇月振りで夫と逢つた時、夫の笑顔がどこやら卑屈で、さうして、私の視線を避けるやうな、おどおどしたお態度で、私はただそれを、不自由なひとり暮しのために、おやつれになつた、とだけ感じて、いたいたしく思つたものだが、或ひはあの四箇月の間に、ああ、もう何も考へまい、考へると、考へるだけ苦しみの泥沼に深く落ち込むばかりだ。)
 どうせお帰りにならない夫の蒲団を、マサ子の蒲団と並べて敷いて、それから蚊帳を吊りながら、私は悲しく、くるしうございました。
(『太宰治全集第九巻』 筑摩書房 昭和51年)
今朝の父の一枚です(^_^)v 
田んぼでは田植えが行われたようです。

梅雨晴間(つゆはれま)
(前略)

「梅雨晴間」もそんな季語の一つです。
読んで字のとおりで、長い雨の期間にたまさか晴れる日のことをいいます。
梅雨が明けて晴れることだという説もありますが、作句に際しては、多くが梅雨の晴れ間でよしとしています。
加えて「梅雨晴れ間」とは表記せず「梅雨晴間」と書くほうが句が引き締まるように感じられますがいかがでしょうか。

  梅雨晴れの月高くなり浴(ゆあ)みしぬ  石橋秀野(いしばしひでの)

  病者睡(ね)て足裏くろし梅雨晴間  石田波郷(いしだはきょう)
(後略)
(『NHK俳句 暦と暮す 語り継ぎたい季語と知恵』宇多喜代子 NHK出版 2020年)