2021年6月22日火曜日

汗はでるけど…

汗がでるような蒸し暑い朝ですが、曇っているので助かりました。
午後から父の2回目のワクチン接種。
妹に付き添ってもらって、父を接種会場へ送迎しました。
今のところは、ひどい副反応は起きていません。
明日もひどい副反応がおきませんように!

上皇ご夫妻や高齢の皇族方 2回目のワクチン接種受けられる」(NHK)
このニュースを父に伝えると喜んでいました。
国立公文書館のTwitter(6月20日)

雨の季節になりましたね。
今日は幕末に刊行された
西洋衣食住という資料から傘の図をご紹介します。
和傘が紙張りであるのに対し、洋傘が布張りであることが紹介されています。
最近は杖兼用傘もありますが、そうでない傘を杖の代わりにするのは真似しない方が良いですね。
田中均さんのTwitterに

五輪について決定が行われた。
一貫して問題視してきたのは、民主主義原則に反するなし崩し的決め方だ。
「安心安全」の抽象的表現でごまかし、G7で先に支持を取り付け、五輪関係者は別枠として1万人の観客をなし崩し的に決定。
説明せず、説得せず、責任を避ける、という3S政治を座視できますか?

国が「赤木ファイル」を遺族側に開示 森友・決裁文書改ざん〟(毎日新聞)

改竄経緯文書を開示、郵送で遺族側に 近財職員自殺」(産経新聞)

「赤木ファイル」開示 改ざんの過程を詳細に記録〟(NHK)
雅子さんがご主人の自筆を指さしておられました。
夫の最後の声だと思うので、しっかり読みたいと思います。

「赤木ファイル」の内容、遺族側に開示…改ざん指示内容が一覧表に〟(読売新聞)

「改ざん指示した人の名前は黒塗り」 森友問題の決裁文書改ざんの過程をまとめた“赤木ファイル”、国側から妻側に開示〕(東京新聞)

雅子さんは取材に「夫のものに間違いないと思う。夫に指示した人の名前は黒塗りで、外してもらうため闘う」とした。
 (「太宰治の二人の妻 瀬戸内晴美」つづき)

 こんな前歴の後で得た石原美知子は、初代とは全く対照的な理智的で教養のある娘だった。
おそらく太宰の過去を、たいていの娘なら恐怖と嫌悪をもってしか聞けなかっただろうに、美知子はそれを怖れもせず結婚したのは、美知子の教養と知性が、太宰の過去にあらわれた様々な狂気じみた愚行のかげにひそむ太宰の人間性の誠実さと、太宰の稀有な天才を察知し、理解することが出来たからだらう。
(『文芸読本 太宰治』河出書房新社 昭和50年)
 太宰はこの時、初代との離別後、ようやく文学に本気で真向う覚悟を決め、初代とのいきさつを書いた「姥捨」の稿料を持って、井伏鱒二の紹介で山梨県の御坂峠の天下茶屋に行きそこで小説を書いていた。
いわば再生の意気に燃えていた時であった。
太宰の才能を信じ太宰の人間を愛していたからこそ、井伏鱒二も石原美知子のような、いわば堅実な良家の娘を、しかも初婚の娘を、あえて太宰にすすめることが出来たのだろう。
  太宰をよく識り、初代とも深くつきあって何かと相談を受けていた井伏鱒二は、太宰に今、最も必要なものは、堅実な家庭生活と、あたたかで聡明な妻の内助だということを感じていたにちがいない。
 そうして、この井伏鱒二の推察は、物の見事に功を奏し、太宰は美知子との結婚生活によって、はじめて放浪の青春に別れをつげ、本気で文学に打ちこむことが出来るようになった。
 はじめに引用した太宰の新婚生活の記がこの頃の新居の雰囲気を伝えている。
 太宰はこの結婚から後、昭和21年頃まで文学一筋の生活を貫き、まるで休火山が爆発しような勢いで、多くの傑作を矢継早に、しかも相当多量に書きのこしている。
  この間、大戦争が始まり、戦局は日々苛烈になっていったが、太宰はその間も、家庭を守り、自分の文学を守りつづけた。
美知子との間には三人の子供が生れ、その幼い子たちを父親らしく戦火から守り通してもいる。
しかもこの間、戦局に便乗するような小説は一篇も書いていない。
 この八年間の太宰を支えたものが、外ならぬ妻の美知子だったことは、いうまでもないだろう。
 終戦後、太宰は一家をあげて疎開していた故郷の金木から、三鷹の家へ引きあげてくるが、この帰京以来、死ぬまでの三年間に、まるで地獄への坂道を一気にかけ下りるような暮し方をした。
 当時の太宰は押しも押されもしない第一線の華々しい流行作家で原稿料は相当入っていたにもかかわらず、そのほとんどは外で取り巻き連中におごり飲みちらし、家は相変らず三鷹の小さな三間のままで、荒れ放題になっていた。
ファンの太田静子に子供を産ませたばかりか、三鷹の美容師山崎富栄と、三鷹の駅前の富栄の下宿に同棲し、ほとんど家へも帰らず、ついに昭和23年6月13日、富栄と共に、玉川上水に投身して果ててしまった。
 戦後の太宰の行動を見ると、妻の美知子の受けた苦痛ほど悲惨なものはないだろう。
 太宰の戦後の行動だけで、まるで美知子は太宰から全く愛されていなかった妻、或いは、気の合わなかった妻のように考えるのは早計である。
太宰の生涯にかかわりあった女たちの誰よりも、聡明で、誰よりも太宰の文学と人とを理解していたのは、美知子であり、それを識っていたのは太宰だった。
  新潮社版の太宰の選集の解説を美知子が書いているが、それを見れば、美知子の聡明さと、人となりが自ら理解出来る。
太宰はこの妻を生涯尊敬していたし、誰に対してもよりも深い感謝と贖罪の気持を抱いていた。
その太宰の気持は傑作「ヴィヨンの妻」となってあらわれ、「斜陽」の主人公のマリアのよう妻となって永久に遺されている。
  真に不幸せだったのは最初の妻初代ではないだろうか。
初代は青春の日に太宰に、見出され、彼の不遇時代、パピナール中毒時代の狂気時代のすべてをつきあわされ、度々の自殺さわぎに心肝を寒くさせられつづけながら、報われたものは、自分の行為を棚にあげた太宰からの不貞呼ばわりであった。
初代は太宰と別れた後も幸福にはならず、昭和19年青島で淋しく逝っている。
 太田静子は太宰の遺児治子を得、山崎富栄は、太宰の死を共にしている。
それぞれ、何等かの形で、太宰に愛された女たちは不幸な運命と共になぐさめと栄光を与えている。
にもかかわらず、初代だけは、不貞の妻として作品に書きのこされ、その無知を天下に示されただけで、太宰の不遇時代の彼女の献身は実際の何分の一も書きのこされていないような気がするのである。
しかし、わずかに「姥捨」の初代は、初代の純真さと、生きようとする自然な人間らしさと、生まれながらの果敢さなどを示しているのが、初代の霊を慰めるであろうか。
   (1967.11「国文学」)
(『文芸読本 太宰治』河出書房新社 昭和50年)