2021年6月16日水曜日

雨が降っているので

出かけようと思えば出かけられるほどの小雨になっていましたが、
雷注意報が出ていて、急に激しい雨になるかも知れないのでのんびりしていました。
何もしていないとごろごろウトウトしてしまうので
プロバイダーのサービス終了でなくなったブログ記事を参考に
2008年2月2日と3日に東京へ旅行した時の記事を少し転記したいと思います。

2008年2月2日
前日に、寝台急行「銀河」(2008年3月15日にダイヤ改正で廃止)に乗って東京に向かいました。
学生の頃は、東京へ大垣発の夜行快速(2021年2月に廃止)でのんびり旅をしていました。
到着して最初に向かったのが目白坂にある永泉寺。
第十章 残された謎、遺された人々
  ●昭和36年(1961)
 春先、卒業生会「お茶の水会」の有志たちは、資金をだしあって、永泉寺の山崎家の墓をたてなおした。
晴弘の眠る古い墓石は角がかけ、かたむいている。
しかも富栄の墓はなく、雨風に黒ずんだ木の墓標があるばかりだった。
 富栄の供養のために、墓には、はじめて彼女の名をいれた。
永泉寺の木立にかこまれた墓地に、御影石のきれいな墓がたった。
信子は、教え子たちの報恩に手をあわせて礼を述べた。
(『恋の蛍 山崎富栄と太宰治』松本侑子 光文社 2009年)
 石の表には、山崎家の墓、裏には、昭和三十六年三月、山崎信子建立ときざまれた。
 側面には、次のように彫られた。

 弘覚院美容創示居士 昭和三十二年一月二十六日   晴弘 七十六才
 秀岳童士      大正二年七月九日       歌子 三才
 清光院篤学超覚居士 昭和三年四月十日       年一 二十才
 義功院輝誉武道居士 昭和十七年四月十日      輝三男 二十七才
 浄月院富法妙栄大姉                富栄
 富栄は、没年月日も、享年も、書かれていない。
 娘のあやまちは永久につぐなわなければならない。
また死後の娘が鞭うたれることのないように、そう願った母の心だった。
 夫と子どもたち四人の墓をたてた信子は、これで私のご用はすべて終わりました、と安堵顔で言うようになり、翌年、八日市町で息をひきとった。
(『恋の蛍 山崎富栄と太宰治』松本侑子 光文社 2009年)
2月3日、外を見ると大雪でした。
雪が降る中を向かったのは禅林寺(三鷹市下連雀)
太宰治のお墓をお参りしました。

桜桃忌は6月19日(太宰の誕生日で、遺体が発見された日)
すぐそばにあるのが森林太郎(森鴎外)の墓。
7月9日に鴎外忌
小川が流れていてこのような川で水死なんて考えられないのですが、当時の玉川上水について、
太宰治の「乞食学生」(昭和15年)には、

川幅は、こんなに狭いが、ひどく深く、流れの力も強いといふ話である。
この土地の人は、この川を、人喰ひ川と呼んで、恐怖していゐる。

(『太宰治全集第3巻』 筑摩書房 昭和51年)

評論家K氏などによって山崎富栄さんは殺人者に仕立て上げられました。
日記を読んでいたら太宰治の首を絞めたなんて思えませんでした。
以下のようにプロフィールが書かれています(絶版になっているようです)。

山崎富栄(やまざきとみえ)

1919年、東京に生まれる。1937年、錦秋高等実業女学校卒業。
父設立の本格的美容学校の後継者をめざす。
ロシア語、英語も習得。
夫修一はマニラ単身赴任、現地召集後、行方不明。
1947年、3月、女友達の紹介で太宰治と知り合う。
6月、修一戦死の報入る。
1948年6月13日深夜、太宰と共に玉川上水に入水、享年28歳。
(『太宰治との愛と死のノート 雨の玉川心中とその真実』山崎富栄著 長篠康一郎編 学陽書房 1995年)

富栄さんの名誉回復に努めたのが長篠康一郎氏です。
そして、松本侑子さんの『恋の蛍 山崎富栄と太宰治』だと思います。