2021年6月21日月曜日

気温が上がるまえに…

今日から緊急事態宣言の解除によって駐車場も開場されるのですが
公園のHPを見ると9時から順次会場となっているので自転車でやってきました。
8時頃にやってくるとまだ暑さもましでした。
帰宅後、眼科を受診したのですが、12時頃になると一気に気温が上がっていました。

父は、明日2回目のワクチン接種なので主治医の診察を受けました。
花の名前を何ていうのだろうと話す声が聞えたので「ユリズイセンだと思います」と話しかけました。
「百合」と「水仙」のようなと花と覚えています。
その方は、園芸種の図鑑を持っているけどなかなか覚えられないし、探すのが大変だと話されていました。
私も園芸種の花は、種類が多く判別ができないし
カタカナの名前の花はなかなか覚えられないですよねと話していました。
カタカナを頻繁に使う方がいますが、なんか、中身がない話だなと思うことが…
(花の名前は、勘違いしたりしている場合があるので鵜吞みにしないでください(^^ゞ…)
ダーウィンが来た!「知らなかった!カタツムリ大研究
本当、知らなかったことがイッパイでした。
カタツムリは、童謡にもなっているのにナメクジは…
正直、私も苦手なんですけど季語になっているのですね!

くらしの季語
 なめくじ

 さて、そこここの人に「なめくじ」という漢字が書けますかと問うて「蛞蝓」とすらすらと書ける人が幾人あるでしょうか。
もしかしたら、これが書けたり読めたりできるのは、歳時記に親しんだ人たちくらいかもしれません。
すらすらとは書けなくてもこの二字をナメクジと読むことはできそうです。
蛞蝓、百足虫(むかで)、蚰蜒(げじげじ)、蛭(ひる)、蚯蚓(みみず)、これらが読めたり書けたりできるようになるのも俳句や歳時記に親しんだ効用の一つかもしれません。
(『NHK俳句 暦と暮す 語り継ぎたい季語と知恵』宇多喜代子 NHK出版 2020年)
 ところがここに挙げたような生きものが目の前に現れたとしたら、どうでしょう。

   蛞蝓といふ字どこやら動き出す  後藤比奈夫

 字を見ただけでにゅるにゅるとした軟体が動きはじめるくらいに気持ちが悪いものです。
ところがこれを季語として一句作ろうというのが俳句で、この豊かな俗の精神こそが他の文芸にはないおもしろいところでしょう。
 日陰のじめっとしたところが蛞蝓の棲家(すみか)です。
姿は見えなくても、通ったあとには銀色の粘液の筋が光ります。
(『NHK俳句 暦と暮す 語り継ぎたい季語と知恵』宇多喜代子 NHK出版 2020年)
昨日は「世界難民の日」と紹介しましたが、

サヘルローズさんのTwitterに

難民という名前じゃない。
彼等には名前がある。

この地球がすべての人類にとって、
帰れる家でありますように。

排除されたり、
国を追われる事のない、
難民という言葉すら使わない地球。

アナタの居場所はどこですか?
アナタにとっての安らぎは?

アナタの優しさが
誰かの居場所になる。

先日、画像だけを紹介した『文芸読本 太宰治』に瀬戸内晴美(寂聴)さんの「太宰治の二人の妻」が載っています。
小山初代(おやまはつよ)は、太宰が荒れ狂っていた時代(?)に翻弄され続けた女性だと思いますし、
もっと評価されるべきではないかと思います。

太宰治の最初の妻、小山初代を悼む法要」(朝日新聞 2019年7月21日)
  太宰治の二人の妻
       瀬戸内晴美
 
 太宰治は三鷹下連雀113番地に住んでいた。
昭和14年9月1日から昭和23年6月13日の死の日までのことである。
 昭和14年1月8日に太宰は杉並区清水町の井伏鱒二氏宅で、夫妻の媒酌により石原美知子と結婚している。
美知子は甲府に住んでいて理学士石原初太郎四女、明治45年生れ、東京女高師文科卒の才媛で、当時は都留高女に在職していた。
明治42年生れの太宰とは、三つ年下で、この時太宰31歳、美知子28歳であった。
(『文芸読本 太宰治』河出書房新社 昭和50年)
  はじめ甲府市御崎町56に新居を構え、後、三鷹に移っている。
この結婚当時のことを、太宰は、
「私はこれまでの生涯を追想して、幽かにでも休養のゆとりを感じた一時期は、私が三十歳の時、いまの女房を井伏さんの媒酌でもらつて、甲府市の郊外に一箇月六円五十銭の家賃の、最小の家を借りて住み、二百円ばかりの印税を貯金して誰とも逢はず、午後の四時頃から湯豆腐でお酒を悠々とと飲んでゐたあの頃である。誰に気がねも要らなかつた。しかし、それも、たつた、三、四箇月で駄目になつた。二百円の貯金なんて、そんなにいつまでもあるわけは無い」(十五年間)
 と書いている。
  この結婚は太宰にとっては再婚、美知子には初婚であった。
 太宰とかかわった女性たちを考える時、まず、誰よりも、この現未亡人津島美知子を挙げなければならないだろう。(津島は、太宰の本姓)
 太宰は心優しく、神経のこまやかな、傷つき易い心と、思いやり深い心の持主であるにかかわらず、愛した女性のすべてを不幸にする妖しい運命の星に生れついているようである。
  太宰の最初の妻は小山初代といって、もと青森の芸妓だった。
玉家という家で紅子という名で出ていたのを、当時19歳の弘前高等学校の学生だった太宰が見そめて初恋のような恋をした。
三年間のつきあいの後、初代は上京した太宰を追って家出してきた。
昭和5年の秋のことで、太宰22歳、初代19歳であった。
「そのとしの秋に、女が田舎からやつて来た。私が呼んだのである。Hである。Hとは、私が高等学校へはいつたとしの初秋に知り合つて、それから三年間あそんだ。無心の芸妓である。私は、この女の為に、本所区東駒形に一室を借りてやつた。大工さんの二階である。肉体的の関係はそのとき迄いちども無かつた。長兄がその女の事でやつて来た。七年前に父を喪つた兄弟は、戸塚の下宿のあの薄暗い部屋で相会うた。兄は急激に変化してゐる弟の兇悪な態度に接して、涙を流した。必ず夫婦にしていただく条件で、私は兄に女を手渡す事にした、――略――手渡すその前夜、私は、はじめて女を抱いた。兄は、女を連れて、ひとまづ田舎へ帰つた。女は、始終ぼんやりしてゐた。ただいま無事に着きました、といふ事務的な堅い口調の手紙が一通来たきりで、その後は、女から、何の便りもなかつた」(東京八景)
 ところが、それから間もなく、太宰は、そんな大騒ぎの末、初代という許婚者が出来たにもかかわらず、銀座裏のバーカフェーホリウッドの女給田部(たなべ)シメ子(夫は無名に画家)と江の島袖ケ浦の海に投身心中をくわだてた。
女はひとり死に、太宰は救われて鎌倉恵風園に収容された。
このため自殺幇助罪に問われ、起訴猶予となっている。
この事件は「道化の華」に創作化されたが、太宰にとって一生拭うことの出来ない心の傷となって残された。
まるで幸福になること、平安になることを怖れるように、太宰はこれからの生涯は自ら需て、破局へ破局へとの道をかけめぐっていくのであるが、私は太宰の自虐的な生き方を見る時、このシメ子を殺したことに対する罪に意識が、太宰の心の底に根深く存在していて、幸福になる太宰を自ら打ち砕くようにとばかりしむけてきたとしか思えない。
 この女と、心中する前、太宰は上京以来、共産党の非合法運動に熱心に従事していた。
文京地区の行動隊のキャップなどもやっていたらしい。
しかしその仕事に太宰は自分から能力の限界を認め、二重の絶望におちいった。
その挫折感と虚無感から、ふっと、魔に魅いられたように死に憑かれたのである。
 初代は翌年上京して、五反田一丁目に太宰は、はじめて愛の巣を営んだ。
初代は、太宰の心中事件などにこだわらず、幸福な表情で甲斐々々しく働いた。
しかし太宰は女を死なせた後の虚無感で心の底からは幸福になれなかった。
当時を回想し、
「五反田は、阿保の時代である。私は、完全に、無意志であつた。再出発の希望は、みぢんも無かつた。たまに訪ねて来る友人達の、御機嫌ばかりをとつて暮してゐた。自分の醜態の前科を、恥ぢるどころか、幽かに誇つてさへゐた。――略――のほほん顔でHを眺めて暮してゐた」(東京八景)
 と自虐的な筆致で書いている。
 その翌年の七月、太宰は例の非合法運動のため青森警察署に自首している。
初代の過去の汚点を知ったショックからだった。
太宰は初代が芸者をしていても、自分の許に来るまでは処女だと信じ、それは自分への初恋のため守りぬかれたものだと誇っていたのだった。
初代は太宰におだてられ、過去をつい、告白してしまったため、太宰の愛を失ってしまった。
それでも太宰は初代と何とかやって行こうと努力はするがまたしても初代の裏切りを知る。
それは結婚後八年めの昭和十二年だった。
太宰はそれまでの八年間は、青森の実家から仕送りをうけながら、学校へもほとんど出ず、小説の発表だけを目当てに悪戦苦闘していたが、ほとんど報いられていなかった。
その間、鎌倉で一人自殺しそこなったりもしていた。
そんなあげく、初代が、二人の知人と肉体的な間ちがいをおこしたことを聞かされてしまったのである。
その結果、二人は水上へゆきカルモチン心中をはかったが、未遂に終った。
太宰はそれを「姥捨」という作品に書いた。
 水上から帰って、太宰は遂に初代と離婚している。
(『文芸読本 太宰治』河出書房新社 昭和50年)

つづく…