2021年6月20日日曜日

少し曇っていて

天気予報を見ていると、最高気温が30度になっていたけど
朝は、少し曇り空で、昨日の雨のおかげで涼しかったです。

今日は「父の日」ですが、「世界難民の日」でもあります。
 UNHCR駐日事務所のTwitterに

今日、6月20日は #世界難民の日
世界各地で故郷を追われている人に想いを寄せてー
UNHCR親善大使 #MIYAVI からのメッセージです。

#難民とともに
 安田菜津紀さんのTwitterに

国会が閉じてしまった。
この事件はまだ、何も明らかになっていない。


「この国の崩れ方がここまできてしまったのか」―入管はなぜウィシュマさんのビデオ映像を開示しないのか〟(Dialogue for People 5月18日)
こちらではほとんどニュースになっていないようだけど
北谷町議会が“重要施設周辺の土地規制”法律廃止を求め意見書」(NHK 沖縄 6月18日)
意見書では、法律について、「基地周辺で暮らす住民のみならず、
その土地の利用者をも調査・監視できるような内容だ」としていて、
町民や町で働く人の多くが監視の対象になると懸念を示しています。


日曜美術館「丸木位里・俊『沖縄戦の図』 戦争を描いてここまで来た・佐喜眞美術館

佐喜眞美術館で小野正嗣さんが、絵の前に立って言葉を失っていた気持ちがわかる。
私もたずねて見ましたし、館長の佐喜眞道夫さんの話も聞かせてもらいました。
館長あいさつ「もの想う空間へ」

6月23日は「慰霊の日」ですが、元は22日だったそうです。

戦後75プロジェクト 沖縄と戦争」(沖縄 NHK)
 太宰治の小説に出会う前に読んでいた本。
旧制高等学校の青春群像を描いた『ああ青春 デ・カン・ショ 旧制高等学校物語』に太宰治が描かれていました。
そして、小山初代とのことが書かれていて、
後になって太宰が初代のことを書いている作品等を読むと哀れに思ったものです。
4 孤独…友情…思索 ―― 人生いかに生くべきか
 太宰治の孤独な高校生活


 昭和2年4月、太宰治(本名津島修治)は、青森中学四年修了で、弘前高校に入学した。
新入生は一応寮生活をする規則になっていたが、太宰は入寮しないで、遠縁にあたる市内富田新町の藤田豊三郎方に止宿して通学した。
 入学当時の彼は、津島家の期待をになう秀才として、かなり勤勉な生活を送っていた。
しかし、同級生のほとんどが放歌高吟、青春を謳歌しているときでも、彼は超然として、それとは別のところで孤独に生きていた。
(『ああ青春 デ・カン・ショ 旧制高等学校物語』ノーベル書房編集部編 昭和44年)
  7月、芥川竜之介が自殺した。
デリケートな精神を持つ太宰のとって、恐らくそのニュースは、大きな衝撃となったに違いない。
彼は、高校生活を、単純な青春の謳歌として受けとることができなかった。
 太宰は、義太夫を習いはじめ、服装も凝り、また青森や浅虫温泉の料亭にしげしげ通いはじめた。
和服を好み、父親からもらった上等の着物を着、角帯をしめ、白たびをはいた。
またモミ裏のマントは、特別に大きな広い襟にあつらえ、その襟に黒のビロウドを張り、胸はダブルにし、金ボタンを七つずつきっちり並べたものであった。
――彼は、こうした独特の貴族趣味を持っていたが、その生活感覚とは別次元のところでは、進歩的な左翼思想を持っていた。
 彼の実家は、当時、青森県で二番目といわれる大地主であったが「先祖が農民たちから搾取して財をなしたのだ」と信じこみ、金持ちの伜であることを誇るどころか、逆にこれ恥じ、その贖罪的な意識から左翼に走ったようである。
太宰は、農民たちの味方として、親兄弟を敵に回しても闘う構えであったが、それでいて農民たちの趣味の悪さ、無神経さ、了見の狭さなどを敏感に感じるため、感覚的にはついていけないものを感じるのであった。
 高校2年の5月、太宰は同人雑誌『細胞文芸』を創刊しその主幹となった。
そして「無間奈落」「股をくぐる」等の作品を発表した。
また自分たちが体験した学校ストライキをテーマにした百三十枚の長編「学生群」を、県下の文芸雑誌『座標』に連載した。
 「プロレタリア独裁。それには、たしかに、新しい感覚があった。金持は皆わるい。貴族は皆わるい。金のない一賤民だけが正しい。私は武装蜂起に賛成した。しかし、私は賤民ではなかった。ギロチンにかかる役のほうであった。私は十九歳の、高等学校の生徒であった。私はカルモチンをたくさん嚥下したが、死ななかった」(「苦悩の年鑑」より)
 太宰は、すでに青森の芸者、初代と知り合っていた。
そのせいか、下宿の部屋は、つねに小ぎれいに片づいていて、欄間には色とりどりの小面を飾り、茶と緑と黒の縦じまの三色の壁紙を貼り、鏡台が置かれ、三味線があり、コタツには緋縮緬の布団がかけてあって、幻想的でなまめかしい感じのするものであった。
 こうした生活の反面、彼にはいくら矯正しようとしてもうまくゆかない津軽弁の悩みがあった。
ことばの不器用さを人一倍意識した。
標準語を話す友人と語るとき、自分のなまりのひどさ、発音の悪さに絶望した。
聞く人がそれほど気にもかけていないときでも、彼は「ああ、またチをツと発音した。シをスといってしまった」と嘆き、激しいコンプレックスに陥るのであった。
 生活の美に対する鋭い感覚、社会の矛盾に対する強い意識――この二つが相離反するものとなって、彼の内側でいつも同時に激しく葛藤していた。
 人生と青春に、はじめて本格的にぶつかる高校時代を、太宰治は、そのするどい神経ゆえに、悲惨なくらい真剣に、孤独に生きたのであった。
(『ああ青春 デ・カン・ショ 旧制高等学校物語』ノーベル書房 昭和44年)