2018年10月14日日曜日

ノンビリと歩けましたが…

今朝も少し雲が多かったけど穏やかな天気でした。
今日は「鉄道の日 機関車をぴかぴかに
大和猫さんのTwitterにも可愛い猫たちが電車に乗ってお出かけしていました。
終戦直後の乗車風景みたいですが(^^ )
長い尾羽は何のため?
 さて、セキレイの特徴は長い尾羽です。
これはいったい、何か役に立っているのでしょうか?
 地上を歩いて採餌するのに、あんな長い尾はいりません。
同じように水辺で採餌するチドリの仲間が、
ひどく尾が短いのを見ればわかります。
草地で餌を取るヒバリもあんなに長い尾は持っていません。
 これについて完全な答えはないのですが、私が観察していて気づいたのは、
セキレイが時折見せる、空中での不思議な機動でした。
 セキレイは昆虫を空中で補食することがあります。
それ自体はいろんな鳥が行うのですが、
普通、こういったフライングキャッチは
「サッと飛んでパクってくわえて戻る」というものです。
ですが、セキレイはそれだけでは済まない、
昆虫との執拗な空中戦を繰り広げることもあります。
 地上を歩いてたキセキレイがサッと顔を上げると、羽ばたいて飛び立ちました。
ほんの数メートル飛ぶと、空中で何かを狙うように口を開けて急旋回しています。
双眼鏡を向けると、狙っているのはどうやらカゲロウ。
カゲロウは速く飛ぶことはできませんが、フラフラと上下しながら不規則に飛び、
捕まえろと言われたらそれはそれで苦労しそうな昆虫です。
(『鳥類学者の目のツケドコロ』松原始 ベレ出版 2018年)
カゲロウに襲いかかったキセキレイは1撃目をかわされ、
翼を開いて急旋回しながら、さらにカゲロウを追いました。
2度、3度と旋回するうちに、どんどん速度が落ちてきます。
ついに、セキレイは体をほとんど垂直にして、
羽ばたきだけで体を空中に浮かせている状態になりました。
 この状態では翼や尾羽の空力的な効果で飛行方向を変えることはできません。
尾羽を舵として使うには、それなりの速度で空気を当ててやらなければいけない……
ということは、ある程度の速度がないと操縦ができないからです。
ところが、このとき、セキレイは尾羽を大きく回すように振ったのです。
途端、おそらくその反動で、セキレイの胴体が反対方向に回転しました。
次に尾羽を振ると、またその反動で体の角度が変わりました。
そして首を伸ばしてくちばしを突き出すと、見事に餌を捕らえました。
(『鳥類学者の目のツケドコロ』松原始 ベレ出版 2018年)
このエピソード的な観察だけでは実証的な研究とは言えませんが、
彼らの尾羽は、フワフワと飛ぶ昆虫を追って超低速で方向転換をするとき、
反動を利用して体を回すための
カウンターウェイト(釣り合いをとるための重りのこと)として機能しているではないか、
と想像しています。
このような姿勢制御は宇宙機で用いられることがあります。
例えば2005年に小惑星イトカワに到達した探査機「はやぶさ」は
姿勢制御用にリアクション・ホイールという装置を積んでおり、
円盤を回転させる反力で姿勢を変化させていました。
普通、鳥は飛行機と同じく、翼や尾羽を使って空力的に姿勢を制御していますが、
十分な風圧が期待できない状況では、反動を利用した姿勢制御を行うのかもしれません。
(『鳥類学者の目のツケドコロ』松原始 ベレ出版 2018年)
キジバトが、フラフラしながら渡っているなと思ったら…
左足が不自由のようでした。

  電線にいこふきじばと糞するとはつかにひらく肛門あはれ  
                 高野公彦(たかのきみひこ)『水行(すいこう)

 感覚の冴えたみずみずしい歌を作る高野公彦であるが、
いっぽうでこんなおもしろい歌も作る。
電線に止まっている雉鳩を見上げている。
と、その肛門が「はつかに」(かすかに)開き、糞が落ちてきたというのである。
まことに何の意味も含みもない歌だが、こんなところを面白がって見ているのかと、
私たちは、作者の視線そのものに新鮮な驚きを感じるのである。
「はつかにひらく肛門」は実に的確な把握であるが、
それを結句で「あはれ」と詠い納めるところに、
どこかほのぼのとした温かさをも感じることになるだろう。
(『現代秀歌』永田和宏 岩波新書 2014年)
今日も競技会が乗馬苑で行われていました。
馬が貴人の乗用としてまた軍馬・駄馬としてさかんに用いられるようになると、
諸国に牧が開かれ、育馬が奨励された。
大宝令には厩牧令(きゅうぼくりょう)が定められ、
また駅馬や伝馬(てんま)の制もととのった。
朝廷では信濃・甲斐・武蔵・常陸・上野等の牧から貢進される馬を、
毎年八月に天皇が閲する駒牽(こまひき)の儀式が行われた。
東国の火山灰地は馬の放牧に適していたので良馬を多く産出し、
武家時代に入ると馬術にすぐれた関東武士が生まれた。
馬術に大坪流をはじめ多くの流派が生まれたのは室町時代以降のことである。
そのころに来日したヨーロッパ人は日本の馬がヨーロッパの馬にくらべて
体躯は矮小(わいしょう)で醜く、調教も行届いていない。
とくに集団行動の点ではるかに劣っていると指摘している。
(『日本史小百科14 動物』岡田章雄 近藤出版社 昭和54年)
天正19年(1591)インド副王の使節として来日した宣教師バリニヤーニが
豊臣秀吉にアラビア馬一頭を献じたが、
それにくらべて秀吉の厩舎の中の最良の馬でも駄馬に類するものだったと記されている。
なお武家の邸では、厩舎は床を板張りにした立派な建物で、
来客の接待にも用いられていた。
また厩舎の中では馬を外側に向けて繋いでおいた。
また馬に乗る時に馬の右側から乗るのがふつうだった。
これらのことはヨーロッパ人にとっては奇異な感じを与えた。
ヨーロッパではすでに蹄鉄(ていてつ)が用いられていたが、
わが国では藁沓(わらぐつ)を馬にはかせ、
予備のものを馬につけ、または馬丁が担って行った。
わが国で一般に蹄鉄をつけるようになったのは明治以後のことである。
(『日本史小百科14 動物』岡田章雄 近藤出版社 昭和54年)
今朝の父の一枚です。
今日は、12カットしか撮していませんでした。
撮したいと思える被写体が少ないようです。
風車の広場では、コスモスが満開だろうなと呟いていました。

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申し訳ありませんが,日本語だけを受けつけますm(_ _)m