2020年6月30日火曜日

雨だけど…

いつもは見えるあべのハルカスも見えない…
街の人出はどうなっている?」(NHK)を見ていると、人出が多くなっているなと思います。
雨の日は、街歩きや図書館で資料集めなどをしていましたが…
まだまだ電車に乗って街歩きなどをする勇気がありません(^^ゞ

昨日のグレーテルのかまど「さわやか!シュワシュワスイーツ」(2019年7月放送)に京都の喫茶「ソワレ」が出ていた。
学生時代からたまに入っていたなぁ…
近くにあった喫茶店「みゅ~ず」が学生時代からよく入っていたのだけど2006年に閉店してしまった(T_T)
そして、今日は、八坂さんなどで夏越の祓があるんだけどなぁ(2016年6月30日の記事
6月30日
 秋田県花岡(はなおか)で中国人労働者が蜂起した。 1945(昭和20)年

 「どうせ死ぬ。でももう補導員の虐待(ぎゃくたい)はがまんできない。」――秋田県大館(おおだて)市にあった鹿島組(かじまぐみ)花岡出張所中山寮の中国人労働者約800人は、人間扱いしない鹿島組の使い方に怒りを爆発させ、この日の夜10時ごろ蜂起し、鹿島組の補導員4人とスパイだった中国人1人を殺して逃げた。
彼らはみんな強制的に日本に連れてこられ、冬でもシャツ1枚と1日に茶わん1ぱいの腐ったような食物で毎日働かされた。
病気で次々に仲間が死んだ。
リンチも頻繁(ひんぱん)におこなわれ、まっ赤(か)に焼いたレールを両足の間に入れられて殺された仲間もいた。
 しかし、蜂起は失敗し、逃げて近くの獅子(しし)ヶ岳(だけ)にたてこもった仲間約300人も、警察や消防団など述べ2万人の山狩りでつかまった。
彼らは拷問(ごうもん)で200人以上が殺され、この地に連れて来られた中国人986人のうち418人が死んだ。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
聞き書き 花岡事件 増補版』(1992年刊)より「あとがき」と「増補版に当たって」(前半部分)を転記しますφ(..)
なお、2000年11月29日に和解が成立しています(問題もあるようですが)。

花岡事件 和解の経緯と意義」(鹿島花岡訴訟弁護団長:新美隆)
  あとがき

 花岡鉱山に強制連行されてきた中国人たちは、日本が敗戦になった昭和20年の暮れに帰国したが、24人だけは花岡事件の横浜裁判の証人として日本に残された。
しかし、昭和23年に裁判が終わると20人は中国に帰ったが、4人はそのまま日本に残った。
そのうち3人が北海道の札幌市にいるのをようやく探しあて、訪れて話を聞くことができた。
3人とは、李振平・林樹森・劉智渠さんである。
この時に聞いた話をまとめて、昭和50年に『花岡事件の人たち――中国人強制連行の記録――』を評論社から刊行した。
(『聞き書き 花岡事件 増補版』野添憲治 御茶の水書房 1992年)
 だが、これでわたしの花岡事件は終わりを告げたわけではなく、その後も花岡事件を調べる作業は続けてきた。
その作業の一つとして、昭和26年に刊行されたまま行方不明になっていた『花岡ものがたり』の版木を、水戸市で探しあてて昭和56年無明舎出版から刊行することができた。
また、昭和57年1月27日に国立国会図書館が、米国立公文書館が所蔵しているGHQ(連合国軍最高司令部)の日本占領関係文書を公表したが、そのなかにGHQ法務局作成の「合衆国第8法務官による横浜B、C級戦犯裁判再審査」と題された文書があり、花岡事件に対する判決が妥当かどうかの法務官による評価、再審査、第8軍司令官への勧告のほかに、起訴理由、罪状認否、判決、証拠と証言の概要などが、英文で110ページわたって記録されていた。
花岡事件の裁判過程については日本にほとんど資料がなかっただけに、この事件を考えるうえで貴重な資料である。
 こうした動きのなかで、昭和56年11月24日の夜に放送されたNHKラジオ第一の「あの時わたしは」という番組に、「昭和20年・花岡事件」と題して出演したが、わたしも花岡事件と小さなかかわりを持っていた。
秋田県山本郡藤琴村(現藤里町)に生れたわたしは、太平洋戦争がはじまった昭和16年4月に国民学校へ入学したので、花岡事件が起きた昭和20年6月30日は5年生であった。
花岡鉱山にいる中国人の俘虜(ふりょ)が暴動を起こし、わたしの村にも峰伝いに逃げてきたという話が伝わった。
その中国人たちは、山菜取りに行った娘を炭焼き小屋で焼いて食べたとか、農家から牛や馬を盗んで食ったという話が伝わり、村の人たちは恐怖におののいた。
日中は男たちが、鎌や竹槍を持って山狩りに歩き、暗くなると集落の入り口に焚火をして夜警にあたった。
わたしたち子どもも、寝る時は枕元に鉈などを置き、いざという時はいつでも手に持てるようにした。
こんな日が二日ほど続いて、二人の中国人が捕えられた。
その翌日、中国人を見に来るようにという連絡があったらしく、わたしたち分校の5年生以上の生徒たちが、4キロも離れた本村へ見に行った。
二人の中国人は両手をうしろ手に縛られ、役場前の広場に坐らされていたが、その周囲を列を組んで歩きながら、先生の号令に合わせて、
 「チャンコロ!」
 「人殺し!」
などと叫びながら、何どもまわった。
 これがわたしの花岡事件の体験なのだが、のちに花岡事件のことを知った時に、わたし自身も加害者の一人だったことを知らされた。
子どもが先生に引率されての行動だったでは許されることではないと、わたしは自分に言い聞かせた。
そう気付いてからわたしの花岡事件への取り組みがはじまり、中国人強制連行から花岡事件の概略を語って、わたしが出演した番組は終わった。
 だが、放送のあった晩は集会があって外出していたし、その翌日から三日間は仙台に行っていたので、留守番電話にしておいた。
帰ってからメモをとって聞いたが、その反響の大きさに驚かされた。
電話のほとんどは、花岡事件があった当時、わたしも花岡町や花岡鉱山にいたので、放送を聞いていて当時を思い出したというもので、電話番号までも録音してくれている人もいた。
 だが、二本だけ、これはと考えさせられるのがあった。
一本は女性からで、うちの息子が勤めている会社の悪口を言うのはやめて欲しい。
それでなくとも不景気なのに、さらに悪口を言われて会社の不景気が強まり、生活に困るようになると、あんたはどうするのかという内容のもので、キンキンした声が響くように録音されていた。
 もう一本は、これも初老ごろと思われる男からのもので、大館の人はあのいまわしい事件を忘れたがっているのに、いまごろになってほじくり出すとは何事だ。
お前は鉱山や大館市に何か恨みでもあるのかという内容で、かなり憤慨しているのが口調からもわかった。
数日後にNHKから受けた知らせでも、仙台や東京にも同じような内容の電話があったという。
わたしにかけてきた方と同一の人物なのかどうかわからないが、このなかには花岡事件を地元の人たちがどのようにとらえているかという一つの面が、かなり明確にあらわれていないだろうか。
 37年前に花岡鉱山で発生した花岡事件は、地元の人たちにとってはいやな思い出であり、再び思い出したくないという心情はわからないわけではない。
だからといって一方的に、歴史的な事実を事実として語っているのに対して、自分の息子の勤める会社の悪口を言われるのは困ると、自分の家の損得だけを中心に考えたり、思い出したくない事件を思い出させるのはけしからんとだけ考えたりするのは、どういうものだろうか。
それでは強制連行のなかで、花岡事件のなかで犠牲となった人たちは、どうなるのだろうか。
正直いって、魂も浮かばれないのではなかろうか。
 だが、電話番号まで教えて下さった方に電話を入れると、実に詳しくその当時のことを記憶しており、訪ねてくればいくらでも教えるという人が、北は北海道から南は大阪まで10人近くいた。
戦時中に花岡鉱山や花岡町で暮した人たちであり、〝臭い物には蓋をする〟という考え方をする人たちではなかった。
いまは花岡を離れて暮らしているという、生活環境の変化もあるだろうとは思うが――。
 また、NHKやわたし宛に、ラジオを聞いた人たちから手紙ももらった。
やはり、当時花岡で暮していた人たちで、便箋に13枚も書いてきた人もあったし、体験したことをテープに録音して送ってくれた方もあった。
こうしてつくられた20人近い名簿を手にして、花岡事件を掘り下げるわたしの旅が、またはじまったのだった。
 連絡のついた方々を訪ねて話を聞きながら、わたしの知らない事実が、次々と出てくるのには驚いた。
それはわたしが知らないだけではなく、これまで刊行された著書や調査報告書にもないものだった。
花岡事件に関する資料が少ないだけに、こうした証言の集積によって、花岡事件がいっそう真実に近づいていくのはありがたかった。

 中国人強制連行を含めて、花岡事件は風化していると一般にいわれているし、そうした風潮をわたしも数多く見てきた。
しかし、体験者たちのほとんどは、自分の心や体のなかでは決して風化させていないことを、今回の証言者を訪ねる旅で知らされた。
だが、一人ひとりのなかでは風化していないが、個人のこうした体験がよりあわされて太い柱になり、社会的な広がりをおよぼしていくということはないのだ。
体験はあくまでも個人の内部で、生き続けているのである。
 また、敗戦後37年になったいまでも、中国人強制連行や強制労働の実態は、いまだに明らかになっていない部分が非常に多い。
そこには、いやなことは思い出したくないという日本人の心情もあるし、日本の政府そのものが、その実態を覆い隠す政策よりとってこなかったからでもある。
地方自治体や企業にしても同じである。
 だが、果してこれでいいのだろうか。
調べていけばいくほど、中国人強制連行と花岡事件に関しては、「戦後は終わった」などとはいえないのだ。
「いまさら過去をほじくり出して何になるのだ」という、物事をあいまいにしたまま処理していこうとする日本人の思考や意識が、戦争という深い痛手を全身にあびながらも、再びまた同じ道を進もうとする風潮をつくり出している根源にあるのではなかろうか。
靖国法案、日の丸、教科書批判、軍備増強という形をとおして、戦争は確実に忍びよってきているのだ。
 こうした時代を、わたし自身ももう一度考え直してみると同時に、多くの人たちも考えてもらいたいという意味をこめて、新しい資料をもとにして、前に出版している『花岡事件の人びと』とは違った形で、花岡事件を書こうと思いはじめた。
しかも、花岡事件の起きた地元・大館市の地域紙である「北鹿新聞」が、連載してくれるということになったのだから、これもわたしには驚きだった。
これまでだと、考えられない出来事だったからである。
そして「聞き書き・花岡事件」と題して、昭和57年6月30日から10月27日まで、118回にわたって連載されたのだった。
それだけに企画から連載が終わるまで、内外の批判に耐えて連載を続けさせてくださった北鹿新聞社編集局の小松宰・加賀谷勝の両氏には、心からお礼をいたします。
また、編集局の方々にも、写真撮影や資料集めなどにご協力をいただいた。
 本書は、北鹿新聞に連載したものに、若干の加筆をしたほか、構成にあたっては、無明舎出版の安倍甲に全面的な協力をいただいた。
また、手紙や録音テープを送って下さったり、名前は出せないがといいながら勇気を持って証言して下さった多くの方々にも、ありがとうございましたと言わせていただきます。
  1983年2月10日
         野添憲治
  増補版に当たって

 戦争が終結したときにおこなう後始末を「戦後処理」というが、同じに「戦後補償」も、戦後処理のひとつである。
この戦後処理のやり方にその国の民度が見られるといわれるが、中国人強制連行を象徴する「花岡事件」に対して日本政府や中国人強制連行者を使用した企業は、サンフランシスコ条約や日中共同声明などの個別条約で、戦後処理はすでに解決済みだと押しとおしてきた。
しかし、これは国家と国家の取り決めであり、被害を受けた個人や企業の補償交渉はこれに違反するものではないと中国政府の高官が発言しているのに、これを無視しつづけてきた。
日本は中国へ侵略をはじめた時から民衆を踏み台にしてきたが、長い侵略の歴史が終わったあとも、戦後処理を自らの手でおこなわず、むしろそれから逃げる姿勢をとってきた。
いや、戦後補償を放棄し、それで敗戦後の自国の経済を発展させるというように、幾重にも民衆を踏み台にしてきた。
 だが、ドイツは敗戦、政府首脳は過去の克服の必要を素直に語り、具体的に補償も実施している。
また、戦勝国のアメリカやカナダも、戦時中の日系人強制収容に謝罪し、補償の支払いをおこなっている。
この日本とのあまりにもきわだった対比は、民度の低さ以上に、人間として生きる姿勢のなかにこそあるのではないか、と思わされることもしばしばである。
(後略)

(『聞き書き 花岡事件 増補版』野添憲治 御茶の水書房 1992年)

野添さんは「民度」という言葉を使っておられます。
どなたかも使っていましたが、この言葉の正しい使い方だと思います。

みんど【民度】
その地域に住んでいる人びとの経済力や文化の程度。
(『新明解国語辞典<第四版>』山田忠雄〔主幹〕他編著 三省堂 1997年 )

政府や東京の現知事、大阪の知事・市長、名古屋の市長は加害の歴史をないものとしているようです。

そんなことを考えていたら
一水会のTwitter

高須克弥院長、河村名古屋市長が旗振り役の大村愛知県知事リコール運動。
ハガキは「日本を普通に愛する皆さん」と呼びかけるが、愛国心とは行政に「普通」を規定されるものではなく、個々人の内心から湧き起こる切実なものではないのか。
事の根本は大いに議論が必要だが、おためごかしに違和感がある。
気になっていたニュース
Agnes Chow 周庭さんのTwitter

私、周庭は、本日をもって、政治団体デモシストから脱退致します。これは重く、しかし、もう避けることができない決定です。
絶望の中にあっても、いつもお互いのことを想い、私たちはもっと強く生きなければなりません。
生きてさえいれば、希望があります。
周庭
2020年6月30日

本当に「生きてさえいれば、希望があります。
生きていてください!

追記)
沖縄のことはこちらではニュースにならないようですが
宮森小墜落事故の写真展」(沖縄 NHK)