2020年6月13日土曜日

雨が降りそうだったけど

天気予報を見ていると雨を覚悟していたのですが、傘をささずに歩けました。
カメたちが日光浴をしたいよと首を長くしていました(*´▽`*)

週末は土日とも雨」(えりの気象日記 6月12日)
 甲羅干しともいわれるこの日向ぼっこ、実はカメにとって、とても大切なことなのです。
その理由は三つ挙げられます。
① カメは爬虫類で外温性の動物なので、哺乳類や鳥類とは違い、自ら体温を作り出すことはできません。
日光を浴びることで体温を上げたり、逆に水や泥に潜ることで体温が上がり過ぎるのを防いだりしています。
行動によって、体温を調整しています。
② 日光に含まれる紫外線を浴びることで、ビタミンDのもとになる物質を合成し、カルシウムを吸収しやすい状態にして甲羅を硬く維持しています。
③ 甲羅や皮膚についたヒルなどの寄生虫や藻の繁殖を抑える効果があると考えられています。
 ちなみに、甲羅は乾くと白っぽく見えます。
(『かめの ひなたぼっこ』越智典子文・金尾恵子絵・小菅康弘監修 福音館書店 2011年)
今朝になってドイツ大使館の6月12日のツイトを知りました。

1942年の今日、アンネ・フランクが日記を書き始めたことから、6月12日は #アンネの日記の日 です。
ドイツでは過去を決して忘れることのないよう、ほとんどの学校の授業で子供たちがこのアンネの日記を読みます。
またドイツにはアンネ・フランクの名がついた学校も多く存在します。


アンネの写真
はじめての日記帳
             1942年6月12日
 あなたになら、これまでだれにも打ち明けられなかったことを、なにもかもお話しできそうです。
どうかわたしのために、大きな心の支えと慰めになってくださいね。
(『アンネの日記 完全版』アンネ・フランク著 深町眞理子訳 文春文庫 1994年)
一方日本はどうでしょうか?

大阪で人気のある政党。
民放がこぞって知事を出演させている。
都構想の地ならしでしょう。

大阪人権博物館をゆかりのある地から追い出し

大阪国際平和センターの展示物から
同センターは15年のリニューアルで、旧日本軍の加害に関する従来の展示をすべて撤去した。
「ネガティブ、偏向」と補助削減 展示に口出しする維新 朝日新聞)

サンフランシスコとの姉妹都市を解消
大阪市の姉妹都市解消にサンフランシスコ市が反応「1人の市長が人々の間に存在してきた関係を一方的に終わらせることはできない」〟(錦光山雅子 HUFFPOST 2018年10月5日)

過去に向き合うことを拒否する。
表現の自由を擁護しようとする愛知県の知事を批判する。
大村秀章愛知県知事も故翁長雄志沖縄県知事も自民党の党員だった。
気骨のある党員は、排除される。
6月13日
 本居宣長(もとおりのりなが)が『古事記伝』を完成した。 1798(寛政<かんせい>10)年

 この日、宣長は伊勢松坂の鈴屋(すずのや)で『古事記伝』第44巻の清書を終えた。
『古事記』の研究にとりかかってから、35年間もかかったこの仕事は、こうしてついに完成した。
9月13日の夜、宣長は協力してくれた門人や家族とのお祝いの会をひらき、「古事記をよめば、まるで古代の人々のようすをたずねたり、みたりきいたりするかのようだ」という意味の歌を作って、みんなとよろこびをわかちあった。
 1790年から名古屋の永楽屋(えいらくや)によってはじめられた出版がようやく終ったのは、宣長が死んで21年後の1822年のことであった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)

本居宣長記念館
日本文学史序説(下)』より「本居宣長」を抜粋したいと思います。
つながりが分かりにくいと思いますので、是非、本を手に取ってお読みください!
本居宣長
 本居宣長(1730~1801)の画期的な業績は、儒仏の影響の深く及んだ文化のなかで、その影響を離れた日本の土着世界観を、知的に洗練された思想の水準まで高めたということである。
弁証法的用語を借りれば、宣長においてはじめて、土着世界観は、即自存在から対自存在になった、ということもできるだろう。
彼はその思想を、独特の学問(いわゆる「国学」)において、また論戦的な散文や語録の類において、表現した。
彼の学問は、古代神話・土着の信仰・儀式などを仏教または儒教の概念的道具を用いて、無理に秩序立てようとした神道の理論の極端なこじつけとは、全く異なり、古代文献(殊に『古事記』)の精密な歴史言語学的研究と、日本の大衆に固有の文化の核心への深い洞察を含んでいる。
(略)
(『日本文学史序説 (下)』加藤周一 ちくま学芸文庫 1999年)
 松阪に小児科を開業した(1757)宣長は、結婚して離婚し(1760)、再婚し(1762)、二男三女を設け(二男、春庭、春村、はいずれも父にしたがって学者と成る)、ほとんど旅をせず、松阪に住んで、医業の他には著作に専念した。
主著は『古事記伝』44巻(1764~98)、その第一巻に総論を配し、『古事記』の成立・諸本・言語などを説き、彼が『古事記』に読みとった、「真(まこと)の道」(古の道」)を要約する。
その最初の部分が「直毘霊(なおびのみたま)」(1771頃成立)である。
第二巻は『古事記』の「序」の註釈であり、第三巻以下は、本文の註釈である。
宣長の30年以上にわたる語学的考証の成果は、この第三巻以下に集中されている。
その内容は、『古事記』の最初の詳細な註であるという点で、画期的であり、各語の用例を周到に比較検討する実証的な方法の駆使という点で、独創的であり、今日なお『古事記』解釈の出発点たり得るという点で、不滅の業績である。
たとえば解釈の要点の一つは、『古事記』のいうところの「カミ」の概念である。
別の言葉でいえば、大陸文化の強い影響が及ぶまえに、日本の土着信仰の体系のなかで、「カミ」の語が何を意味していたのか、ということになる。
  「さて凡て迦微(かみ)とは、古御典等(いにしへのふみども)に見えたる天地の諸(もろもろ)の神たちを始めて、其を祀れる社に坐御霊をも申し、又人はさらにも云ず、鳥獣木草のたぐひ海山など、其余何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳(こと)のありて、可畏き物を、迦微(かみ)とは云なり」(『古事記伝』三之巻)
 この解釈は、百余年を隔てて、新井白石の指摘に呼応する。
  「カミとは人也。我国の俗凡其尊ぶ所の人を称してカミといふ。古今の語相同じ」(『古史通』巻之一)
 しかし、『古事記伝』の解釈は、『古史通』のそれよりも拡大されている。
宣長は、カミに三種類があるとして、
第一に、『古事記』などにいう天地のカミ、
第二に、人間、
第三に、人間以外の自然物を算えている。
今日も「カミ」という語の意味論は、基本的に、これを超えない(その後の学問がつけ加えたのは、語源的、比較宗教学的および民族学的背景などである)。
(略)
 宣長は、『古事記』のなかに、儒仏の影響以前の土着世界観の原型を見出し、それとの関連において、日本の文化的遺産に新たな意味――美学的な水準での文学的価値、社会的な領域での保守的な寛容――をあたえた。
そのことはまた逆に、儒仏の影響にもかかわらずまさに「まことの心の奥」に生きつづけて宣長の時代にまで到ったところの、土着世界観の持続性を証拠立てる。
けだしこれほどの独創的な歴史的文化の解釈は、松阪の小児科医を訪れた町家や農家のおかみさんたちの心の動き方に鋭い洞察力が発見したもの、しかもそれを自己の「心の奥」に確認したものによって、方向づけられるほかはなかったろう。
宣長が見きわめたのは、彼自身の裡に内在化された日本の大衆であり、彼自身の時代に現在する古代であった。
  「人のまことの心の奥のくまぐまを探りてみれば、みなただ、めめしくはかなきことの多かるものなるを、ををしくさかしげなるは、みずから省みて、もてつけ守りたるものにして、人に語るときなどには、いよいよ選びてよさにうはべを飾りてこそものすれ、ありのままにはうちいでず……」(『源氏物語玉の小櫛』)
 これはおそらく徳川時代を通じてもっとも鋭い社会心理学的洞察であり、日本人の精神における「うはべ」と「心の奥」、たてまえとほんね、意識的な価値と無意識的な心理的傾向、外来の「イデオロギー」と伝統的な世界観との関係を、はじめて明瞭に示した文章である。
彼の思想はここでこそもっとも深く、もっとも正確であり、もっとも遠く彼自身の時代を超えていた。
 しかしその後の国学者が継承したのは、文献学的方法の技術的な面を別にすれば、宣長の体系の弱点である。
その弱点は二つあった。
一つは、神話と歴史との混同であり(したがって天皇制の神秘化)、もう一つは、文化の特殊性と思想の普遍性との混同である(したがってこじつけの著しいナショナリズム)。
後者は同時代の国学者上田秋成との論争にもはっきりとあらわれていた。
(『日本文学史序説 (下)』加藤周一 ちくま学芸文庫 1999年)
今朝の父の一枚です(^^)v
シッポの長いネコちゃん
昨日の〝岩合光昭の世界ネコ歩きmini「ネコアート」「長いしっぽ 短いしっぽ」〟を見ていると
ネコはシッポで感情を表現するようです。
でもシッポの短いネコちゃんに出会う方が多いな…