2020年6月9日火曜日

一日来ないと…


少し風が吹いていたけど暑さが日々厳しくなっています。
水曜日以降は、梅雨前線の影響をうけるようです。
アジサイなどを見ていても晴れ間が続きクタッとなっている。

9日火曜まで晴れ 猛暑日の予想も」(えりの気象日記 6月8日)
6月9日
 加賀の一向一揆が富樫政親を攻めて自殺させた。 1488(長享<ちょうきょう>2)年

 5月、加賀の一向一揆(いっこういっき)は、守護富樫政親(とがしまさちか)を富樫城(現、金沢市高尾町)に攻めた。
やがてこれに能登(のと)・越中(えっちゅう)・越前(えちぜん)の一向宗門徒が加わり、総勢数万人(20万にともいう)の包囲によって、6月9日城は落ち、政親は自殺した。
このとき将軍や隣国の守護が政親をたすけようとしたが、一揆はこれをよせつけなかった。
 一向一揆は武士から農民までさまざまの階層の人々から成り、一向宗(浄土真宗)の信仰によって結ばれた団結のもとに、守護や国人(こくじん)、荘園領主などに抵抗してきたが、守護を滅ぼすことによって加賀を「百姓ノ持(もち)タル国」とした。
それは門徒の合議制によって約百年間つづいた。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)

一向一揆」(中学・高校)
日本文学史序説<上>』「第五章 能と狂言の時代」の続きを転記しますφ(..)
転記していると、こんなことが書かれてあったんだと再確認。
目で読んでいただけでは、頭に入らないなと痛感しています(^^;
 世阿弥に代表される「能」の独創性は、第一に、その表現の経済、第二に、その音楽、第三に、その戯曲としての構造にある。
(『日本文学史序説<上>』加藤周一 ちくま学芸文庫 1999年)
 第一、「能」の脚本は短く(3000字前後)、舞台は小さい。
室町時代の演出法についてはほとんど何も知られていないが、17世紀以後およそ固定したとされる今日の演出では、役者の動作が極度に様式化され、特定のわずかな身振りが特定の行為に対応する。
たとえば長い旅路は、狭い舞台を静かに一周することで、主人公の号泣は、面をいくらか下向けてその前に片手をかざすことで、表現される。
大道具(舞台装置)は用いず、小道具も主人公(シテ)の扇の他に用いることが稀である。
小さい舞台は、観客の想像力によって、すすきの野原となり、海辺となり、宮殿となる。
要するに役者の身ぶりも、言葉も、舞台装置も、およそ芝居の表現手段を最小限度に抑え、観客の想像力の最大限度に訴えて、劇的世界を作りだそうとするのが「能」である。
表現手段の経済をこれほど徹底させた演劇は、日本史の古今に例がなく、おそらく東西に稀であろう。
 第二、その伴奏音楽も、――今しばらくその起源を問わないとして、一管の笛と大小の鼓から成る楽隊の今日の演奏は、独特のものである。
旋律に貧しく、和音の建築的構造を欠く。
ただ複雑な「リズム」が、いわゆる「間(ま)」を生かすのである。
「間」は沈黙であって、鼓の短い強弱と鋭い笛の音とがそのなかに現れては消える音楽的空間である。
能の音楽では沈黙が主役を演ずる。
役者の身体的表現の極端な経済には、また極端に禁欲的な音楽が応じるのである。
 第三、「能」の登場人物は少ない。
典型的な場合には、主人公(シテ)は一人で、主人公の内部の劇の展開にきっかけをあたえる人物(ワキ)が登場するにすぎない。
その主人公は人間としてあらわれ、亡霊に「変身」する。
一人の人物へのこのような集中と、その人物を此岸と彼岸との接点において捉えようとする構造は、「能」に固有である。
此岸と彼岸との接点は、死であるから、このような構図をもつ「能」(いわゆる「夢幻能」、これに対していわゆる「現在能」は、亡霊のあらわれない人間相互の葛藤を描く)の主題は、死に到る情熱、殊に恋と戦いである。
奈良朝以来の仏教の流行にもかかわらず、日本文学、殊にその抒情詩は、此岸的関心に終始するものであった。
13世紀仏教の宗教的超越性も、14・5世紀の仏教の世俗化と共に失われてゆくが、同じ時代に、彼岸への関心に支えられた新しい演劇があらわれたのである。
 このような「能」の特徴は、外来の「イデオロギー」の超越性を前提としなければ説明することができないだろう。
表現上の禁欲主義は、仏教を媒介とする美的価値の転換を、主人公の死後への関心は、仏教のもたらした彼岸思想の浸透を意味する。
世阿弥にあらわれたときに、仏教そのものは世俗化していたのだから、彼の芸術が宗教の影響をうけたというよりも、彼において宗教が芸術となったというべきである。
あるいは仏教の超越的思想が、日本の13世紀には宗教として、15世紀には芸術として、深く受け入れられ、創造的になったということもできる。
そういうことは、全く此岸的な平安朝貴族の世俗的文化の延長上には――たとい連歌の場合のようにそれが大衆の方へ向ってどれほど遠く延長されようとも――、成立し得なかったにちがいない。
「能」、つまり「猿楽」の起源が、貴族の世界とは別のところにあって、はじめて可能であったはずである。
大衆が仏教的であったのではない。
大衆のなかから出て来て、知的上流階級と接することのできた芸術家だけが、仏教の世俗化の潮流のなかで、彼岸思想を人間化し、芸術化し、文学化することができたのである。
 『風姿花伝』以下の世阿弥の理論的著作は、一方で、美的価値を説き、他方で、それを舞台に実現するための役者の心構えと技術的な注意を列挙する。
心構えの要点は、彼が比喩的に「花」と称んだものであり、美的価値の中心は、「幽玄」と名づけたものである。
「花」は「面白きと珍しきと」(『風姿花伝』、「第七別紙口伝」)であり、役者の見せどころという風に理解される。
「幽玄」は、「女御・更衣、または遊女・好色・美男、草木には花の類」(『風姿花伝』、「第六花修に云はく」)の形をいうので、優美という意味にとれる。
「花」および「幽玄」の強調は、世阿弥の美的価値が意識的には平安朝貴族文化の伝統にしたがっていたことを示すだろう。
その理論的著作には、若干の仏教の用語が散見するが、仏教的世界観と戯曲の構造との根本的な対応についての言及はない。
仏教とその芸術との関係は、世阿弥において非自覚的であり、それ故に深かったのである。

(「意識的には」に脇点「、、、、、」。以下同じ)
 世阿弥は、曲を作り、かつ演じたばかりでなく、なぜ「能」について語ったか。
直接の理由は、他の能役者と競争して打勝つための工夫を、一座の継承者に伝えようとしたからであり(『風姿花伝』「第七別紙口伝」は、「立合」のときの戦術さえも語っている)、また足利将軍家の代が変って不遇となり、晩年には佐渡配流(1434~41または42? 理由は不明)ということもあって、おそらく競争者に対し一座の将来を憂えていたからであろう。
しかし根本的には、新しい「能」(「夢幻能」)を作ったので、みずからの芸術を擁護する必要を感じていたからにちがいない。
 「狂言」の今日知られている脚本は、300ほどある(最古のものが17世紀で、およそ200、今日演じられている曲目がおよそ200)。
それによって判断するかぎり、そこには仏教思想の影響はほとんど全くみられない。
それどころか偶像破壊的な要素さえもある。
 たとえば、二人の詐欺師の一人が仁王に化け、もう一人が天から降った仁王に捧げ物をすれば御利益が得られると村中に触れて廻ると、集まった村人のなかの足の不自由な男が仁王の足に触れ、仁王がふき出して終る話(「仁王」)。
また旅の法華宗の僧と浄土宗の僧とが、互いに自宗を誇り、でたらめの宗論をして、それぞれ相手を圧倒するために、「南無妙法蓮華経」と「南無阿弥陀仏」とどなり合っているうちに、法華宗の僧が「南無阿弥陀仏」と叫び、浄土宗の僧が「南無妙法蓮華経」と唱えだすという話(「宗論」)など。
また山伏の加持祈祷の無力を嘲笑した曲もある(「ふくろふ山伏」、「くさびら」など)。
「狂言」役者が僧を滑稽化したために、怒った山法師が役者を傷つけたり、寺院が役者を罰したりすることは、15世紀にあったらしい(『看聞御記(かんぼんぎょき)』、応永31年3月11日の条)。
そういうことからも、「狂言」の法師批判ははじめから厳しかったらしいということが、察せられる。
「大名」または「小名」と従者との話も多いが、そこでも主人側の無知無能による滑稽が強調されている(「萩大名」、「縄綯」など)。
室町時代には、宮廷の「猿楽」で狂言役者が「公家人疲労のこと」を演じて、叱責されるということもあった(前掲、『看聞御記』)。
すなわち「狂言」の世界は、「能」の場合とは異なり、全く此岸的・日常的であり、仏教とは無縁の土着世界観の枠組みのなかで、しばしば権威に対する揶揄を含んでいたということになろう。
 しかし仁王は如来でも菩薩でもない。
「狂言」は決して如来や菩薩についてふざけのではないし、仏教そのものを攻撃したのではない。
無学の法師は滑稽化するが、高僧をからかわず、馬鹿な「大名」については冗談をいうが、「大名」一般には批判を加えない。
室町時代の大衆は百姓一揆で反抗したので、「狂言」で反抗したのではなかった。
「狂言」は『犬筑波集』を作った精神と相通う精神の反映であって、百姓一揆の心情に通じる大衆感情の表現ではない。
 「狂言」がそのもっとも微妙で、聡明な「ヒューモア」発揮していたのは、たとえば夫婦の心理的なかけ引きを語る場面であった。
一例をあげれば、職人とその妻の師匠に対する態度のちがい。
男が久しぶりに訪ねて来た師匠を歓迎しようとするのに対し、女は頼ってきた師匠が同じ町に居坐れば、夫の競争相手としておそるべきだと考え、ごまかそうとする(「塗師」)。
そこでは日常生活の観察が鋭く、小さな笑劇としての構成が見事であった。
このような「狂言」の世界こそは、『今昔物語』(「本朝世俗」)以来の土着世界観が、大衆的な観客の立ち会いのもとで、内容を豊富にし、形式を様式化するとき、どういう方向へ発展し得るかを示していたのである。
 このように「能」と「狂言」との対照は、言語・題材・演戯の様式にとどまらず、実に世界観の対照でもあった。
日本文学史のあらゆる時代に、外来の世界観(ここでは仏教)と土着の世界観とは併存し、それぞれの文学的表現をもっていたが、14・5世紀が特殊なのは、それが「猿楽」の二面性として同じ舞台にあらわれたということである。
二つの世界観が二つの階級に応じていたのではなく、同じ人間の意識の二つの層として存在したということを、これほど鮮やかに示す事実はないだろう。
(『日本文学史序説<上>』加藤周一 ちくま学芸文庫 1999年)
狂言の風刺精神は日本のマスコミではなくなっていると思います。
中沢けいさんのTwitter

野党時代の安倍晋三氏は「そこまで言って委員会」によく出演していた。
自民党総裁から総理大臣になった時はやしきたかじんさんと一緒に温泉入っている番組が放送された。
安倍晋三さんを押し出す時と同じことを維新の吉村洋文さんにやっているのね。


#関西民放5局の偏向報道に抗議します
今朝の父の一枚です(^^)v
一昨日は、咲いているのを探していたのですが
今朝は、ネムノキの花がいっぱい咲いていました。
ネムノキも母が楽しみにしていた花です。

昨日は、父の歯科通院で運転手をしていました。
前は、徒歩で通院できる歯科でしたが、きちんと診てくれなくなった。
(閉院するのか診察日が極端に少なくなったので、緊急の場合対応してもらえない)
9月で89歳になる。
少しでも食事を楽しめるように歯の健康は大事だと思います。
しばらく歯の治療が続きますが、終わっても定期的に診てもらうようにと言っています。