2020年6月11日木曜日

梅雨…

雨だけなら涼しいのだけど、ム~ッとする湿気が辛い…
一方、草花や木々は、生き生きとしていました。

12日にかけて大雨のおそれ」(えりの気象日記 6月10日)
今朝のニュースの中で

大阪河内長野市にあるつまようじ屋さん。
思いついて6日で商品化したそうです。 
菊水産業の専務さんの話

中国武漢の人がエレベーターのボタンを押すのにつまようじを使っている写真を見て
つまようじ屋として、何かできひんかな
負けてたらあかんなみたいなという気持ちになって というのがきっかけです。


つまよじ屋の非接触棒 さあ思う存分つつくがよい

価格567+1=582円は、
567(コロナ)に勝つの意味を込めて1円高い568円に設定したというのもいいですよね。

減少した売り上げを埋めるには遠く及ばないけど
生産を続けることで従業員のモチベーションを上げているそうです。

コロナになってから全然注文がなかったので
ちょっと落ち込み気味だったんですけど
すごく楽しいって
(従業員が)言ってくれました。
できることを考えてやるのも一つかなと思います。


そして
グローブ革で感染防止グッズ」(関西 NHK)
面白いアイデアだなと思いました。
コロナ対応だけでなく、私のように背の低い人には便利だと思います。
6月11日
 応仁の乱で京都の三万余戸が燃えた。 1467(応仁元)年

 昼ころ、中御門猪熊(なかみかどいのくま)の一色(いつしき)五郎の館(やかた)や近衛(このえ)町の吉田神主の住宅が放火されると、おりからの炎天に南風がはげしく吹いていたため、火はたちまち燃え広がった。
軍勢は盗みを働き、住民は逃げ去り、火を消すものもいない。
下は二条、上は御霊辻子(ごりょうつじこ)まで、西は大舎人(おおとねり)、東は室(むろ)町を境として百町余、公家武家の屋敷をはじめ、大小の人家およそ三万余戸を焼いて、京はさながら焼野原と化した。
これは応仁の乱のてん末を記した『応仁記』の6月8日の記事であるが、当時の公家や僧侶の日記のほとんどこれを11日のこととしている。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
応仁の乱といえばすぐに日野富子は「悪女」という言葉が頭に浮ぶ。
発病したのが2011年7月31日でしたが
2011年5月7日に法界寺~鴨長明方丈石~平等院を訪ねたことがあります。
(その時の記録を書いたブログはプロバイダーのサービス終了でなくなっています)
真言宗法界寺
平安後期の永承6年(1051)に日野資業(ひのすけなり)がこの地にあった日野家の山荘を寺に改めたことに始まる。
日野家は藤原氏の流れをくむ貴族で、浄土真宗の開祖・親鸞や室町幕府八代将軍・足利義政に嫁ぎ政務で手腕を発揮した日野富子らを輩出している。


明智光秀もゆかりの地を訪ねたりしていると、世間の評判や俗説を疑うようになりました。
日野富子の悪女説も女性差別から生れた俗説のようです。
陰謀の日本中世史』より「富子悪女説が浸透した三つの理由」を転記したいと思いますφ(..)
富子悪女説が浸透した三つの理由
 しかし、我が子かわいさのために宗全(そうぜん)をけしかけた悪女という日野富子(ひのとみこ)のイメージが現在まで続いたのは、どうしてだろうか。
いくら細川高国(ほそかわたかくに)周辺が富子悪女説を流布しても、世間がそれを受け入れなければ、広まることはない。
富子悪女説が浸透する下地が既に存在していたと見るべきだろう。
(『陰謀の日本中世史』呉座勇一 角川新書 2018年)
 第一に、蓄財に狂奔する富子の評判がもともと悪かったことがある。
前著『応仁の乱』でも指摘したように、富子は私利私欲のためにだけ金儲(かねもう)けに走ったのではなく、富子の莫大な富が傾きかけた幕府財政を支えたという一面もあった。
富子は困窮する朝廷に多額の献金を行っている。
これは本来、幕府の役割だが、応仁の乱を境に衰退した幕府にそれだけの余裕がなかった。
このため富子が肩代わりしたのである。
しかしながら、関所を乱立させて関銭収入を得るなどなりふり構わぬ利殖活動は世間から厳しく非難された。
『応仁記(おうにんき)』成立以前から、富子は守銭奴の悪女というイメージが定着しつつあったのである。
 さらに、明応(めいおう)の政変に荷担したことが、富子のイメージを決定的に悪化させた。
『応仁記』は明応の政変における陰謀家富子のイメージを応仁の乱に遡及(そきゅう)させたのである。
しかし応仁の乱時と明応の政変時とでは、富子の立場・権力は大きく異なる。
明応の政変時には、足利義政(あしかがよしまさ)・義尚(よしひさ)が既に没しており、富子は実質的に将軍家の家長であった。
だが応仁の乱時は、足利義政が政治を行っており、富子の権力は極めて限定的であった。
義政の意向は無視して独自の判断で山名宗全(やまなそうぜん)・畠山義就(はたけやまよしひろ)を取り立てるほどの影響力は、当時の富子にはなかったのである。
 第二に、女性差別の問題がある。
当代一の文化人である一条兼良(いちじょうかねよし)は、富子の求めに応じて、富子の息子にして九代将軍の足利義尚のために政治指南書『樵談治要(しょうだんちよう)』を著し、これを献じた。
その中の一節に、女性が政治を行うことの是非を論じているものがある。
兼良は、昔から女性が政治を行うことは良くないとされているが、優れた女性が政治を行うのは問題ないと説いている。
言うまでもなく、これはスポンサーである富子への阿(おもね)りである。
兼良の主張からは、逆に、女性であるにもかかわらず幕政を牛耳る日野富子への反感が世間に強かったことが分かる。
富子の行った政策が良い悪い以前に、女性である富子が政治を行うだけで「悪女」と見られてしまうのである。
 必ずしも富子は権力欲の権化ではなく、富子が権力を行使するようになるのは、文明(ぶんめい)8年(1476)に富子の兄の日野勝光(ひのかつみつ)が亡くなってからである。
足利義政が次第に政務への意欲を失い、息子義尚がまだ若く、義尚を補佐する人材も不足しているという状況では、富子が政治に関与せざるを得なかったのである。
だが世間はそうは見ないし、後世の人間もまたしかり。
いまだに女性首相が誕生していない日本において、富子を政治に容喙(ようかい)する悪女とみなす偏見が現在に至るまで続いてきたのは、むしろ必然と言えよう。
 第三に、応仁の乱が発生した要因が当時の人たちにも良く分らなかったことが影響したのではないか。
前述のように、応仁の乱が勃発した直接の原因は、山名宗全が畠山義就を京都に呼び寄せたことにある。
しかし畠山氏の家督争いが、天下を揺るがす大乱へと発展する過程は後世の歴史家にとっても難解である。
様々な勢力が各々異なる思惑から畠山氏内紛に介入した結果、乱はいたずらに拡大・長期化し、誰も制御できなくなった。
こういう戦乱は一言では説明できず、理解するのが難しい。
 人間の心理として、大きな結果をもたらした大事件の原因を考察する場合、結果に見合うだけの大きな原因を求めがちである。
後述するが、本能寺(ほんのうじ)の変黒幕説があれほど百花繚乱(りょうらん)になるのも、この心理に基づくものだろう。
すなわち、天下統一を目前にした織田信長が非業の死を遂げたという日本史上の大事件の原因が、明智光秀の怨恨(えんこん)では釣り合わない、という人間心理が、黒幕による大陰謀を生み出すのである(第六章を参照)。
太平洋戦争のコミンテルン陰謀説も同様である。
あれほどの大惨禍の原因が日本政府や日本陸海軍の視野狭窄(きょうさく)やセクショナリズムでは、あまりに寂しいからこそ、世界を股(また)にかけた壮大な陰謀が大戦を生んだという説が好まれるのである(終章を参照)。
 応仁の乱にしても、日本史の転換点とも評される大事件の原因が、畠山氏という一大名家の御家騒動では、何か釈然としないものが残る。
なぜ抗争が雪だるま式に膨らんでいったのか、どうして誰も止められなかったのか、説明を聞いてもしっくりこない。
それに比べれば、最高権力者である征夷大将軍のの後継者問題が大乱を生んだという構図の方がよほど納得できる。
 人も羨(うらや)む上流階級の家庭がドロドロの愛憎劇を展開する。
これはいつの時代も、庶民の格好の獲物なのである。
(『陰謀の日本中世史』呉座勇一 角川新書 2018年)
応仁の乱」(中学・高校)

應仁記 2巻」(国立国会図書館)

樵談治要(ショウダンチヨウ)」(文化遺産オンライン)

歴史秘話ヒストリアで
私はなぜ悪女になったのか 最新研究 日野富子
が放送され、呉座勇一さんも話をされていました。
教科書の記述が変わるのはもう少し先かな?
そういえば「比叡山延暦寺 最澄 1200年のメッセージ」の中で
信長軍による延暦寺焼打ちは、延暦寺がすべて焼き尽くされたと思っていたのですが
実は延暦寺の大部分が焼けていないことが分かった。
発掘調査で焼けた跡が見つかったのは、根本中堂や大講堂など限られた場所だったそうです。
では、焼打ちにあったのはどこか?
そのために女子どもまで皆殺しにあったのかと納得しました。
再放送がありますし、見逃し配信が6月17日(水) 午後11:15 まであります。