2020年6月23日火曜日

青空で…

今朝、5時前に戸を開けると涼しい風が吹いていました。
次第に暑さが増すようですが、朝、ひんやりした空気が感じられます。
もうじき朝になってもモワッとした生温かい空気になるんだろうな…

すっきりしない天気続くも 傘の出番はなし」(えりの気象日記 6月22日)
6月23日
 武蔵(むさし)の八王子(はちおうじ城が前田利家らの攻撃で落城した。 1590(天正<てんしょう>18)年

 この日未明、城は深い朝もやに包まれていた。
そのため籠城兵(ろうじょうへい)らは前田利家(としいえ)・上杉景勝(うえすぎかげかつ)の率いる大軍の接近に気づくのがおくれ、緒戦(しょせん)に敗れた。
城内に突入した敵に対し、中の丸の中山家範(いえのり)、三の丸の狩野一庵(かのういちあん)など城兵は激しい戦いを展開し、壮烈な最期をとげた。
城内には侍(さむらい)の家族もたて籠(こも)っており、御守殿(ごしゅでん)にいた婦女子はわきの滝壺(たきつぼ)に身を投げて自殺した。
この戦いは秀吉と北条氏の対決で最大の激戦となった。
秀吉は見せしめのため生捕(いけど)った女子を舟に乗せて小田原の海に出し、戦死者の首を城中に送るなどして、小田原城の降伏を促した。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
6月2日の記事にするのを忘れたのですが、

6月2日
 織田信長が京都の本能寺で明智光秀に殺された。 1582(天正<てんしょう>10)年

 中国地方の毛利との戦いに出兵を命ぜられていた光秀軍は、この日の夜明け、とつぜん京都にあらわれ、信長が泊っている本能寺をとり囲み、信長を自殺させた。
この3月に武田氏を全滅させ、今また毛利氏をたおすために出陣する途中だった信長は、天下をにぎる直前に、自分の部下に殺されたのである。
岡山市近くの高松で毛利軍と戦っていた羽柴(はしば<豊臣>)秀吉は、4日にこの事件を知ると、大急ぎでひき返し、13日夜、山崎の合戦で光秀軍をうち破った。
秀吉は、信長の弔(とむら)いのためにと、光秀らの首二千を本能寺につみあげた。
その悪臭は、近くのイエズス会修道院にもおよんだという。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)

現代の価値観で判断するのは間違いだと思うのですが…
豊臣秀次への仕打ちや文禄・慶長の役などを知ると(2017年10月12日の記事
子どもの頃は好きだった秀吉のことが…
そして日本軍のやり方も秀吉とどこが違うのかなと…
沖縄県立首里高校3年高良朱香音さんの
平和の詩 「あなたがあの時」(全文 沖縄NHK)
「あれから35年『ひめゆりの乙女たち』展」のパンフレットに寄稿されていた
澤地久枝さんの「歴史の顔」を転記したいと思いますφ(..)
満州では、関東軍の幹部は、兵士や国民を置き去りにして帰国しています。
歴史の顔    澤地久枝

中国での敗戦体験

 「原体験」というものは、どれだけ時間がたっても消えてはゆかない。
状況によってはむしろ記憶が蘇生(そせい)をくりかえすことによってより鮮烈になる。
わたしの場合は「満州育ち」であるということがそれにあたる。
(「あれから35年『ひめゆりの乙女たち』展」 主催:朝日新聞、沖縄タイムス社 1980年)
 植民地統治者の側にいた子供としての体験は、世の中のことがわかりはじめたとき「反面教師」の役割を果たした。
他民族に対して加害者の側にいた子供であったことをぬきにして、わたしの戦争体験はなかった。
 戦争末期の動員学徒として、男たちがすべて軍隊へもってゆかれた開拓団で起居した一ヵ月、陸軍三等看護婦見習としての一ヵ月半、そして敗戦。
 旧制女学校三年、14歳のとき、わたしはソ連軍が入る前に上官におきざりにされた関東軍兵士の群をみた。
武装解除されて連れ去られる「最後の兵士たち」を見送った。
国境で関東軍が壊滅したあと、女子供たちをおそった凄惨な逃避行は、祖国の政治によって切り棄てられたものの悲惨を語ってあますところなかった。
一年間の難民生活の体験が、わたしに「国家」の意味や、「政治」の役割を教えたことになる。
 その結果、私の中に警戒的な本能がうまれた。
戦火にまきこまれることもなく、空襲も知らなかったわたしにとって、中国での敗戦体験は生理に刻みつけられたものになった。
 奇妙なほどキナくさい論議のたかまった昨今の風潮のなかで、わたしはいま「沖縄」を思う。
沖縄の人々の声を聞きたいと思う。
現に生きている人々だけでなく、死の世界にいる人々の声を聞きたいと思う。
 沖縄は市民(非戦闘員、女子供たち)が戦火の蹂躙(じゅうりん)のもとにおかれたという、日本人としては唯一の経験をもつ。
原爆や空襲の凄惨さ以上のものがそこにはあった。
火器をもった異国の兵士たちが、向こうも恐怖心のために獰猛(どうもう)な心理になって肉迫してくる。
艦砲射撃、機銃掃射、手榴弾(てりゅうだん)がどんな破壊力をもつか。
たがいの息づかいが聞こえるような場所で向かいあったのが沖縄の人々である。
 戦場となった大地の上で、おびただしい数の沖縄市民が死んだ。
非戦闘員をまきこむ戦闘は、作戦としては下の下だが、昭和20年4月、沖縄の人々は完全に棄てられた存在となり、逃れる場所もなかった。
 本土復帰から間もなくわたしは沖縄へゆき、南部の戦跡を歩いたことがある。
 糸満の老婦人たちの顔がいちように暗く険しいことが胸を抉(えぐ)るようであった。
「どなたか御家族で亡くなった方がありますか」という質問をのみこませるような、きびしい表情がそこにはあった。
 過去の歴史上「琉球処分」といわれる苛酷な処置を受け、収奪による貧しさゆえに多くの移民を送り出した沖縄は、あの戦争でもいけにえであった。

(「いけにえ」に脇点「、、、、」。以下同じ)
 そして、敗戦処理においてまた、沖縄は米軍基地としての運命を甘受させられることになる。
基地のかたわらに、身を細くした市民生活があるような実態は、戦後35年たったいまも基本的には変わっていない。
歴史を追体験すること

 「ひめゆりの乙女たち」は、わたしと同じ世代である。
かつてのわたしがそうであったように、彼女たちもいくさが聖戦であることを信じ、たたかって死ぬことがもっとも人間らしいことであると思って疑わなかったであろう。
そういう教育の時代であった。
 学園生活にあっては、花を賞(め)で、ときに感傷的な娘というのは若過ぎるような娘たち。
彼女たちは敗色が濃くなっても、たたかいがどんなものであるのか、実際には知らなかったのであろう。
 軍の将兵たちと生死をともにすることに、娘らしいはなやぎさえ感じていたかも知れないが、つぎにおそってきたのは阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄図であった。
 沖縄の市民たちの運命をたどることは、戦火の前に生命がいかに無残にはかなく奪い去られるか、その事実を知ることである。
 若くして死んだ死者たちは人生の汚濁も知らず、しかし戦争の惨劇に恐怖の眼を見開きながら、逃れがたい死の手に奪い去られていった。
 軍隊、軍事力の果たす役割。
銃口はときには同胞に向けられ、無情に引金がひかれ、敵軍よりも恐ろしいことを沖縄戦の断面は語っている。
日本人の歴史のなかで、ほかにはない戦争体験――それを沖縄の人々はまさに身をもって通過させられた。
自らの意思によってではなく。
避けがたい戦争の余波のうねりに抗することもできずに巻きこまれたのであり、犠牲はきわめて大きなものとなった。
 あの小さな島を蹂躙しつくした戦火を思うと、生きのこった人々の表情が険しくきびしいのは当然という気がする。
 いま、北海道への武力侵略の危険を説く人々の声が高い。
非武装中立では国土は守れないという防衛力増強論の前段としてである。
だが、どれだけの軍備をもったら、完全に守れるというのであろうか。
 平和を維持するためには自衛力の強化が必要であるという声が、次第に浸透しつつあるかに見えるけれど、そうだろうか。
 戦争の危険をいうなら、北海道への武力侵略以前に、軍事基地沖縄への報復先制攻撃による戦争の可能性の方がより大きいと思う。
 現在の憲法の前文および第九条が生まれた背景には、戦争がいかに非情に市民生活を粉砕するかという痛切な体験があった。
その動かしがたい事実を鮮烈に刻みこまれているのが「沖縄」であろう。
 戦争を知らない若い人々も、歴史を追体験することはできるのである。
戦火に奔弄(ほんろう)された無残な青春を熟視して考えてほしい。
死者たちはいま安らかな眠りについているといえるだろうか。
(「あれから35年『ひめゆりの乙女たち』展」 主催:朝日新聞、沖縄タイムス社 1980年)
今日届きましたDVD「あゝひめゆりの塔
中学生の時にサユリストの担任の先生を誘って見ました。
映画の予告編の最後に「明治百年記念 芸術祭参加作品」とあります。
明治150年の時にどんな作品が上映されたのかな?
国における特色ある「明治150年」関連施策〟(首相官邸)

母は、中学生の時に第三外科壕の中に入ったそうです。
その時は、まだ遺骨が残されていて、帰ってから熱を出したと話していました。
ひめゆり』(ひめゆり平和祈念資料館 PDF電子版ダイジェスト・ブック)