2020年6月17日水曜日

梅雨らしくない…

今朝も晴れて暑かったけど湿度が低かったので
昨日に比べても吹く風が爽やかに感じました。
空にはツバメが飛んでいて写したのだけど、90mmレンズでは…(^^ゞ

梅雨の中休みは今日までかな?
第Ⅱ部 諸文明間の平衡状態
 14 中国、インド、ヨーロッパ 600-1000年

(略)
朝鮮人と日本人は、あくまでも固有の言語を保持すること、また自分たちが接触している文明の中心地である支配的な地位にある宗教とは別の宗教を取り入れるというふたつの手段によって、中国に対抗し、彼ら独自の文化的な個性を保った。
だから朝鮮人は仏教を国教と定め、中国が845年に仏教を禁止したのちも、ことさらに強く仏教に固執したのである。
(『世界史(上)』ウイリアム・H・マクニール著 増田義郎、佐々木昭夫訳 中公文庫 2008年)
一方、日本は中国から距離的に離れていたため、中国の文化圏に完全にのみ込まれてしまう危険をあまり感じなかった。
そこで日本は、600年から1000年までの間に、仏教、儒教をはじめ彼らが輸入し得る中国文化のあらゆる要素を歓迎して受け入れた。
この時示された、外国の文物に対する日本人の精力的な熱狂性は、それ以後の時代にも何度かくりかえされ、その度に日本の歴史は急激な転換を見せたが、これはほかには見られない、まったく日本史だけの特徴である。
こうして奈良時代(645-784年)に、日本の歴代の天皇は急速かつ組織的に、中国唐の大宮廷の小型の模型をつくり上げた。
日本の宮廷生活の、早咲きの繊細な感受性は、1000年のすぐ後に紫式部によって書かれた細やかな恋愛小説『源氏物語』に見事に表現されている。
だが真に日本の文化的独自性を培(つちか)ったのは、各地の館に居を構えた領主たちの、はるかに粗野な生活形式だった。
こういった大将たちの政治的、軍事的な権力が伸張し、それとともに朝廷の権限が狭まっていくにつれ――これは1000年以後顕著になった日本社会の特徴である――日本の文化が独自の性格を備えて発展していく基礎がかためられた。
(『世界史(上)』ウイリアム・H・マクニール著 増田義郎、佐々木昭夫訳 中公文庫 2008年)
この文章を転記したくなったのは、SNS上で在日の方への誹謗中傷が行なわれている。
ヘイトをされる方は、ご自身のルーツを分かっているのかなと思います。
(知っていても認めようとしないか、学ぼうともしない)
前にも書きましたが、日本人と思っている方の祖先の多くが中国や朝鮮等の大陸から渡ってきている。
日本と韓国・朝鮮の言語は、他の国に見られない独自性をもっています。
『万葉集』には、額田王、山上億良、柿本人麻呂など渡来系歌人の歌が多く載っています。
6月17日
 大森貝塚を発見した動物学者モースが横浜に着いた。 1877(明治10)年

 5月19日にサンフランシスコを出発したエドワード・モースは、この日、横浜に着いた。
腕足類(わんそくるい)という海辺の動物の研究のためであった。
 モースは横浜居留地以外でも自由に行動ができるように頼むため、文部省の顧問をしていたモルレーに会いに、東京に向かった。
その車中、大森を通りかかると白い貝殻がちらばって露出しているのを見かけた。
故郷で貝塚を調べたことのある彼は、それがすぐ貝塚だとわかった。
翌月外山正一(とやままさかず)の招きで東京大学の初代動物学の教授になったモースは、早くも10月、貝塚の発掘を開始した。
この時にしめされた先史時代の住民の遺物を科学的に調査する方法は、わが国の考古学や人類学の研究に大きな影響をあたえた。
 モースはダーウィンの『種の起源』のわが国最初の紹介者であった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)

品川区立品川歴史館
日本の歴史1 神話から歴史へ』より「大森貝塚と縄文土器」を転記しますφ(..)

この本の「はじめに」の冒頭に「歴史は書きかえられる」という言葉が紹介されています。
新しい研究成果を調べると面白いと思います。
石器時代の日本
 狩猟・漁撈の時代
  大森貝塚と縄文土器


 日本の最古の文化が、無土器文化ともよばれる土器のない文化であったことは、以上述べたように、戦後になってわかってきたことであった。
それまでは、縄文土器(じょうもんどき)とよばれる土器をともなった縄文文化こそ、日本のもっとも古い文化であると考えられ、多くのすぐれた考古学者の関心を集めていたのであった。
 それでは、この縄文文化の研究は、どのようにして起こり、今日にいたっているのだろうか。
(『日本の歴史1 神話から歴史へ』井上光貞 中公バックス 1970年)
 日本の近海の巻貝類を研究にきたアメリカの動物学者、E・モース( Morse )が横浜に上陸したのは、1877年(明治10)6月のことであった。
モースは数日後、横浜から新橋へ向かう汽車の窓から予期しない発見をした。
かれが書いた『日本、その日その日』( Japan, Day by Day )には、
 「線路の切割りに貝塚の堆積があるのを、通行中の汽車の窓からみて、私は即座に、これを本当の貝墟(かいきょ 貝塚)だと認識することができた。私はメイン州の海岸で貝墟をたくさん研究したから、ここにあるものの性質もすぐ認めた。私は数カ月間、誰かが私より先にそこに行きはしないかということを絶えず恐れながら、この貝墟を訪れる機会を待っていた」
と書かれている。
そのころの日本には、まだ貝塚を研究する学者はいなかったのだから、誰もそこへ行くはずもなかったわけだが、やがてモースの努力がみのって、この遺跡の発掘が実現した。
この貝塚が、東京都品川区大井鹿島(かしま)町にある「大森貝塚」で、いまも東海道本線のすぐ横に大きな記念碑が立っている。
それは、日本における最初の科学的発掘であるばかりか、近代的考古学の出発の記念碑でもあった。
 大森貝塚の調査報告は、『大森介墟(かいきょ)古物篇』として1879年に発表されたが、このなかでモースは、大森貝塚から発見した縄目のついた土器類に「コード・マークト・ポタリー」( Cord Marked Pottery )の名称をあたえている。
この語は、当時「索紋(さくもん)土器」と訳されたが、訳語がむつかしすぎたため、一般には、「貝塚土器」の名称が使われた。
そのころの考古学は、まだ東京付近に行動範囲が限られていたので、貝塚土器という適用性のせまい用語でも不便を感じなかったのであろう。
 それから7年たって、「縄土器」の語が、日本における考古学開拓者の一人、白井光太郎(こうたろう)氏の論文にはじめてあらわれた。
この縄紋土器の語の方がモースの言語にも忠実であったし、そのうえ親しみやすくもあった。
やがて、この語が一般に用いられるようになり、「紋」が「文」となって今日にいたった。
わかりやすく、しかも適切な名称をつけることは、学問の普及の上で大切なことである。
その意味で「縄紋土器」という名称はすぐれていると思う。

(「縄土器」の「」に脇点「」)
(『日本の歴史1 神話から歴史へ』井上光貞 中公バックス 1970年)
今朝の父の一枚です(^^)v
画像を見て、好きな曲を想い出した♪

イーグルスの「ホテル カリフォルニア」(YouTube)
 
17日まで梅雨の中休み」(えりの気象日記 6月16日)