2020年6月24日水曜日

青空を見られるのは…

今朝も青空が広がっていました。
暑いけど、クチナシやタイサンボクの甘い香りがすると元気になりますp(^^)q


いつも応援してくれて、ありのままの自分を見せる力をくれてありがとうございました。
ぜひ読んでください。
二日続けてシリーズであった番組

ハートネットTV シリーズ 
水俣から考える(1)「漁師・緒方正人さん」

水俣から考える(2)「建具職人・緒方正実さん」

ココロウイルスに感染し、差別や偏見に溢れている現在、多くの人に見てほしいな!
来週、Eテレで午後1時05分から再放送があります。
見逃し配信が
「漁師・緒方正人さん」は、6月29日(月) 午後8:29 まで

「建具職人・緒方正実さん」は、6月30日(火) 午後8:29 まで
6月24日
 大海人皇子が吉野から東国へ進み、壬申の乱がおこった。 672年

 天智(てんぢ)天皇と弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)は仲が悪かった。
原因は天智天皇が、皇太弟(こうたいてい)として次の天皇に予定されていた大海人より最愛の子大友皇子(おおとものおうじ)を位につけたかったらである。
天智天皇の死期がせまると、大海人はいったん吉野に隠退した。
しかし人々は「虎に翼をつけて放ったもおなじだ」とこれをおそれた。
はたして、大海人はこの日、吉野から伊勢・尾張(おわり)を経て美濃(みの)・近江(おうみ)に進んだ。
壬申の乱の始まりである。
この地方の豪族たちはつぎつぎに大海人に味方した。
大和(やまと)の大伴連吹負(おおとものむらじふけい)も大海人の呼びかけにこたえて奮戦した。
大海人は勢いを得て、わずか一カ月ののち大友皇子を自殺させ、近江朝廷を制圧した。
翌年2月、大海人は飛鳥浄御原(あすかきよみはら)の宮で即位して天武(てんむ)天皇となった。
そして治世15年のあいだに、天皇の権力は飛躍的に強められ律令(りつりょう)体制の基礎が築き上げられた。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
天智天皇が同母の兄弟で皇位を継承するとしていた当時の慣例を破り
我が子大友皇子に皇位継承したために招いた争い…
日本の歴史2 古代国家の成立』より
壬申の乱 大海人皇子の挙兵」を転記しますφ(..)
壬申の乱
  大海人皇子の挙兵


 大友皇子は近江朝廷に君臨した。
しかし、さきにあげたはやり歌からも察せられように、吉野の大海人皇子によせられる同情心は、宮廷のなかから消えるどころか日ごとに高まったのであろう。
このころ大伴一門の中心人物である大伴連馬来田(まくた)・吹負(ふけい)の兄弟は、近江朝廷を去って大和の家にかえった。
大海人皇子の将来に望みを託したからである。
このような情勢のもとにあっては、大友としても、吉野にたいする警戒心を片時もゆるめることができない。
近江京から大和の飛鳥にいたる道の要所要所に物見(ものみ)をおいて、警備にあたらせた。
(『日本の歴史2 古代国家の成立』直木孝次郎 中公文庫 2004年)
 近江側の警戒態勢を、大海人皇子側は吉野攻撃の準備かと疑った。
武力をもたない大海人は、近江朝のわずかな行動にも神経をとがらせないわけにはいかない。
とくに大海人とその側近に衝撃をあたえたのは、近江朝廷が、天智天皇の山陵を山科(やましな)に作るため、美濃(みの)・尾張(おわり)の国司に命じて多数の人夫を徴発し、これに武器を与えている、というニュースである。
人夫に武器をもたせるとすぐに軍隊ができあがる。
その大部隊に攻撃されたならば、吉野の仮りずまいはひとたまりもない。
坐して死を待つか、立って戦うか、大海人皇子は最後の決断をせまられた。
 近江側が山陵造営のために人夫を集めたことは事実らしいが、吉野を攻めることまで考えたかどうかは疑問である。
のちの経過からすると、近江側にそれほど進んだ計画はなかったように思われる。
吉野川の猜疑(さいぎ)心が均衡の破綻をもたらしたといえるであろうが、追いつめられた立場にある大海人皇子としては、やむえないことであったといえよう。
 大海人皇子が山陵造営の情報を得たのは壬申の年の5月で、挙兵の行動をおこしたのは6月22日である。
この間ほぼ一月あまりを挙兵の準備期間とみてよいであろう。
近江朝廷には大海人の同情者が少なくないし、また大海人のむすめ十市皇女は、大友皇子のきさきとなって近江にとどまっている。
大海人が近江側の動静をしる便宜は少なくはなかったろう。
挙兵計画は近江側情報を勘案しつつ、綿密に立てられたことと思われる。
 6月22日、大海人皇子は従者のうちから、村国(むらくに)連男依(おより)ら美濃出身の舎人(とねり)3名をえらんで挙兵の使者とした。
美濃国安八磨(あはつま)郡(安八郡)には大海人皇子の直領地である湯沐邑(ゆのむら)がある。
まずそこを根拠として、湯沐邑の役人である湯沐令(ゆのうながし)や美濃の国司(くにつかさ)と連絡をとって軍をあつめ、美濃と近江をむすぶ不破道(ふわのみち)をふさぐ、というのが、かれらに与えられた使命である。
 3人の使者が美濃をめざして全速力で出発したあと、2日おいて6月24日、大海人皇子は残りの舎人二十余人、女嬬(にょじゅ<女官>)十余人をひきいて吉野をたった。
きさきの鸕野讃良(うののさらら)皇女(のちの持統天皇)と草壁(くさかべ)・忍壁(おさかべ)両皇子もおなじ軍中にあった。
途中、近江朝廷の警戒網にひっかかるようなことがあれば万事は水の泡である。
女・子どもをつれての行軍であるが、ことは敏速・隠密を要する。
24日の夕刻、大和と伊賀(いが)との境に到着した一行は、文字どおり昼夜兼行、夜を徹して伊賀国を南から北へ通過して、25日の朝はやく伊賀北部の積殖(つむえ)の山口に到着した。
いまの柘植(つげ)である。
 ここで大海人皇子は、大津宮から甲賀の山をこえて駆けつけてきた高市(たかいち)皇子に出会った。
高市皇子は大海人の長子でこのとき19歳、吉野にゆかず近江にとどまっていたが、父からの密使によって挙兵を知り、ひそかに手兵をひきいて大津宮を抜けだしてきたのである。
大海人のよろこびはさこそと察せられる。
しかも、高市の一行をあわせて伊勢国に入ると、鈴鹿のあたりで出迎えにかけつけた国守三宅(みやけ)連石床(いわとこ)や湯沐令らにゆきあった。
二日前に出発した男依(おより)らはぶじに使命をはたし、湯沐令や国司らは大海人皇子のために活動をはじめ、美濃での兵力動員は進行中なのだ。
挙兵の第一段階はまず成功である。
大海人皇子はようやく愁眉(しゅうび)をひらくことができた。
 なお、出迎えた国司や湯沐令は伊勢国のそれとするのが通説だが、わたくしは美濃国からかけつけたと考えている。
(『日本の歴史2 古代国家の成立』直木孝次郎 中公文庫 2004年)

壬申の乱」(関ヶ原町歴史民俗資料館)

天武天皇(大海人皇子)の死後、鸕野讃良皇女(うののさららのこうじょ)が、我が子草壁皇子に皇位を継承させるために大津皇子に謀反の罪をきせた(と思っています(^^ゞ…)。
今朝の父の一枚です(^^)v
なんか蓮の花が眩しいよと言っているみたい…

晴れは水曜まで 木曜から梅雨空に」(えりの気象日記 6月23日)