2016年6月30日木曜日

祇園~八坂神社

今朝は,電車に乗って「祇園四条駅」で降りて南座側の出口に…
「雨奇晴好(雨の時も天気の時も景色よし,日々これ好日の意)」
仲源寺です(2014年11月23日の記事)。
いつも見ることができないのですが…

京都の歴史を足元からさぐる 洛東の巻』で森浩一さんが

 家の隣にある東福寺を別にしてぼくがよく立寄るのは四条通南側,
鴨川の東にある仲源寺である。
人びとで込み合う繁華街から寺の門を入ったすぐ右側の観音堂には

平安時代の千手観音坐像が目の前にある。
 日のあるうちは光線のかげんでお像をはっきりと見ることはできないが,
日が暮れて電燈がつくと観音像を鮮明に見ることができる。
このような立派な仏像を小さなお堂で人びとの雑踏の足音を聞きながら

見ることはここでしか体験できず,
ぼくの好きな京都の歴史的スポットである。

仲源寺のあたりから四条大橋の方角を見ています。
四条通と大和大路の交差点ですが市バスが坂道を上ってくるように見えませんか?

その高低差こそが,昔の鴨川の範囲を示す痕跡なのです。
 現在の大和大路通は,ちょうど江戸時代までの鴨川旧堤防に相当しています。
大和大路通は昔の堤防,西側は昔の河原となるわけです。
したがって南座が現在建つ地点はかつての鴨川堤防よりも内側に当たり,
まさしく河原のど真ん中だったのですね。
このように大和大路通付近の凸凹地形を観察することで,江戸時代までの鴨川の河原が,
今よりもずっと広い敷地を占めていた様子が現在の地形からよくわかります。

(『京都の凸凹を歩く 高低差に隠された古都の秘密』梅林秀行 青幻社 2016年)
 近頃は外国からの観光客も集る花見小路は,
〝京都・祇園らしい〟さらには〝昔ながらの〟としばしば表現されるまちなみです。
京都の「伝統的」な風景の代表例ですね。
ただ,祇園のメインストリートであるこの花見小路をよく眺めると,

いくつかの不思議を感じませんか。

と梅林秀行さんが問いかけています。
そのことについて本を読んでなるほどと思いました!
というか疑問さえなく歩いていましたσ(^◇^;)
その答えは本を参照してください(*^ー゜)
お茶屋街が移転した建仁寺旧境内の北半分は,
「花洛一覧図」にも竹やぶとして描かれるように鴨川に近い低湿地でした。
したがってお茶屋街として再生するためには,
全体に盛土をして大掛かりな地盤嵩上げ工事を行う必要があったはずです。
その結果こそが,今も祇園中心部と周囲の境界に残る高低差ではないでしょうか。
 たとえば祇園エリアの西端に位置する永源庵通に面した建物は,
路面に対して段差が生まれていてコンクリート製の小さな階段が各々設えられています。
おそらく地盤造成工事の結果でしょう。
さらに道路に面した建物は全て,祇園の中心部に正面を向けて

永源庵通には裏口を見せるのみです。
この段差と裏口が連なる風景はあたかも「祇園のうしろ姿」と呼べるようなまちなみで,
祇園のお茶屋街が近代以降に移転した物語を象徴するかのように思えます。

(『京都の凸凹を歩く』)
『京都の凸凹を歩く』を読んでいると,
何度も訪れながら何の疑問を感じなかったことの中に
たとえば石畳とアスファルトの違いは…
京都の「土地の記憶」が囁いているのだと,歩く楽しみができました(^_^)b
ちなみに「土地の記憶」というのはタモリさんの名言だそうです!
このコースで一番ビックリしたことは…

実はこの楼門が立つ石段自体が,
「桃山断層」の断層崖に相当しています。
桃山断層とは京都盆地を造り出した断層活動のうち,
盆地東縁の巨大なエネルギーによって生まれた地面のズレですが,
四条通の平坦面から立ち上がる石段自体が

この桃山断層が生んだ凸凹地形であるわけですね。
(『京都の凸凹を歩く』)
明治時代前半(19世紀終わり頃)の古写真を見ると,
四条通も東大路通も今よりずいぶん道幅が狭くて,
交差点は今のような広さはなかった様子がわかります。
現在の広い交差点になった理由は,
20世紀初頭の明治時代終わりから大正時代初めの市電開通がきっかけです。
四条通と東大路通にそれぞれ路面電車の「京都市電」が開通した際,
市電が通行できるように各道路の道幅を広げてさらに,
電車が互いに衝突することを避けて市電が交差する地点の道路角地を「隅切り」した結果,
現在のような広場を思わせる空間に八坂神社西楼門前は変貌しました。

(『京都の凸凹を歩く』)

学生時代は,まだ市電に乗ることができたな…
京都の凸凹を歩く』に
 「ブラタモリ」プロデューサーの山内太郎と著者の梅林秀行さんの
対談〝京都の「土地の記憶」に耳を澄まして〟が載っています。
その中で山内さんが
(震災が起きた2011年)その時は,それこそタモリさんが言うところの
「土地の記憶」というものをすごく意識しました。
震災直後,「想定外」とか,「未曽有」っていう言葉が山ほど溢れましたけど,
地震や津波って,日本中に何十年か何百年単位で何度も起きてる。
よくよくその土地に聞いてみれば,震災が起きるって分かってたはずなのに,
それを多くの人が忘れてた。

もうあの震災と原発事故を忘れたかのように
再稼働をすすめる人たちがいる。
 疫神社 
 祭神 蘇民将来命(そみんしょうらいのみこと)
 むかし祖神(おやがみ)が諸国を巡って日暮れに宿を請うたところ
巨旦将来(こたんしょうらい)は富み栄えていたのに貸さず,
蘇民将来(そみんしょうらい)は貧しかったけれども
粟殻で座をしいて粟の粥で手厚くもてなしましたので,
「われはハヤスサノヲの神なり」といい,
後年疫病が流行しても茅(ち)の輪をつけて「蘇民将来の子孫なり」といえば,
災厄から免れしめると約束され,
巨旦将来の子孫は皆絶えてしまいましたが,
蘇民将来の子孫は今に栄えています。
例祭一月十九日 夏越祭七月三十一日

僕は蘇民将来の使いではありません(*゜∀゜*)
太田社
 祭神 猿田彦神(さるたひこのかみ)
    天鈿女命(あめのうずめえのみこと)
 猿田彦神は天孫降臨に際して日神の使として
先導の役割を果たした導きの神とされています。
 天鈿女命は天照大神の天岩戸隠れに際し,
岩戸の前で神楽を舞った神であり,
天孫降臨にお供して猿田彦神と対面してともに導き,
宮廷神楽を奉仕した猿女君の遠つ祖であり,芸能の神とされています。

 北向蛭子(えびす)社
 祭神 事代主神(ことしろぬしのかみ)

俗にエベッさんと称され,福の神,商売繁盛の神として崇敬されています。
事代主神は大国主の御子神ですから素戔嗚尊(すさのおのみこと)の孫神にあたります。
記録によると中古以来「西楼門内,北向きに立つ」とあり,古くから現在地にありました。
現社殿は正保三年(1646)の建造で国の重要文化財に指定されていまして,
平成十年六月屋根(柿葺(こけらぶき))葺替。塗替行いました。
一月九・十日,初えびすのお祭りは商売繁盛のご祈願で賑わいます。


(原文には読みがなかったのをいれている箇所があります。
間違いがあるかもしれません)


 大国主社
祭神 大国主命(おおくにぬしみこと) 
   事代主命(ことしろぬしのみこと)
   少彦名命(すくなひこなのみこと)

大国主命は,大己貴神(おおなむちのかみ)・八千矛(やちほこ)神,
その他多くの名をもち本社の祭神素戔嗚尊(すさのをのみこと)の

御子とも六代の孫とも伝えられます。
出雲の神さまで俗に「大黒(だいこく)さん」といわれる福の神であり,

縁結びの神とされています。
事代主命はその御子,少彦名命は医薬の神で

大国主命とともに国造りに励まされました。
外国からの旅行者を見ていて懐かしいスタイルだなと(*^-^*)
でも学生時代は,こんな格好いいリュックでなくて
黄色いキスリングでしたが(*^▽^*)
6月30日は
八坂神社と茅の輪について
今は昔・・・一人の老翁 蘇民将来が一人の旅人をお助けしました。
旅人は蘇民将来の手厚いもてなしに心をうたれ,
「今後蘇民将来の子孫であれば疫病から必ず守ってやろう。
その目印として茅の輪を腰に付けよ」こう約束しました。
この旅人こそ,八坂神社のご祭神「スサノヲノミコト」だったのです。
八坂神社の神さまは,茅の輪をくぐる人,
「蘇民将来之子孫也」と記した御守りをもつ人を
家族・子孫に至るまで守護いたします。
 ※祇園祭の御守「厄除け粽」にも同じ文言が記されています。

 茅の輪のくぐり方は図の通りです。
左の唱え言葉を唱えながらくぐってください。

第一回「みな月(づき)の なごしの祓(はらい) する人は 千年(ちとせ)の命(いのち) のぶというなり」
第二回「思う事 みなつきねとて 麻(あさ)の葉を きりにきりても 祓(はら)いつるかな」
第三回「蘇民将来(そみんしょうらい)。蘇民将来。」(繰返し唱えてください)

藤屋と空也上人ゆかりの井戸
 この場所には,明治初年まで藤屋という茶店があった。
店の傍らに藤棚があったので屋号を藤屋と称した。
 藤屋の初代は,この井の清水を沸かし当社参詣の諸人に呈した。
爾来,参詣者はこの白湯を呑み,身を清めてから参拝さいたので,きよめの茶屋ともよばれた。
 延長三年(925)のむかし,時の醍醐帝が疱瘡を罹られ,諸人も病に苦しんだ。
 その惨状をみかねた空也上人は当社に参籠し,帝また諸人の病気平癒を祈念した。
その時,上人はこの井の清水を用いた白湯を諸人に施し,それを呑み人々は癒やされたという。
 のち,向かいにもう一軒の茶店が出来(現在の中村楼),
鳥居の内のこの二軒の茶店は,二軒茶屋とよばれ人々に親しまれた。

以前探したけど気がつかなかった(T^T)

前回,隠れている「藤屋と空也上人ゆかりの井戸」(赤矢印)は見つけたのに…
お土産を買った時にカフェも始まっていると聞き
他の店は11時開店が多いけど,10時開店です(o^^o)
前に来た時は「おじゃこパスタ(デザート付)」でしたが
今回は「お茶漬け膳(デザート付)」をいただきました(^_^)b
そのままで食べても美味しいです♪

中庭も素敵でした(o^^o)
笑顔で見送ってくださった(o^^o)
 「京都やよい

実は,この後,反対の方向に歩き出していたのに気がついたけど
戻るのは恥ずかしいのでそのまま…σ(^◇^;)

崇徳天皇御廟
   御由緒
崇徳上皇(75代)は,平安時代の末,保元の乱(西暦1156)により,
讃岐の国へ御配流の悲運に遭われた。
上皇は血書をもって京都への御遷幸を願われたが,
意の如くならず憤怒の御炎のまま,長寛二年(1164)夏,四十六歳にて崩御。
五色台白峰山の御陵に奉葬された。
 上皇の寵愛篤かった阿波内侍は,御遺髪を請い受けて,
この場所に一塚を築き亡き上皇の霊をお慰めしたと伝承されている。
 その頃の京都では,上皇の怨念による祟りの異変が相次いで発生したため,
御影堂や粟田宮を建てて慰霊に努めたが,永い年月の間に廃絶して,
此の所のみが哀史を偲ぶよすがとなっている。
 なお,孝明・明治両天皇の聖慮により,
白峯神宮が創建され元官幣大社として尊崇され今日に至っている。
  当御廟所 月次祭 毎月二十一日 齋行
    白峯神宮
(上京区今出川堀川東入る)

(文字がかなり不鮮明になっていたので誤りが多いと思います)
 「土井志ば漬本舗」で漬物をお土産に(*^-^*)
昔,よくお土産を買っていた 「京和菓子 福栄堂」
本日限定の「  Minazuki 」(一口サイズ)をお土産に買いました(*^-^*)
 みなづき
 六月の異名水無月を銘とするみなづきは、
六月三十日の夏越(なごし)祓、水無月祓にちなんでたべられる。
新粉製の台を三角に切って氷をかたどり、
上に悪魔払いの意をあらわして煮小豆を散らし、すぎた半年の罪けがれをはらい、
本格的な夏にむかって健康であれかしと願うのである。
素朴ではあるがなかなか洒落たデザインである。
上の小豆は厄除けの意をあらわすので多すぎるのはよくないともいうが、
小豆の多いのもうまく、腰のつよい黒砂糖の台もまたよし。

(『京都歳時記』宗政五十緒・森谷尅久編集 淡交社 昭和61年)