2020年6月25日木曜日

雨が降る前に…

蒸し暑い朝でした。
今にも降り出しそうな空模様でしたが、雨に降られることなく歩けました。
ほぼ毎日、リハビリに歩いているので、見慣れた風景ですが
昨日、蕾だけだったヤブミョウガ(ツユクサ科)が花を咲かせていました。
最近は、街の人出は多くなっているようですが、
無症状の方から感染が拡大するので
まだまだ町歩きをするのは自粛しようと思っています。
コロナという言葉は、悪い意味で使われていなかったのになぁ…

コロナ【corona】
①〔天〕太陽大気の外層。
皆既日食の際、太陽の縁から四方にぼやけて見える真珠色の淡光。
その全光度は満月の約半分。
内部コロナは100万度の自由電子が散乱する光で、X線や電波も含む。
外部コロナは固体微粒子による散乱光で、黄道光につながる。
②コロナ放電の光。
(『広辞苑 第六版』岩波書店 2008年)

人には嫌われるヤブガラシ(ブドウ科)にも王冠のような雄しべがあり、昆虫たちが蜜を求めてやってきます。
昨夜の病院ラジオ「あの子どうしてる?スペシャル
みなさんの元気な姿を見ることできてホッとするとともに、
歌は、人を元気にしてくれると改めて思いました。
(見逃し配信は7月1日(水) 午後8:42 まで
見逃し配信を音声を聞きながら記事を書いていました。
声だけでも目が霞んでしまっていました…

又吉直樹のヘウレーカ!「今、僕たちには歌がいる!」でも歌のチカラをとことん探ってくれました。
再放送が深夜(午前0時~)にあります。
6月25日
 朝鮮戦争が勃発し、日本は米軍の兵站(へいたん)基地となった。 1950(昭和25)年

 この日午前4時ごろ、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の境界線である朝鮮半島の三十八度線で戦闘が始まった。
南北のどちらから攻撃が開始されたかは、今日でもなお明らかでない。
アメリカはこれを「北朝鮮による平和の侵犯と侵略行為」だとして、27日国連安全保障理事会に、国連軍を派遣して韓国軍を援助することを提案し、ソ連の欠席した会議でこの案を採択させた。
一方、朝鮮人民共和国軍はその後、中国人民義勇軍の援助もえて韓国軍および国連軍という名のアメリカ軍と全面戦争に突入した。
 戦争の基地となった日本では、人民共和国の主張を掲載した日本共産党機関紙『アカハタ』が、連合国軍総司令部から発行停止を命ぜられた。
各職場でレッドパージが行われる行われる一方、7月には自衛隊の前身である警察予備隊が新設された。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)

朝鮮戦争」(中学・高校 動画)
平凡社ライブラリー672 昭和史 戦後編1945-1989』より
第八章 朝鮮戦争は〝神風〟であったか
 ●朝鮮戦争で『特需』に湧く」を転記しますφ(..
第八章 朝鮮戦争は〝神風〟であったか
 ●朝鮮戦争で「特需」に湧く


 さて、まさにこういう時、昭和25年(1950)6月25日に朝鮮半島で大戦争がはじまりました。
前にも話しましたが、米ソ合同委員会によって統一されるはずだった南北朝鮮は、両者が反目(はんもく)している間に北緯38度線をもって分離、昭和23年8、9月に二つの国ができあがってしまいました。
一方は共産主義、もう一方はアメリカの勢力下というふうに米ソ冷戦構造がそのまま反映し、ぎしぎしと小競(こぜ)り合いを続けていたのがとうとう国境線で火を噴いたわけです。
今になってはじめのころの戦局を見ると、北の朝鮮民主主義人民共和国が十分に準備をして攻め入ったと考えざる得ません。
というのも当時、大韓民国(南)に駐留していた米軍はほぼ日本本土に移っていましたから、その空白を狙って、と言うと反論する人もいますが、とにかく北が38度線を越えていきなり攻め入ってきたのです。
戦闘準備不足の韓国側は、38度線にほど近いソウルがあっという間に陥落してしまい、その後もガンガン攻められて後退に後退を続けました。
(『平凡社ライブラリー672 昭和史 戦後編1945-1989』半藤一利 2009年)
 驚いたアメリカはただちに国連安保理に要請し、あれよあれよと韓国支援の国連軍が編成されました。
それも主力はアメリカ軍ですから、日本にいるほぼ全米軍の約7万5千人がマッカーサー最高司令官の指揮のもと、急きょ出動準備にかかりました。
ただ、アメリカが北朝鮮の動きを見過ごしているはずはなく、いくらかは察知していたと思うんです。
諜報(ちょうほう)機関が事前にどのくらい情報をつかんでいたか、裏の事情は今ひとつよくわからないのですが、いずれにしろ、朝鮮への上陸作戦がただちに開始されます。
 ただ、いっぺんに大兵力を運ぶことはできません。
少しずつ輸送していては間に合わないくらいに戦況は悪化し、韓国側はどんどん追い詰められて南端の釜山(プサン)周辺の狭い橋頭保(きょうとうほ)にまで後退し、そこをやっとこさっとこ守っている状態です。
 その時、マッカーサーが「まともに兵力を注いでも無理だ。裏側からやろう」というわけで9月15日、敵の背後を突く極秘の仁川(いんちょん)上陸作戦を決行します。
これが図に当たって見事に成功するのです。
予想していなかった北朝鮮軍を後ろから徹底的に撃破し、あっという間に戦況回復、どころではなく、ソウルを奪還すると同時に38度線を越え、10月20日には平壌(ピョウンヤン)を占領、さらに10月25日に鴨緑江(おうりょっこう)付近まで攻め入り、北朝鮮軍を中国東北部(旧満州)へ追いやろうとするまでの勢いになりました。
 ところが、ここまで来ると、新生になったばかりの中華人民共和国が許さないというわけで、北朝鮮の支援要請に応じて人民解放軍が参戦してきました。
いっぽうソ連は、ふたたび世界戦争になることをおそれて武器と弾薬の援助のみにとどまりました。
まさに北朝鮮と韓国は、米ソ冷戦の「代理戦争」をやらされたわけです。
 そして12月5日、北朝鮮が平壌を奪還し、38度線まで兵力を押し返しました。
すると韓国側連合軍がまた懸命に国境線を守り、それから一進一退、戦争は膠着(こうちゃく)状態に入ります。
そこで翌昭和26年6月23日、国連で「いい加減停戦にしたほうがいいのでは」とさすがに国連代表の元ソ連外相マリクが停戦交渉を提案しました。
しかし、交渉は双方簡単には応じずまとまるわけがありません。
揉めに揉めて、国連軍も、韓国軍も、北朝鮮軍も、中国人民解放軍も、たいへんな打撃を被りながら、その間もずっと戦争は続きます。
後のアメリカに言わせれば、朝鮮戦争の約3年間で「太平洋戦争の3年8カ月よりも多くの弾丸を撃った」ほどで、最終的には昭和28年(1953)7月27日に板門店(はんもんてん)で休戦協定が調印され、再び38度線をもって国境とすることが決まります。
南北互いにもっと押し戻したかったでしょうが――とくに韓国としては首都のソウルが38度線に近過ぎますから――こうして現在の状態になったのです。
ちなみに板門店は現在、特別にお願いすれば案内してもらえます。
 さて、この朝鮮戦争が日本にとって何だったかといえば、まさに「神風(かみかぜ)」でした。
当時私は大学生でしたが、「神風が吹いた」などと誰かが口にすれば、「いくらなんでもそれはないだろう」とやったもんですが、明らかに日本経済にとっては神風だったと言わざるを得ないと思います。
 たとえばアメリカのジャーナリスト、ジョン・ガンサーは『マッカーサーの謎』という本でこう書いています。
 「朝鮮戦争が始まるや、日本は一夜にして前例のない平和な社会的、政治的、経済的改革の舞台から、アジアにおけるアメリカの軍事力ならびに政治勢力の武装された橋頭堡となった」
 つまり、日本は米軍を主力とする国連軍の前進補給基地であると同時に、国連空軍の攻撃発進基地であり、さらに有力な「兵站(へいたん)基地」、要するに弾薬や食糧の輸送はもとより、戦争で負傷した兵隊さんの治療や兵器の修理や整備をする場所になったというわけです。
もし日本本土がなければ、数多い航空母艦や多くの輸送船と護衛部隊を集結せねばならず、アメリカ軍はたいへんだったはずです。
なのに「沈まない大航空母艦」の日本を思う存分利用して、バカスカやれたわけです。
 これはふつう、「特需(とくじゅ)」(特別需要= Special Procurement )と呼びます。
なぜ特別需要かと言いますと、それまでの日本とGHQの関係からすれば、GHQが必要なものはまず日本政府に依頼し、日本政府が予算に組まれた終戦処理費の中からそれらを調達していました。
たとえばビタミン剤なら、何ケース必要かGHQから指示された日本政府が、予算調達費から薬屋に金を払って購入してGHQに渡す、というパターンでした。
ところがこの時は、政府を間に挟まずにGHQが直接、業者からジャカスカジャカスカとモノを調達する、だから〝特別需要〟といわれたのです。
 こうして朝鮮戦争がはじまると同時に、たとえば蔵前(くらまえ)橋の西側、蔵前工業高校跡(後に旧・蔵前国技館となる)に山のように積まれてあった戦災後未整理の焼けトタンが、あれよあれよと軍需用品としてなくなってゆき、二カ月で一掃されました。
また、野球もまだそれほど盛んではないので三池炭鉱の野球場一面に石炭の山が貯められていたのですが、それもあっという間になくなります。
日本じゅうにある屑(くず)鉄もすべて買い上げられました。
まさに特需は神風であったと言えるのです。
 私が今でも覚えているのは「ガチャ万(まん)、こら千(せん)」という言葉で「ガチャ」とかければ織物ができ上がり、たちまち1万円で買ってもらえる。
ヤミであれば、おまわりに「おい、こらーっ」と追いかけられても千円出せば見逃してくれるからどんどん作れという話だそうで、ほんとかなーとは思うのですが、まあそれぐりバカバカ儲(もう)かったんですね。
「三白(さんぱく)景気」という言葉もはやりました。
セメント、肥料(硫安)、紙・パルプのことです。
これも飛ぶように売れた。
 という具合に、綿布、毛布、毛糸、建築用鋼材、有刺(ゆうし)鉄線、トラック、麻袋、さらに歯ブラシ、石鹼(せっけん)など、人間の使うものならばなんでもと言っていいくらい、しかも価格についてはうるわいことを言わずにGHQが買い上げてくれました。
なぜ戦車や飛行機はないのかと聞かれても困りますが、日本は当時、一切の軍需産業はやっていませんし、船舶もろくなものを造っていませんでした。
 ちょうど朝鮮戦争がはじまった時、後にたいへん活躍するトヨタ自動車販売社長の神谷正太郎(かみやしょうたろう)さんはアメリカのロサンゼルスにいたそうです。
それまでトヨタといってもトラックの注文は年間3百台がやっと、膨大な在庫を抱えていました。
そのうえドッジ・ラインによるデフレもあってふうふう言っていたのですが、開戦の報を聞いてあわてて帰国すると、GHQから生産が追いつかないほどの注文がきて、一挙に月千5百台にまで増大したそうです。
それでとにかくどんどん生産し、お金がザクザク入ってきましたから、今日のトヨタの基礎はここでつくられたと言えるわけです。
 ソニーもそうです。
かつては「東京通信研究所」といいまして、若い技術者7、8人が寄って、アメリカから間もなく許可が下りるだろう短波受信機につける短波用アタッチメントを作って売り出そうと細々はじめたのですがなかなか解禁されず、次に「東京通信工業」と名を変え、今度は録音機のリールのテープを作っていました。
もっとも成功したのが肩掛け式携帯録音機〝デンスケ〟で、今見るとやたらに重くてでかいのですが、これがヒットしてやっとこさっとこ息をついていたのです。
ところが朝鮮戦争がはじまると、あらゆる電波探知機に関する需要がどんどん膨らんで会社は急速に大きくなり、現在のソニーの基盤がつくられたのです。
こういう話はいくらでもありますが、ソニーの例でいいますと、終戦直後の昭和21年5月~10月の売上高は72万2千円、利益金2千円、それが朝鮮戦争開始後の昭和25年11月~26年4月には売上高5千2百53万円、利益金479万円に跳ね上がったといいます。
くり返しますが、これは一例に過ぎません。
 こうして日本経済は、朝鮮戦争のおかげであっという間に大きくなったのです。
参考までに、経済企画庁発表の全体の特需契約高をみますと、
 *昭和25年7月~26年6月……物資=2億2999万5千ドル、サービス=9892万7千ドル、計3億2900万ドル弱
 *昭和26年7月~27年6月……物資=2億3585万1千ドル、サービス=7976万7千ドル、計3億1500万ドル強
 *昭和27年7月~28年6月(朝鮮戦争休戦協定直前まで)……物資=3億554万3千ドル、サービス=1億8678万5千ドル、計4億9200万ドル強
 つまり朝鮮戦争の約3年間で、日本の特需契約高は11億3600万ドルを超えたわけです。
日本円(1ドル=360円)に換算して4千89億円超という金額です。
 このように戦後日本は朝鮮戦争の3年間で生き返りました。
たとえば、サービス部門では、評論家の大宅壮一(おおやそういち)さんが命名するところの「3P」が現れます。
パルプ(紙)、パチンコ、パンパンのことです。
パンパンについてちょっとだけ言うと、アメリカ兵が本土からどんどん日本にやって来て朝鮮の戦場に送られ、休養のためにまた日本に帰ってくるのですが、それまで「夜の女」としてこそこそ営業していた日本女性たちが、この時は堂々とアメリカ兵の腕にぶら下がるようにして実に仲良くやっていたのを、私も目の前でたくさん見たものでした。
(『平凡社ライブラリー672 昭和史 戦後編1945-1989』半藤一利 2009年)
半藤一利さんの文章は講談調になっていますね…
この時代に、鈴木しづ子が多くの句作を残しています。

山梔子やよはひかさねし眉をかく
(『しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って』 川村蘭太 新潮社 2011年)

朝鮮へ書く梅雨の降り激(た)ぎちけり
(『夏みかん酢つぱしいまさら純潔など』鈴木しづ子 川村蘭太 河出文庫 2019年)
今朝の父の一枚です(^^)v
ちょっと分かりにくいかもしれませんが、ネジバナ(ラン科)がたくさん咲いています。
この場所は、父と母が咲いているのを発見した場所です。