2020年6月26日金曜日

一気に蒸し暑さが増して…

雨を覚悟して公園にきたら日差しがあって蒸し暑さが…(-_-;)
アシナガバチ(セグロアシナガバチ?)がハスの葉についていた雨粒を飲んでいるようでした。
熱中症対策には、アシナガバチのように水分補給をしないとp(^^)q

7月から9月 平年より厳しい暑さ 熱中症対策を」(NHK)
梅雨が明ける7月から8月にかけては、熱中症の搬送者数が急増し、去年は2か月間で全国で5万人以上が搬送され、100人余りが死亡しています。
大きな白いガ…
どうもマイマイガ(ドクガ科)のようです。
マイマイガの生態・被害・防除」(道総研)

気をつけたいのが
毒持つ毛虫「チャドクガ」大量発生 皮膚炎の患者相次ぐ 千葉〟(NHK)

蛾がすべて毒をもっているのではありません。
有毒ケムシ類-ドクガとイラガ」(神奈川県衛生研究所)

昨夜、半年ぶりかで姪(看護師)が来てくれて一緒に食事をしました。
話を聞くと、一時、マスクが一日一枚の時があったそうです。
(現在は、通常に戻ったようです)
病院という所は、感染症の危険がつねにあるところで
インフルエンザやノロウイルス、結核、風疹などなど
そういう危険性と隣り合わせで頑張ってくれているのに…
院内感染の病院 スタッフに中傷」(関西NHK)
コロナ危機、頼れるリーダーの3つのチカラ」(NHK)
科学的な根拠に基づいた対策
コミュニケーション力
共感力
この3つとも欠如しているのが日本の首相…
民放などのヨイショのおかげで人気がある大阪の知事はどうなんでしょうか?
今月号の『世界 2020年7月号』に寄稿されていた
山本太郎長崎大学熱帯医学研究所教授の
パンデミック後の未来を選択する ウイルスの目線からの考察
より一部を転記しますφ(..)
(略)

■自覚的であるべきこと

  一方で、こうした自粛要請や都市封鎖は、移動や旅行の自由といった私権の制限を伴う。
それについて、ドイツのメルケル首相は3月18日、国民に向けてテレビで演説をした。
少し長くなるが引用したい。
 演説は「親愛なるドイツにお住いの皆様」という言葉で始まり、「コロナウイルスは現在わが国の生活を劇的に変化させています」と続く。
そして次のように言う。
 「開かれた民主主義に必要なことは、私たちが政治決断を透明にし、説明すること、私たちの行動の根拠をできる限り示して、それを伝達することで、理解を得られるようにすることです。…中略…。
 連邦政府と各州が合意した閉鎖措置が、私たちの生活に、そして民主主義的な自己認識にどれだけ激しく介入するか、私は承知しています。…中略…。
 私は保証します。
旅行および移動の自由が苦労して勝ち取った権利であることを実感している私のようなものにとっては、このような制限は絶対的に必要な場合のみ正当化されるものです。
そうしたことは民主主義社会において決して軽々しく決められるべきではなく、一時的にしかゆるされません。
しかし、それは今、命を救うために不可欠なのです」
 移動や旅行が個人の自由でなかった旧東ドイツ出身で、そうした権利は天与のものではなく、自ら獲得すべきものだということを誰よりも知っている、そんな彼女がそれでも「自由を制限する必要がある」と、国民に理解を求めた言葉であった。
 私権の制限は、それほど、社会や個人に大きな痛みを与える例外的な措置である。
今は、自粛から経済活動再開へと、その道を模索している時期にある。
しかし、いつまた、私たちに外出の自粛や都市封鎖が再び求められる時が来るかもしれない。
そんな時だからこそ、私権のあり方とその制限に関しては、それを要請する側も、それを受け取る側も、自覚的であってほしい。
少なくとも私自身は自覚的でありたいと思う。
 それは、ポスト・コロナ社会において、感染予防のためには、強い監視的国家がよいのか、市民のエンパワーメントによる民主主義的手法に則った社会がよいのかという議論にも通じるものとなる。
ともすれば、緊急時の強権的私権の制限は、その後の日常にもその影を残し続ける。
そのことにも自覚的でなくてはならない。

(略)
■コロナ後の世界 選択可能な未来へ向けて
 ヨーロッパにおける中世ぺストの流行は、教会から国民国家への転換点となった。
今回の新型コロナの汎世界的流行(パンデミック)も私たちの社会を変えていく先駆けとなる。
問題は、それがどのような社会か。
国民国家からそれを超えた国際的な連帯への転換点となるのか。
あるいは監視的分断社会の訪れの始まりになるのか。
人や物、情報が地球規模で流動化するグローバル化によって今回のパンデミックが特徴づけられるとすれば、世界がこれほど驚愕している姿は示唆的でもある。
 コロナ後の社会が、情報技術(IT)を主体とした社会へと転換するのは間違いない。
しかし情報技術はあくまで道具であって、目的ではない。
それをどのように使うかは、私たち一人ひとりが考えるべき問題として残る。
 その時に大切なことは、明日への「希望」だと思う。
 20年以上も前に、アフリカでエイズ対策をしていたことがある。
現在のような治療薬はなく、予防が唯一私たちにできる対策だった。
村から村へと回り、感染予防の重要性を説く。
しかし、それがなかなか上手くいかない。
ある日、一人の青年がつぶやく。
「10年後は、エイズじゃなくても飢餓とか暴力とか、戦争で亡くなっている。今、エイズ予防をする意味はあるのか?」
 対策がうまくいかなかったのは、彼/彼女らの理解が足りなかったわけでも、私たちの説明が悪かったわけでもなかった。
ただ、彼/彼女らが、10年後の自分を想像できなかったからだ。
そうした現実の前に私たちは狼狽した。
 社会がどうあるか、どう変わっていくか、どういう希望のもとにあるべきか、というのは、一人ひとりの心の中にしかない。
それが合わさって、未来への希望につながる。
言葉を換えて言えば、選択可能な未来は私たちのなかにしかないということかもしれない。
 多くの災厄が詰まっていたパンドラの箱には、最後に「エルピス」と書かれた一欠片が残されていた。
古代ギリシャ語でエルピスは「期待」とも「希望」とも訳される。
パンドラの箱をめぐる解釈は二つある。
パンドラの箱は、多くの災厄を世界にばら撒いたが、最後には希望が残されたとする説と、希望あるいは期待が残されたために人間は絶望もすることもできず、希望と共に永遠に苦痛を抱いて生きていかなくてはならなくなったする説である。
パンドラの箱の物語は多分に寓意的であるが、暗示的でもある。
しかし解釈がどちらであろうと、希望を未来へとつなげていくのは私たち自身でしかない。
(『世界 2020年7月号』岩波書店 編集後記
6月26日
 医学者ベルツが加賀屋敷構内に居(きょ)を定めた。 1876(明治9)年

 東京医学校(のちの東大医学部)の教師として招かれた27歳のドイツの医学者ベルツは、1876年6月7日横浜に到着、この日、医学校のある加賀屋敷(旧前田邸<まえだやしき>)の構内に居を定めた。
日記によると、ベルツは、日本への到着5日後には、もう生理学の講義を始めた。
講義はドイツ語でやったが、学生はよくドイツ語がわかるので、通訳はじっさいには助手の役目をするだけだった。
お雇い外人教師ベルツの側にもドイツ医学を学ぼうとする学生たちの側にも、日本の近代化をになう若々しい情熱がみなぎっていたのである。
ベルツは29年も日本に滞在し、近代医学の発達に大きく貢献しました。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
日本の歴史22 大日本帝国の試練』に
ベルツの日記を引用して次のようなことが書かれています。
明治の終焉
 操り人形の体制


 東京帝国大学の教授で宮内省御用掛であったドイツ人医師ベルツは、宮中はじめ上層部に信用があって、その消息に通じていたが、その『日記』につぎのようなことを記している。
(『日本の歴史22 大日本帝国の試練』隅谷三喜男 中公文庫 改版2006年)
 「伊藤(博文)の大胆な放言には自分も驚かされた。半ば有栖川宮(ありすがわみや)の方を向いて、伊藤のいわく『皇太子に生れるのは、全く不運なことだ。生まれるが早いか、至るところ礼式(エチケット)の鎖でしばられ、大きくなれば、側近者の吹く笛に踊らされねばならない』と。そういいながら伊藤は、操り人形を糸で踊らせるような身振りをして見せたのである」
 ベルツもいっているように、たださえ天皇に「ありとあらゆる尊敬を払いながら、何ら自主性を与えようともしない」日本の政治体制は、このころ、ますますその機構を整備したのである。
 官僚機構が整備すればするほど、天皇は整備された舞台で、脚本どおりに動かされることになる、という避けがたい傾向もないわけではない。
だが、元老たちや宮中には、もう一つ深刻な心配があった。
それは次代の天皇、東宮の心身のひ弱さであった。
侍医ベルツはこう書いている。
 「東宮は、二週間このかた、急に目立って体重が減ってこられた。だから、体内のどこかで潜伏的に病勢が進んでいるかもしれない懸念があるわけだ。もともと東宮は、幼児のご病気以来おちついて一つのことに専念するのを好まれない性質なのだが、近頃はこれが旅行好きの形をとって現われてきた」
 したがって、元老・重臣たちにとっては、操りにからくりのほうをしっかり固めておくことが、何よりも重要な問題であった。
天皇の個人的な英邁(えいまい)さにいつまでも依存できないとすれば、大日本帝国の安泰は、国家の機構を確固・安全なものとしていくほかないわけである。
(『日本の歴史22 大日本帝国の試練』隅谷三喜男 中公文庫 改版2006年)
今朝の父の一枚です(^^)v
イチジクを写していました。

●イチジクの果実
 イチジクは、漢字で「無花果」と書きます。
これは、一見すると、イチジクが花をつけずに、丸い実のようなものをつけるからです。
 この丸い実を縦に割ってみると、壺に似た形をしています。
中には多数の小さな白色の粒のようなものがあり、この1つぶ1つぶが花で、それを包んでいる多肉質の壺状のものが花托です。
イチジクの実は、多肉質に肥大した花托の中に包まれた多数の花からできています。
このような多花果(複合果)は「イチジク状果」と呼ばれ、偽果の1つです。
 また、イチジクのように花序の軸が多肉化し、中央がくぼんで壺状になっている花序を「隠頭花序<いんとうかじょ> (イチジク状花序)」といいます。
ちなみに日本で栽培されているイチジクはメスの木だけなので、種子をつけません。
(『観察する目が変わる 植物学入門』矢野興一 ベレ出版 2012年)