2020年6月4日木曜日

風がほとんど吹かないので…

いつもはユラユラ揺れて写すのを諦めるのだけど
今朝は、ほとんど風が吹いていないのでハクチョウソウを写せました。
それだけに蒸し暑かったです(-_-;)
ネムノキの花が咲いていました。
落ちている花もあったので数日前から咲いていたようです。

寝る"運動"で擬人化される ネムノキ(マメ科)

 ネムノキとオジギソウを混同する人が多いのですが、ネムノキは樹木で、葉に触っても寝ません。
触れると葉が寝るのはオジギソウで、これは草でトゲがあり、沖縄などでは増えて困っています。
ネムノキの葉には光センサーがついていて、暗くなると葉を閉じる就眠運動をします。
マメ科の植物の中には暗くなくても規則的に寝る子もいますが、ネムノキは街灯の下などでは寝ていないので、光の影響もあるのかなと思います。
 花弁はありませんが、うすいピンクの雄しべが化粧筆のように開き、甘い香りがします。
花の後、マメ科らしい実がなります。
葉っぱは二回偶数羽状複葉で、二つそろった葉の先端はなんとなくウサギの耳っぽく見えます。
葉をよく見ると葉脈が真ん中でなく、やたら偏っているのが面白い木です。
葉の柄のもと付近に蜜線もあります。
(『散歩が楽しくなる 樹の手帳』岩谷美苗 東京書籍 2017年)
6月4日
 最澄(さいちょう)が死去した。 822(弘仁<こうにん>13)年

 天台宗の開祖最澄はこの日没した。年56。
 すでに病の重くなった4月、最澄は弟子たちをあつめて、「わがために仏を作ることなかれ、わがために経を写すことなかれ、我の志をのべよ」と遺言したと伝えられる。
おくりなを伝教大師(でんぎょうだいし)という。
最澄は767年近江(滋賀県)にうまれた。
道鏡(どうきょう)が法王になった翌年であり。
草庵(そうあん)をあんで修行した。
804(延暦<えんりゃく>23)年、37歳で空海とともに入唐し、諸宗を学んで翌年帰国した。
806年、天台宗を開いた。
 死の翌年、かれの拠(よ)った比叡山一乗止観院(いちじょうしかんいん)に延暦寺の勅額(ちょくがく)があたえられた。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)

最澄」(中学・高校 動画)
天安門事件から31年 香港の追悼集会 初めて開かれず」(NHK)

以前紹介した動画ですが
天安門事件 武力鎮圧」(NHK)

方方(ファンファン)さんの封鎖された武漢での生活をつづったSNS上の日記が、
政府の責任を追及することは売国的だ」。
と炎上しているそうです。
日本でもまったく同じだと思います。

中国 SNSで広がる“攻撃的愛国主義”」(NHK 国際報道)
同様にアメリカでは、大統領が分断を煽る投稿をしているのですが

トランプ大統領の投稿 スナップが宣伝中止 “暴力扇動”理由に」(NHK)
Twitterに続いて暴力を扇動する発信を規制したり

米黒人死亡事件 前国防長官が批判「トランプは私たちを分断」〟(NHK)
かつて政権を支えたマティス前国防長官やマレン元統合参謀本部議長らが、異例の批判や強い懸念の声をあげています。
このようなことが日本でも行なわれているのなら民主主義が根づいていると言えるのですが!
3月14日の記事などで写真家ソール・ライターを紹介したことがあるのですが、
バーボン・ストリート・ブルース』の中に高田渡が撮影した写真が載っています。
何度見ても見飽きない、その写真から新しく物語が生まれる写真だと思います。
(「高田渡」と呼び捨てにしているのですが、「さん」づけはなんかしっくりこない(^^ゞ)
第6章 『街の記録写真家』」を転記したいと思いますφ(..)
転記したくなったのは、渡の好きな写真家に
先日、閉館になった「大阪人権博物館」に所蔵されている写真家があげられていました。
第6章 「街の記録写真家」
 歌を歌うようになってから、僕は写真に興味を持ち始めた。
 京都にいたとき、兄から払い下げてもらった6×6という大きなカメラを持って、京都の街のスナップを写して歩いた。
(『バーボン・ストリート・ブルース』高田渡 ちくま文庫 2008年)
 写真は誰に教えられたというわけではない。
失敗を重ねながら覚えていった。
当時のカメラは今のような全自動ではもちろんない。
露出を合わせるにしても、自分の両手に光を当ててみて、その明るさでだいたいの見当をつけていた。
 僕がカメラに魅かれたのは、一本のギターから奏でられる音楽が弾く人によって異なるように、一台のカメラで写された写真も、写す人によってすべて違ったものになるからだった。
きわめて現代的な道具なのに、その人の性格が必ず出るのだ。
さまざまな無機質的なものが浸透しているなかで、人間が人間らしさを表せる数少ない道具のひとつだと言ってもいい。
だからおもしろいともいえる。
 本腰を入れて撮るようになったのは、京都から東京に引越してきてからのこと。
ライブで全国各地に出かけるときには、友人から譲り受けたニコマートがいつもバックの中に入っていた。
 フイルムは当初からモノクロと決めていた。
たしかにカラー写真は万人受けするし、誰もが抵抗なく受け入れることができる。
そして、色がついているがゆえに逆に、見る者に訴えかけるものがあまりない。
ほとんどの人は、「ああ、こんなものか」と思うだけだ。
 それがモノクロ写真となると、とたんにイマジネーションがかきたてられるようになるから不思議だ。
「ここはどんな色をしているんだろうか」というように、写真を見た人が色を感じようとするのはモノクロ写真のほうなのだ。
 以前は貸し暗室で現像までやっていたのだが、貸し暗室が少なくなって、なかなか自分で現像ができなくなった。
それでも使うフイルムは、今ももっぱらモノクロである。
 歌以外にカメラという別の目を持ったことは、自分にとってとてもいい刺激になった。
写し始めたころは、歌を歌う写真屋さんというのが案外ウケそうな気がしたものだ。
 僕の写真は、一見、スナップ風に撮っているように見えるらしいが、実は写したいシーンというのは、確固たるものとして自分のなかに常にある。
つまり、こんな風景があったら写したいなというのが頭のなかにあって、それと同じシーンに出くわすのを待っているのである。
 たとえば僕が写した一枚、吉祥寺にあった玉子屋の写真(本章扉参照 省略)。
何気ない日常のなかの一コマのような写真だが、これを撮るのに同じ光が来るまで一年待った。
 飲み屋でも同じだ。
いつも同じ飲み屋へ行って同じ人に会っているが、その人がいい顔をするときというのは一瞬しかない。
その一瞬を待つ。
僕がカメラを取り出して写そうとしても、それを意識せずにふといい表情を見せてくれるときまで、ずっとずっと待っている。
そのうちに僕は酔っ払ってしまうのだが。
 その瞬間瞬間をサッと切り取るような写し方もたしかにいいと思うし、僕もそのようにして写すことだってある。
だけど、基本的には自分のなかに持っている「これだ!」というイメージに出会うまでずっと待つ。
生き方は行き当りばったりでかなりいい加減であるが、こと写真にかぎって言えば、けっこう計算し尽くして写すタイプなのだ。
 そんな僕の写真を見て、ある老写真家は僕のことを「街の記録写真家」と呼んでくれた。
その呼ばれ方はなかなか気に入っている。
 僕が写した写真は、年寄りを被写体にしたものが多い。
別に若い人たちが嫌いなわけではないが、プリンプリンな若い人たちよりも、しわしわになったじいさんばあさんのほうに魅かれてしまう。
年寄りがいる風景には、色っぽさが感じられるのだ。
 若い女性のヌードを写したことは一度もない。
写したくないというわけではないのだが、僕がヌードを写しても、絶対に色っぽい写真にはならない。
色っぽい写真を写すのだったら、じいさんばあさんのほうがずっといい。
長生きしてきた人のほうが、「昔はどうだったんだろうなあ」と想像できる。
そのほうがよっぽど色っぽいと思う。
 僕がヌードを写すときには、たぶん全体を写すのではなく、どこか体の一部だけを切り取るようにして全体を想像させるような写し方をするだろう。
それはヌードに限ったことではなく、好きな女の子の写真を写すときでも同じような撮り方をすると思う。
たとえ写っているのが指先だけであっても、充分その子のイメージが伝わってくるような、そんな写真がいい。
 直接的な表現ではなく、視点を微妙にずらした表し方は、歌も写真も同じだ。
直接的な表現というのはどうしても気恥しいのである。
 好きな写真を挙げろといわれれば、ブレッソン、ユージン・スミスらが思い浮かぶ。
それにブラッサイ。
このフランスの大写真家が街娼を写した写真を、僕は最高に評価したい。
写された街娼はみな、なんのためらいもなくレンズに向かっている。
それは、ブラッサイを信頼していなければできないことだ。
ブラッサイにとっては、カメラのシャッターを押すことなどどうでもよかったのだろう。
それよりも彼女たちといっしょに飲んだり雑談したりすることのほうが大事だったのだ。
彼の写真からは、そんな気持ちが確実に伝わってくる。
 日本の写真家のなかでは、土門拳と木村伊兵衛。
どちらもとてもすばらしい写真家だと思う。
が、あえてどちらが好きかといわれたら、おそらく木村伊兵衛と答えるだろう。
単に好き嫌いの話だが、木村伊兵衛のいつの間にかそばにていも誰も気づかないうちに撮っているというところに人間味が感じられる。
被写体が自然で素朴なのだ。
 ステージの仕事が入り、かつて訪れたことのある場所に再び行く機会がある。
だけど、以前にそこにいた人たちはみんなどこかに行ってしまっている。
昔は木枠だった窓が、サッシの窓に変わってしまっている。
時代が変わったといえば、たぶんそうなのだろう。
 そして僕はだんだんと写真を撮らなくなっていった。
 今、撮りたいなと思っているのは、「人が座っていたであろう椅子」の写真である。
写真に人は写っていないが、さっきまでその椅子に人が座っていたことが伝わる写真、そんな写真が撮れないものだろうかと思っている。
(『バーボン・ストリート・ブルース』高田渡 ちくま文庫 2008年)