2020年6月20日土曜日

雨が止んでくれたので…

昨日は、風邪をひきそうな冷たい雨が降っていたので眼科を受診していました。
公園で顔見知りの方と、夏風邪をひくとコロナに間違えられるかもしれないと話していました。
写りが悪いのですが、アリの行列が見えて、小さな白いのを運んでいると思ったら蛹みたいでした?
アリの種類を確認できなかったのですが、サムライアリなら「奴隷狩り」をしているそうです。

サムライアリ」(玉川の仲間たち 2016年)
昨日19日は、「奴隷解放記念日」。

NY州、奴隷解放記念日を祝日に」(mashup NY 20200618)
来年から祝日になるそうです。

八村塁選手もチームメートらと
私たちはともに闘うTOGETHER WE STAND)」
と書かれた横断幕を手に抗議活動をしました。

「奴隷解放記念日」アメリカ各地で集会やデモ行進 差別に抗議〟(NHK)

アフリカの歴史 奴隷貿易」(中学・高校)

そしてEテレの語学講座に
つぶやき英語「ブラック・ライブズ・マター 世界の投稿

#Black Lives Matter

ビヨンセさんからのメッセージ

おめでとう2020年卒業生の皆さん
あなた達は、地球規模の危機
人種間のパンデミックの中にいます。
武器をもたない黒人の命が、また無意味に奪われ
世界が怒りを表す中
卒業にこぎつけたあなた達を私達は誇りに思います。
声を合わせ「Black Lives Matter」を世界に知らせてくれてありがとう。
人と違うことは美しい。
肌が黒いことも美しい。
思いやり、理解し、自分とは違う人のために戦う
それが美しいのです。


セサミストリートの投稿

すべてのストリートがセサミ・ストリートのようではないんだ…
あの人たちは「もうたくさんだ!」と言っている。
彼らは人種差別を終わらせたいんだ


再放送は、6月26日(金)午前10:25~

見逃し配信は6月26日(金) 午後9:55 まで
今朝の「NHK映像ファイル あの人に会いたい」は、塔和子(とうかずこ)さんでした。
番組より

 瘤

樹木の瘤をさするとき
深い深い重さがある
遠い遠い悲しみが伝わって来る

きびしい風雪に耐え
内部の傷をいやし続けた瘤
瘤は傷痕 だが美しい

ほかのどの木より
瘤の多いお前の外観は
ひときわ目立つ

ああその背伸びしない
安定の美しさに
私のすべてをあずけて眠りたい

再放送は6月26日(金)午後1時50分から
塔和子さんはハンセン病のために国からも強制隔離という差別を受けていました。
奴隷制度などについても知らないことが多いと思う。
SNS上でのヘイトなど私たちが差別について考え、
差別されている人々への応援のメッセージを送らないといけないのに
大阪では
人権博物館と大阪市の裁判和解」(関西 NHK)
このニュースの情報だけでは、大阪人権博物館が土地を不法に占拠していたと思う人がいるだろう。
5月31日の記事にも書いたように
旧栄小学校の土地などは、地域の人々が差別をなくそうと提供した歴史がある。
市長が、「今後の連携や協力は、市民が納得できる内容か個々に判断し、対応したい」と言っているけど
ピースおおさかの加害の歴史を隠蔽するような展示替えをさせたことを考えると不信感しかない。
村上貴弘さんのTwitterを見てビックリした。

進化の研究をしているものですが、ダーウィンはそんなことひとことも言ってません。
ダーウィンの進化論を間違って広報するのはやめてください。
お願いですから、この漫画、撤回してください。


憲法改悪にダーウィンを利用するんだ。
ヒトラーがダーウィンを利用したことに通じる。
ダーウィン進化論に生じる誤解」(NHK100分de名著ダーウィン『種の起源』

ニーチェもナチスに利用された。
コラム「ナチスに利用されたニーチェ」小林 和久(NHK高校講座倫理
昨日、用意していた記事(^^ゞ

6月19日
 日米修好通商条約がむすばれた。 1858(安政<あんせい>5)年


 この日の午後3時、神奈川沖に停泊中のアメリカ軍艦ポウハタン号から、21発の礼砲がとどろきわたった。
 艦上では、日本側代表の目付岩瀬忠震(ただなり)・下田奉行井上清直(きよなお)と、アメリカ側代表ハリスが、日米修好通商条約・貿易章程(しょうてい)にサインをおえたところだった。
14条の本文と、7則の章程からできているこの条約は、この年の1月までに原文ができあがっていたが、これに反対する京都の朝廷との関係がこじれておくれていたのである。
このあと、ハリスは「これであなたの国は大砲で脅かさなくても条約をむすべますよ」とイギリス人に自慢した。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
日米修好通商条約」(小学6年)

教科書で習ったことでも、歴史書を読むと違った側面を知ることができます。
日本の歴史18 開国と幕末変革』より「勘定奉行の外交判断」を転記しますφ(..)
この前が「ハリスの大演説」になります。
ここを読んでからでないと分かりにくいと思います。
第四章 開国と外交交渉
 勘定奉行の外交判断


 勘定奉行たちは、ハリスの大演説百七十三ヵ条の内容を、それまで幕府が蓄積してきた外交情報と突き合わせ、2日間で点検して上申した。
たとえば、ハリスが「合衆国の政府においては、他方に所領を得そうろう義は、禁じ」と、アメリカは非侵略国であると唱えた箇条について、1848年(嘉永<かえい>元)と54年(安政元)の「オランダ別段風説書」で検討し、メキシコ戦争でアメリカが「カフホルニーを掠取(りゃくしゅ)」したこと、その後、賠償金の代わりに「メシルラタル(ニューメキシコ)と申す地を取」った事実から、アメリカ非侵略国論を否定している。
(『日本の歴史18 開国と幕末変革』井上勝生 講談社学術文庫 2009年)
 また、ハリスが、イギリスが中国へアヘンを持ち込んだことを批判し、「英人は、日本にても唐国(中国)同様に、阿片(あへん)を好みそうろうものこれあるべしと、持ち渡り、売り広めたき志願」と警告し、「合衆国大統領、日本のために、阿片を戦争より危ぶみおり」と、アメリカのアヘンの害を忠告する友好論を述べた箇条についても、勘定奉行は「唐船(からぶね)風説」などで検討するとともに、北京で漢訳された『海国図志(かいこくずし)』60巻の中から、「アメリカがトルコのアヘン、毎年、千余箱を中国へ運んでいる」という、トルコアヘンをアメリカが大量に運んでいる記事を見つけ出して、ハリスの偽言を証明する。
これは、『海国図志』の記述が真実である。
 条約を結べばインドの轍(てつ)は踏まないというハリスの説得にも、「一通り、もっともに聞こえるが、これまで西洋のなかで、亡んだ国は幾多、聞いている。国を保つのは、戦守の力あってのことで、条約によるものではないと聞く」と批判する。
この他、典拠文献の史料編をも作成した勘定奉行の点検には、批判として妥当で、今日でも聞くべき点が多い。
 一方の積極開国論の上申書を見ると、勘定奉行の綿密な点検ぶりとくらべ、ハリスに対して協調的にすぎるのである。
目付たちは、なにかの際にアメリカ大統領が「媒(なかだち)」になるというハリスの説明に、「天に誓って、申し立てることは、虚談(うそ)ではないであろう。たとえ虚談でも、その言葉を踏まえて、義理をもって詰まれば、人心ある者は、幾重にもお国のため骨折るだろう」と説明する。
「天に誓って」というのは、ハリス演説そのままの引用であり、ハリスのアメリカ友好論に共鳴しているとまではいえなくとも、過度に反応していることがうかがえる。
この点、勘定奉行川路聖謨(かわじとしあきら)や水野忠徳(みずのただのり)らの点検の方が、アジアに対する当時の欧米外交の真の姿をとらえているのである。
 ハリスの日記『日本滞在記』には、ハリス自身による演説の要約がある。
その要約は「対話書」と正確に照応しているが、アメリカ友好論とイギリス脅威論の対照は、まったく消去されている。
欧米の常識からすると、ずれた説明だからである。
それは、ハリスの日本向けの外交テクニックだったのであり、この点、アメリカ友好論を徹底的に批判した勘定奉行たちの点検は、まさに正鵠(せいこく)を射(い)ていた。
 老中堀田らは、積極開国路線ではなく、勘定奉行たちの「やむをえず」開国という上申を採用した。
通商開始後の日本経済に発生した混乱を見てもわかるように、「やむをえず」という慎重な開国論が妥当であった。
消極派と積極派両様の開国論の存在においても、今までかすみがちであった消極派の冷静かつ慎重な外交判断を再評価する必要がある。
 ハリスの『日本滞在記』の記述を見ると、日本の民衆に対しては好意的であるが、一方、日本の役人にはきわめて辛辣(しんらつ)である。
「彼らは、地上における最大の嘘つき」というような表現が頻出し、ハリスの激しい憤りや憤懣(ふんまん)を彷彿(ほうふつ)とさせる。
それをわたしたちは、知らず知らず文明の側、つまりハリスの側に立って読んでいることが、しばしばである。
わたしたちは、どうしても文明の側に同調しやすい。
 しかし、冷静に考えてみると、ハリス自身の言動はどのようなものであっただろうか。
先の勘定奉行たちの点検からもわかるように、アメリカの友好外交や平和主義、イギリスの脅威やアヘンについて述べるとき、彼は真実を述べてはいない。
ハリスは偽言を駆使しており、幕府の役人を批判する立場にはいないのである。
外交の術としてのあり方において、「文明」と「半未開」にほとんど差はない。
むしろ、「未開」に対する尊大な言辞ゆえに、「文明」の方が評価を相当に割り引かれても当然である。
 この後、岩瀬忠震(いわせただなり)と井上清直(いのうえきよなお)、ハリスのあいだで13回の交渉がもたれた結果、翌58年(安政5)、日米修好通商条約草案が合意された。
条約の骨子は外交官の常駐、民間貿易、神奈川・長崎・箱館・新潟・兵庫の開港、江戸・大坂の開市、貨幣の同種・同量の交換、アメリカ人遊歩範囲(十里以内)、アヘン輸入禁止などである。
重要な点は、とくに片務的最恵国条項と領事裁判権が盛り込まれたことであり、まさに不平等条約であった。
そして、付属章程では協定関税も規定され、関税自主権も失った。
 近代主権国家は、領土内において排他的な法権・裁判権を持ち、貿易ついては関税自主権を持つことが、現在でも変わらない原則であるが、通商条約はこの二つの権利を欠いていた。
片務的最恵国条項が和親条約から継続して規定されたことも、不平等条約としては重大な点であった。
しかし、一方、外国商人が居留地以外での商行為を禁止されたことが重要であった。
 アメリカ人遊歩の範囲が原則として十里以内となったことは、中国が欧米に国内自由商用旅行を認めたことと、大きく異なるところである。
日本側全権が強硬に主張した結果であるが、以後、貿易の国内への影響という点で、日本にとって重要なプラスの役割を果たすことになる。
ただし、中国では、イギリス商人は国内通行自由となり、領事裁判権など不平等条項とあいまって重大な損害をこうむったものの、安い労賃の家内工業で生産された中国在来の「土布(どふ)」(厚手木綿)に対して、イギリス薄手木綿は中国内地まで販路を広げられなかったことがわかっている。
イギリス綿布の中国侵入も、イギリス産業界の期待どおりにはまったく進まなかった。
欧米の侵入に対する中国の抵抗する地力が、再評価されていることを付け加えておきたい。
(『日本の歴史18 開国と幕末変革』井上勝生 講談社学術文庫 2009年)
今朝の父の一枚です(^^)v
タイサンボクの花が笑っているように見えたそうです(*´▽`*)