2020年7月1日水曜日

7月になりました…

曇り空で風があったので歩きやすかったです。
でも、風に揺れる草花を写すのは辛い。
人間って勝手ですね(^^ゞ…

忘れ草(ノカンゾウ)が咲いています。
嫌なことを忘れさせてくれるのはいいのですが、大事なことまで忘れているな…(-_-;)
ヤブカンゾウ ツルボラン科(←ユリ科)

長い梅雨も終わり、田の緑も一段と濃くなる頃、土手やあぜ道で橙色の花を咲かせます。
その色の対比にはどこか柔らかな感じが漂い、日本の代表的な田園風景の1つに数えられるでしょう。
しかし、ヤブカンゾウ自体はずいぶん古代に中国から渡ってきた植物です。
人里周辺にいたる所に生えますが、花は咲いても種子はできず、根だけでこれほど増えるのは大したものです。
春に出る新芽はおいしい山菜ですし、根も薬用に利用できます。
あれこれ役に立つ、ヤブカンゾウは偉い花ですね。
●分布:北海道、本州、四国、九州
●花期:7月~8月

識別のポイント
花びらの枚数が違います。

ヤブカンゾウの花は雄しべが花びらに変化していて、その分、花びらの数が多いのです。
(『花のおもしろフィールド図鑑(夏)』ピッキオ編著 実業之日本社 2001年)
7月1日
 わが国最初の衆議院議員総選挙が実施された。 1890(明治23)年

 この日、役人や警官が見張る中で、平民もおそるおそる投票した。
しかし、選挙権を持つ者は、地租(ちそ)と所得税の直接国税を15円以上納める満25歳以上の男子に限られていた。
その人数は国民のわずか1.1パーセントにすぎなかった。
 立候補の資格は満30歳以上の選挙権を持つ者であった。
投票方法は投票用紙に姓名と住所を書き印を押して投票した。
 872名が立候補したこの選挙の結果は、定数300名のうち反政府側の民(みん)党(立憲自由党や立憲改進党など)が議会の過半数を占め、政府支持の吏(り)党は少数だった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
制限選挙と普通選挙」(中学 動画)

日本の歴史 第25巻 自由民権』より「第一議会選挙大干渉」を転記しますφ(..)
(「憲法と議会 議会と政党」より)
 第一議会

 明治23年(1890)7月、第一回総選挙がおこなわれた。
男子25歳以上、1年以上選挙地府県に在籍居住、1年以上国税15円以上を納入などの条件をみたした有権者は約45万人(人口比1.1パーセント)で、300人の衆議院議員を選出した。
投票率は92パーセント、党派別は不正確だが、自由党系130、改進党系40を合わせると、すくなくとも過半数を制していた。
政府系の大成会は約80人である。
府県会議員・市会議員の経歴者は70パーセントをこえている。
(『日本の歴史 第25巻 自由民権』永井秀夫 小学館 1976年)
 初期の議会を「地主議会」といえるかどうかはわからない。
地租30円以上の地主が衆議院議員の約半数、90円以上なら三分の一であって、地主の比重が高いこと、府県会議員の経歴がしめすように地方の名望家が多いことはたしかである。
したがって、初期の議会が土地所有者の利害と地方的利害を中心として動いていったことは当然だが、地主層とくに寄生地主の利害だけに密着していたわけではない。

 第一議会は23年11月に召集された。
政府と民党との対立は予算案の審議に集中的にあらわれた。
民党は「政費節減」「民力休養」をとなえて大幅な予算削減をおこなった。
歳出総額予算9000万円にたいし、788万余円の削減である。
削減の内容は、官庁人員と俸給の削減であり、庁費=行政費の削減であって、事業費の削減ではなかった。
つまり「政費節減」というのは、直接には官庁行政機構の粛正をねらったものであった。
予算委員会の説明のなかに「わが官吏の俸給はわが人民の富度に比較して、すこぶる多きに過ぐるを見る。故に現行の官等俸給を改めて職給と為し、かつ官吏の員数およびその俸給に削減を加ふるの見込をもつて、俸給および諸給を査定せり」とある。
自由主義時代の一般の政策理念に「安上がりな政府(チープガバメント)」ということばがあるが、民党は政府の保護・干渉政策をきらっただけでなくて、政府そのものの粛正をもとめていたのである。
一方、「民力休養」のためには、削減額をもって地租軽減と高利公債の償還にあてることとしていた。
地租軽減は三大事件の一つにとりあげあれた民党の年来のスローガンであり、事実上も国民の負担体系のなかで地租は最大の部分を占め、しかももっとも過重な負担を強いられた部分だったから、「民力休養」の中心に地租軽減がすえられるのは自然だった。
 政府は、予算削減に反対し、また議会が官制に関係する削減をこころみたことにたいし「憲法上の大権に基ける既定の歳出」にかかわる議案は政府の同意なしには衆議院の確定議とはなしえないという憲法(67条)解釈によって対抗し、議会解散の態度をしめして民党をおびやかした。
対立点は憲法の解釈、議会の権限と官僚制そのものにたいする攻防をふくみ、立憲政をどのように運用するかという試金石となるべきものだった。
 政府は民党の切りくずしに全力をあげた。
民党は、自由党系の各派を合同した立憲自由党と立憲改進党だったが、とくに自由党内の派閥対立はつよかった。
また、日本最初の議会を大過なく運営したいという希望は、政府だけでなく民党の幹部にもあった。
その結果、土佐派の幹部を中心とする脱党議員がでて形勢は逆転し、予算651万余円の削減という妥協案が成立して、政府の同意のうえに可決されたのである。
 したがって問題は、削減額が100万円ほど減額したということにとどまらない。
中江兆民は、政府の同意を「哀求」し、政府のいいなりになる「軟派」の議会を「無血虫の陳列場」とののしって議員を辞した。
憲法条文の解釈で議会の権限をぎりぎりまでひろげていこうという兆民らの意図は、この妥協によって挫折したのである。
選挙大干渉
 第一議会の結末は民党にとっても挫折だったが、政府にとってもけっしてよろこべるような結果ではなかった。
予算の7パーセントを削減され、行政整理を約束させられた。
この調子では、政府のあたらしい政策予算の運命はおぼつかないのである。
事実、第二議会では軍艦建造費・製鋼所建設費をふくむ790余万円、予算原案の1割近い額が削減された。
民党も海軍拡張にかならずしも反対するわけではない。
海軍をふくめて、いまの政府が信用できないというのである。
政府部内の情実、国費の無駄づかい、保護会社との結託、などあらゆる問題をとりあげて政府を攻撃した。
薩長藩閥への攻撃に激高した樺山(かばやま)海相がいわゆる「蛮勇演説」をおこなったのはこのときである。
  薩長政府とか何政府とか云っても、今日国の此の安寧を保ち、四千万の生霊に関係せず、安全を保つと云うことは誰の功である。
 (笑声おおいにおこる)御笑なる様の事ではございますまい。
 ……今の即ち此の軍艦製造、此の製鋼所設立の件に就いて、此の如き理由より削減したと云う事なれば、本大臣に於て決して不満足に考える。
 他に理由があれば宜しい。
 能く御分りになりましたろう。
 支離滅裂だが気持はよくわかる。
薩長二藩の志士が一身を犠牲にして日本の命運をになってきたではないかという自負がある。
海軍拡張は至上課題ではないかという確信がある。
伊藤博文も「超然主義」の演説をおこなって、井上毅らにたしなめられたとき、「誠意をもってあたれば議会の協力が得られるはずだ」といったことがある。
しかし、国家目的と一致しているという自負や、誠意だけでは協力が得られるはずはなかった。
議会はまさしくその藩閥政府が信用できないといっているのである。
 予算削減案を議決した議会は解散され、総選挙がおこなわれた。
解散を奏請(そうせい)した政府の文章には、

  開会以来衆議院の経過此(かく)の如し、臣等重責に当り、国事を以て是(かく)の如き議会の賛画(さんかく)に託するの、国家の昌運(しょううん)、臣民の福利と相容(い)れざることを信ず。

とある。
こんな議会に国事を託するは国家のためにならないというのである。
しかし、解散・総選挙をやっても議員の顔ぶれがかわらなかったらどうなるか。
解散の翌日、徳大寺実則(侍従長)は天皇の意向を伊藤につたえた。
 伊藤はみずから野(や)に下って政府党を組織するといったが、天皇も他の政府首脳も反対した。
実際におこなわれたのは選挙にたいする大干渉である。
 総選挙は25年2月におこなわれた。
政府は予戒令(よかいれい)をしいて民党壮士の運動を弾圧し、府県知事は警察官・郡町村吏員を指揮して民党候補者を圧迫し、お雇い壮士は白刃をふるって選挙人を脅迫し、民党壮士とのあいだで白兵戦を演じた。
政府調査で死亡25人、負傷388人とある。
実数はこんなものではあるまい。
まさに、政府は手段をえらばず、なりふりかまわず御用議員の生産につとめたのである。
樺山演説も「蛮勇」だったが、この選挙干渉は文字どおりの「蛮勇」である。
しかし、選挙結果は民党163、吏党137に終わった。
吏党ということばは政府支持派にたいする初期議会の新造語である。
もともと「超然主義」というのは、帝国憲法発布ののち、黒田首相が地方長官にたいする訓示のなかで「政府は常に一定の方向を取り、超然として政党の外に立ち、至公至正の道に居らざる可らず」といい、伊藤もまた府県会議長にたいする演説のなかで同趣旨のことを述べたことによる。
いわば議会と政党にたいする政府の公式態度をしめすことばだが、現実にその立場をつらぬくことは困難だった。
(『日本の歴史 第25巻 自由民権』永井秀夫 小学館 1976年)
転記しながら思ったのは、コロナへの支援策を口実に税金の無駄遣い、
河井案里氏側へ1億5000万円に振り込まれたことなどなど。
そして反対派を力づくで押さえつける中国。

今日が香港政府は中国への返還から23年の記念日となる。
1997年に英国から返還された後、中国はそれまでの制度を50年間維持すると約束していました。
よって香港には言論、出版、報道の自由や集会の自由などが認められてきました。
香港の自由がなくなる? 今さら聞けない「一国二制度」とは〟(あさがくナビ)
今朝の父の一枚です(^^)v
公園に来ると木の葉が一杯落ちていました。
中には枝がついたのも…
夜中に「激しい雨」の予報メールも届いていました。

30日夜は暴風に警戒 1日明け方にかけて激しい雨も」(えりの気象日記 6月30日)