2020年6月5日金曜日

今から真夏日では…

池のそばを通るとエゾミソハギが咲いていました。
熊本大学薬学部薬草園植物データベースを見ると

止瀉、解熱、止血などの作用があり、
下痢、赤痢、子宮出血などのほか、腸炎、膀胱炎、浮腫などに用いられる。
皮膚の潰瘍には葉をすりつぶして外用する。
熊本県では盆花として用いられる。


5日金曜日も暑い! 各地で真夏日の予想」(えりの気象日記 6月4日)
歴史秘話ヒストリア「富山の薬売り 知恵とまごころの商売道
富山の薬売りたちはピンチをチャンスに変えてきた歴史がある。
幕末の薩摩藩を支えたのが富山の薬売りだとは知らなかった。

歴史秘話ヒストリア「富山の薬売り 知恵とまごころの商売道」(NHK 関西ブログ)
クサカゲロウの仲間かな?

ヨツボシクサカゲロウ[クサカゲロウ科]
体色は黄緑色で、顔に4、5個の黒色斑点がある。
複眼は赤銅色の光沢があり、英語では golden eyes という。
翅はうすい黄緑色を帯びる。
細かい翅脈(しみゃく)をレース編みに見立てて green lacewing ともいう。
開張は35~50㎜とやや大型。
●出現期は4~11月。
●「クサカゲロウ」の由来は、成虫が「くさ」いにおいを出すためで、「草」カゲロウではない。
幼虫・成虫ともに肉食で、アブラムシをよく食べる。
灯火に飛来することもある。雌は葉の裏などに細長い柄のついた卵を産むが、細長い柄は産卵のときに分泌された粘液が固まったものである。
この柄つきの卵を「うどんげの花」と呼ぶ。
●本州以北の山地に多いクサカゲロウは、体型・体色ともに本種に似るが、顔の黒紋はX字型で開張も30㎜前後と一回り小さい。
(『校庭の昆虫』田仲義弘・鈴木信夫 全農教 平成11年)
6月5日
 新撰組が池田屋を襲撃した。 1864(元治<げんじ>元)年

 約束の夜8時がすぎても、応援の京都守護職(しゅごしょく)と所司代(しょしだい)の部隊がやってこないのに腹をたてた近藤勇(こんどういさみ)は、新撰組30人をひきいて、10時ごろに京都三条通り河原町東入ルの旅館池田屋に乱入した。
池田屋では、尊王攘夷派(そんのうじょういは)の志士約20人が、仲間の一人がつかまっために、その対策を相談していた。
 とつぜんの襲撃に、志士の内7名が切り殺され、残りもほとんどつかまってしまった。
つぎの日、大得意の近藤は養父に手紙をかき、「私の指揮がとてもよかったとほめられ、私には長道(ながみち)の名刀、組みへは金五百両をたまわりました」と自慢している。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
京都を歩く時の参考書(^_-)
幕末歴史散歩 京阪神篇』より「池田屋事変と吉田稔麿」を転記しますφ(..)
京都を歩いていると、こんなに狭い範囲で血生臭い事件が起きていたんだなと思います。
第三章 討幕強行
 池田屋事変と吉田稔麿


 明治維新を1年遅らせたと言われる「池田屋事変」は、元治元年(1864)6月5日に起こった。
 この夜、京都三条小橋西詰の旅宿池田屋で、長州系の尊攘派浪士など二十数名が集まり、密談をしていた。
彼らは、前年8月18日の政変で失脚した長州藩の復権策を練っていた。
一説によると、京都じゅうに放火し、混乱に乗じて天皇を長州に連れ去るという過激な計画まで立てていたという。
(『幕末歴史散歩 京阪神篇』一坂太郎 中公新書 2005年)
 それを察知した近藤勇(こんどういさみ)率いる新選組は、池田屋を襲撃したため、多数の死傷者、逮捕者が出た。
激闘は2時間におよんだという。
 尊攘派側は長州の吉田稔麿(よしだとしまろ 24歳)・杉山松助(すぎやままつすけ 27歳)・広岡浪秀(ひろおかなみひで 24歳)、肥後の宮部鼎蔵(みやべていぞう 45歳)・松田重助(まつだじゅうすけ 35歳)、土佐の望月亀弥太(もちづきかめやた 27歳)・北添佶磨(きたぞえきつま 30歳)・石川潤次郎(いしかわじゅんじろう 29歳)、播磨の皮具足商大高又次郎(おおたかまたじろ 44歳)が斬られたり、自害して果てた。
一方、新選組は新田革左衛門(にったかくざえもん)・奥沢栄介(おくさわえいすけ)が即死(異説あり)、藤堂平助(とうどうへいすけ)が眉間を切られて重傷を負い、永倉新八が親指の付け根の肉を斬り落とされた。
 この知らせがもたらされるや、長州藩は絶望のどん底に叩き落される。
長州藩はそれまで、嘆願による平和的手段での復権にも一縷(いちる)の望みを抱きつづけていたからだ。
 特に吉田稔麿(栄太郎<えいたろう>)は、幕府方にも知己がいたので、パイプ役として期待をかけられていた。
 吉田は長州萩(はぎ)の下級武士出身で、吉田松陰(しょういん)門下の秀才。
万延元年(1860)8月には兵庫御備場御番手に任じられたが10月に脱藩し、江戸で旗本妻木田宮(つまきたみや)の用心となった。
幕府内に勤王の大義を説くつもりだったという。
だが、文久2年(1862)夏に脱藩の罪を許され、翌3年7月に士雇(さむらいやとい)に列せられて、屠勇取立方に任じられる。
8月の政変後は長州藩復権のため東奔西走していたが、その最中、京都に立ち寄って難に遭ったのだ。
 この「池田屋事変」は、長州藩に対する幕府方の徹底した強硬態度の表明だった。
もはや武力に訴えるしかないと絶望した長州藩は、同年7月19日「禁門の変」を引き起こす。
 池田屋は現在はない。
間口三間半、奥行十五間、総建坪およそ八十坪、客室全体で六十畳という京特有の旅籠(はたご)だったという。
跡地はパチンコ屋になり、「維新史蹟 池田屋騒動之址」と刻む小さな石碑を見るのみだ(京都市中京区河原町通三条東入ル北側、中島町)。
前の通りも幕末にくらべると2倍以上に拡張されているらしい。
 池田屋事変で亡くなった「志士」たちの遺骸は、幕府役人の手で近くの浄土宗三縁寺(さんえんじ)に山積みにされた。
そして、彼らが出入りした料亭の女主人小川ていに、遺骸の名を確認させた上で埋葬された。
 時は流れて昭和54年(1979)4月。
京坂三条駅の東にあった三縁寺は、郊外の京都市左京区岩倉花園(いわくらはなぞの)町606に移転する。
そのさい、彼らの墓を掘ったところ、記録を上回る15もの頭蓋骨が見つかった。
 いきなり襲撃して斬り捨てるという新選組の過激なやり方には、当時から幕府内部でも非難の声が強かった。
長州藩も京都守護職に抗議している。
そのため、死者数を少なめに発表したのだろうという説が生まれた。
 いまも岩倉の三縁寺墓地の一角、鳥居内に事件殉難者の墓碑数基が並ぶ。
宮部・松田の合葬墓、大高又次郎の墓、吉田・杉山・北添・望月・石川・広岡の合葬墓などである。
(『幕末歴史散歩 京阪神篇』一坂太郎 中公新書 2005年)
今朝の父の一枚です(^^)v
低い所で咲いていたと話していました。
いつもマスクをつけて歩いているので、
人が少ない所ではずらした方がいいよと前から言っていたのですが
今日は、「熱中症になるとコロナと勘違いされるから」と話すと
人がいない所ではマスクをずらしてくれました。

今村顕史さんのTwitter

屋外で人との距離がとれる場合は、マスクをはずしても大丈夫。
換気を優先しすぎて、室温を上げすぎないこと。
暑い環境に長くいるときには、こまめな水分補給を。
感染対策だけでなく、熱中症対策も、命を救うための行動だということも忘れないように。