2020年6月16日火曜日

一気に…

日曜日まで雨が続き、梅雨の中休みということで晴れたけど
一気に気温が30度を超えている。
公園に来ると、なかなか開かないなと思っていた蕾が一気に開きだしてました。

16日も梅雨の中休み 晴れ間広がりそう」(えりの気象日記 6月15日)
バンド名は知っていたし「ラヴィン・ユー・ベイビー」♪も好きな曲なのに
ジーン・シモンズのことを全然知らなかったなと録画していた番組を見てビックリしました。
あの衣装と楽器を合わせると20㎏相当になるとか…
昔、山を登っていた頃、装備が今のように軽量化がすすんでいなかったので20㎏位になっていた。
(体力のある人はもっと担いでいた)
ザックのベルトがギシギシ鳴っていた。
70歳のジーンが2時間も演奏を続けている!
ストーリーズ「誇り高き悪魔 KISSジーン・シモンズ

ジーンは1949年イスラエルで生れた。
母フローラはホロコーストの生存者だった
フローラは、第二次世界大戦中、家族と共にナチスに捕らえられた。

ジーン・シモンズ)
母は14歳でナチスの強制収容所に送れた。
想像し得る一番残酷な方法で両親と兄が目の前で殺されるのを見た。
母はいつも私に言っていた。
日々、命があるだけで良い日なんだと
生きていて健康ならば、それだけで勝者なんだ


“生かされている限りは、上を目指す責任がある”
母の教えがジーンの原動力となった。
父に捨てられたジーンとフローラは、1957年ニューヨークへ移住。
幼いジーンは、新聞配達を掛け持ちして母を助けた。
貧しさの中、支えになったのは“ロック・ミュージック”

見逃し配信は6月22日(月) 午後11:14 まで

大阪小児科医会のポスターには

★フェイスシールドの着用で以下のようなトラブルが心配されます。
・熱中症のリスクが高まります。
・物がゆがんで見えたり、光が反射して、授業に集中できません。
・転倒などで顔面や眼を傷つける心配があります。
6月16日
 学徒兵竹田喜義(たけだきよし)が戦陣日記で自我を主張した。 1944(昭和19)年

「六月十六日(金)晴〔中略〕
 〝我執(がしゅう)を捨てよ〟と言う。しかしそんなに簡単に捨てられる我執だったら、軍隊生活半カ年、もうとうの昔に始末してあるはずだ。捨てても捨て切れない自分。……最後まで生き抜いた自己を大切にまもること、それはたとえ軍隊生活においても、正しい肯定されてよい態度なのだ。」
 これは戦没学生の手記『きけわだつみのこえ』に収めれた一海軍学徒兵の、自我と生の主張である。
おだやかな文章だが、非人間的な軍隊と戦争へのせいいっぱいの抗議である。
いまわしい戦争は、こうした若者の主張も夢もふみにじって、その貴(とうと)い生命をむざんに奪い去っていった。
この筆者も、翌1945年4月、済州島(さいしゅうとう)沖で、軍艦とともに沈み、21歳の若い生涯をおえた。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
学徒出陣」(小学6年)

勤労動員」(中学・高校)

平凡社ライブラリー671 昭和史1926-1945』より「特別攻撃は海軍の総意?」を転記しますφ(..)
特別攻撃は海軍の総意?

 さてここから、悲痛な特攻作戦について考えてみます。
仮説かもしれない話に入ります。
 7月7日、サイパン島が玉砕し、もはやこの戦争における勝利はまったくないことが決定づけられました。
そして18日に東条内閣は総辞職し、小磯国昭(こいそくにあき)内閣が成立します。
日本がB29の爆撃圏内に入ったことは明らかで、次に敵の二本の矢はどこへ向くかといえば、当然フィリピンです。
これはもう自明の戦理(せんり)です。
そこでフィリピン諸島が、米軍を迎え撃つ決戦の場となります。
(『平凡社ライブラリー671 昭和史1926-1945』半藤一利 2009年)
 12月20日に米軍がそのフィリピンに上陸を開始する、その直前の話を少しいたします。
 情勢が絶望的であることから、当時、軍需(ぐんじゅ)省航空兵器総局長だった大西滝治郎(おおにしたきじろう中将が、海軍部内に激烈な意見書を提出しました。
それが「このままの状態では日本は敗北以外考えられない、上の人たちは総辞職すべきである」という過激な内容だったため大問題となり、大西さんは10月5日に南西方面艦隊司令部付(づき)という、責任分担の何もない肩書(かたがき)を与えられ、第一線への赴任となりました。
そして10月9日、東京を飛び立ちます。
ところがその途中で台湾沖航空戦という予期しない大戦闘があったため、マニラに着いたのは10月17日でした。
その翌日、米軍のレイテ湾上陸作戦が開始され、フィリピンをめぐる大決戦がはじまります。
そこで最前線の基地マバラカットに飛んだ大西さんが、19日の時計の針が午前零時を指そうとする約30分ほど前、突然、特別攻撃隊出撃案を持ち出したのです。
 この時、マバラカット基地には戦闘機主体の第201航空隊がいて、その副長玉井浅一(たまいあさいち)中佐に大西さんがこう持ちかけたのです。
 「零戦に250キロの爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに、確実な攻撃方法はないと思うが……どんなものだろうか」
 玉井副長は答えます。
 「私は副長ですから、勝手に決めることはできません。司令である山本栄(さかえ)大佐に意向を聞く必要があります」
 すると大西さんはこう言います。
 「いや、山本司令とはもうマニラで会って、十分に打ち合わせ済みである。副長の意見を聞いてほしい、万事、副長の処置に任(まか)せる、ということであった」
 大西さんが山本司令に会ったという証拠はこれぱっかりもないんです。
ということは、大西さんがここで嘘をついたことになります。
玉井副長はそうとは知りませんから、「司令も承知しているならば」というので、「わかりました」となりました。
 ここで日本海軍はじめての特攻隊が編成されるのです。
 玉井副長は、「どうせ出すのなら、自分の教え子たちを出したい」と、第201航空隊から選び、指揮官には兵学校出がいいというので、当時23歳の関行男(せきゆきお)大尉が選ばれました。
命令ではなく、志願ということでした。
 ここから大西さんが「特攻の父」と呼ばれることになったのです。
特別攻撃は大西さんの発案で、まさに下から澎湃(ほうはい)として起こってくる、止(や)むにやまれぬ勢いから最後の断(だん)を下(くだ)したのだと、現在では伝わっています。
大西さんは、終戦直後に切腹して亡くなりましたので口をききません。
その口をきかない大西さんに全責任を負わせたことになるのですが、ここに一つの電報が残っています。
軍司令部の源田実(げんだみのる)参謀が起案(きあん)したもので、日付は、いいですか、昭和19年10月13日です。
大西さんがフィリピンへ向けて飛んだのが9日、特攻作戦の案を持ち出したのが19日の午前零時直前、そして20日に特攻隊が編成されました。
ところがそれより1週間も前の電報にこうあるのです。
  「神風攻撃隊(しんぷうこうげきたい)ノ発表ハ全軍ノ士気昂揚竝(しきこうようならび)ニ国民ノ振作(しんさく)ニ至大(しだい)ノ関係アル処(ところ)各隊攻撃実施ノ都度(つど) 純忠ノ至誠(しせい)ニ報(むく)ヒ攻撃隊名(敷島隊<しきしまたい>、朝日隊<あさひたい>等)ヲモ併(あわ)セ時期ニ発表ノコトニ取計(とりはから)ヒ度(たし)……」
 すでに「神風攻撃隊」(正しくは〝しんぷう〟ですが、一般には〝かみかぜ〟と呼ばれました)という名前もついていて、特攻攻撃が行われた時には、全軍の士気を高めるため、その都度必ず大々的に発表したほうがいいとあるのです。
さらに敷島隊、朝日隊という名まで書かれています。
実際に関大尉を隊長とする初の攻撃隊は敷島隊、大和(やまと)隊、朝日隊、山桜(やまざくら)隊と名付けられていました。
本居宣長の歌「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」からとられたもので、編成は敷島隊5機、大和隊6機、朝日隊2機、山桜隊2機、さらに楠木正成(くすのきまさしげ)の湊川(みなとがわ)出陣の旗印(はたじるし)にちなんで菊水(きくすい)隊も加えられました。
 つまり、「澎湃として下からの熱意によって起こった」とされる特攻隊は、大西さんがフィリピンへ行く前に、すでに軍令部の計画として練(ね)られていて、しかも「神風」の名称だけでなく、第1回の出動隊名まで決まっていたのです。
ということは、大西さんは、発案者でも何でもなく、むしろ海軍中央の総意(そうい)の実行者だったのです。
ただ、大西さんは翌20日、第一航空艦隊司令長官として正式に任命されることになっていて、その肩書において「命令」はしたくないという思いがあった、そこで南西方面艦隊司令部付という、何の権限もない肩書でいるぎりぎりの19日に「案」として出し、採用するからしないかは、現地の、まさに澎湃たる熱意に任せた、という体裁(ていさい)を繕(つくろ)ったのではないでしょうか。
つまり海軍がいかに自分に全責任を負わせようとしても、自分はこれを命令したくはないのだという意思を、嘘をついてまで20日直前に提案することで表明したのだと思います。
 総指揮をとった関大尉が、出発前に言ったといいます。
 「日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて……しかし、命令とあれば、やむを得ない。日本が負けたらKA(ケーエー 家内)がアメ公に何をされるかわからん。僕は彼女を守るために死ぬ」
 こうして10月25日に基地を飛び立ち、再び帰りませんでした。
28日、海軍は神風特別攻撃隊を大々的に「命令ではなく志願による」として公表しています。
 ここで思い出すのは、真珠湾攻撃の時に、特殊潜航艇(せんこうてい)による攻撃があったことです。
とても湾の中に入っていくのは無理だという二人乗りの潜航艇によるもので、まさに特殊潜航艇乗りの熱意がほとばしり、どうしてもやらせてくれと言うのを山本五十六が「九死に一生はあり得ても、十死に零生という作戦はない」と突っぱねました。
それを隊員や乗組員がいろいろと研究し、攻撃終了後に5隻を決められた海域で回収する、という方法をひめり出し、九死に一生分くらいは帰ってこられるかもしれないと再び志願すると、山本は「生還できる可能性があるのだな」と念を押し、「わずかながらでもあります」との答えを聞いて許可したといいます。
山本の発言があります。
「自分が命令できない作戦は行ってはならないのである」
 神風特別攻撃隊も、後の回天(かいてん)特別攻撃隊も、志願によった、となっています。
しかしながらそこにはまったく、海軍リーダーたちの自信も責任もないのです。
モラルのかけらもないと言えるのではないでしょうか。
彼らは命令しないのです。
そういう作戦を敢えて行ない、以後、「志願による」という形式はずっと守られます。
最初の攻撃が行われたことを聞いた天皇はこう言ったといいます。
 「そのようなことまでせねばならなかったのか。しかし、よくやった」
 あとの「しかし、よくやった」は余計でした。
以後、日本には特攻、特攻による攻撃のみが残された日々が来るのです。
 もう一つ、面白い事実を話しておきます。
大森仙太郎(おおもりせんたろう)という歴戦の中将がいます。
昭和19年9月、この人は海軍特攻部長に任命されています。
特別攻撃がはじまる前に、部長職ができていたというのは、はたして何を語るのでしょうか。
(後略)
(『平凡社ライブラリー671 昭和史1926-1945』半藤一利 2009年)
今朝の父の一枚です(^^)v
母の好きなネジバナを見つけていました。
私もまだかなまだかなと毎日見ていたのに、今日は忘れていた(^^ゞ