2020年6月10日水曜日

梅雨入りしたようです

まだ雨は降っていませんでしたが
午後から雨が降り出し梅雨入りしたようです。
クチナシ(アカネ科)の甘い香りが漂っていました。

近畿地方 梅雨入り」(関西 NHK)
モンシロチョウが忙しそうに飛び廻って、葉の裏にお腹の先をつけていました。
葉の裏を見る小さな卵がポツンとありました。

モンシロチョウのたまご」(小学3年)
メスは産卵のために飛ぶ
 チョウの幼虫は、種類によって食べる植物がある程度決まっている。
そして多くの母チョウは、幼虫が食べる植物に直接卵を産みつける。
彼女たちは産卵する植物が生えていそうな場所を飛び回り、それらしい植物に近寄っては前足にある感覚器官で触って種類を確かめる。
そして種類が合っていれば卵を産みつけるのだ。
しかし幼虫が草を食べ、冬を卵ですごす種類では、冬の間草が枯れてなくなってしまうため、近くの石や枯木に産卵する。
(『虫のおもしろ私生活』ピッキオ編著 主婦と生活社 1998年)
コロナ熱中症対策で傘さし登下校」(愛知 NHK)
一石二鳥だなと思いました!

野田靖校長は「学校を再開するにあたって熱中症対策について職員で話し合うなか出てきたアイデアです」と話していました。

梅雨入りしたので雨傘も必需品になりますね(^^)v
6月10日
 ミルクキャラメルが初めて発売された。 1913(大正2)年

 日清戦争後、日本人の西洋菓子が作られはじめた時、最も人気があったのはマシュマロであった。
ミルクやバターの味がまだ日本人の口になじまなかったため、キャラメルは売れなかった。
キャラメルが一般に普及するようになるには十年余りもかかった。
1913年のこの日、森永製菓がミルクキャラメルを発売し、翌年には20粒10銭の黄色い紙箱入りのポケット用キャラメルを発売した。
社員が電車に乗った時にキャラメルを食べてみせたりして宣伝につとめた結果、キャラメルの人気は急上昇し、やがてお菓子の〝王様〟となった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
森永キャラメルは、学生時代から山歩きのエネルギー補給源でした。
でも、忘れらないのは森永製菓の社史にもあるように
昭和30年8月(1955年) 粉乳中毒事件発生

森永ヒ素ミルク中毒事件」(NHKアーカイブス)

好きな絵本に長谷川集平さんの『はせがわくんきらいや』があります。
こんなコロナの時代だから読んでほしい絵本です。
また別の機会に紹介できたらいいなと思っています。
日本国憲法を考える時、子どもたち向けの本があります。
でも、そこに書かれている井上ひさしさんの思いは、大人こそ読んでほしいと思います。
井上ひさしの 子どもにつたえる日本国憲法』より「はじめに」と「あとがき」を転記したいと思いますφ(..)
  はじめに

 いまでは信じられないことですが、昭和20(1945)年の日本人男性の平均寿命は、たしか23.9歳でした。
戦地では兵士たちが戦って死ぬ(あとでわかったのですが、戦死者の三分の二が餓死でした)、内地では空襲で焼かれて死ぬ、病気になれば薬がないので助かる命が助からぬ、栄養不足の母親を持った幼児たちは栄養失調で死ぬ。
そこで大勢が若死(わかじ)にしたのです。
女性の平均寿命も、37.5歳だったはずです。
(『井上ひさしの 子どもにつたえる日本国憲法』井上ひさし文、いわさきちひろ絵 講談社 2006年)
 そんな時代ですから、私たち国民学校生徒も先生たちから、「きみたちも長くは生きられないだろう」と言い聞かされていました。
「兵士となって戦地へ行くのか、防衛戦士として本土で戦うのか、それはわからないが、とにかく二十歳(はたち)前後というのが、きみたちの寿命だ」。
 ところがあの八月十五日を境(さかい)に、なにもかも変わった。
「きみたちは30、40まで生きていいのです」というのですから、頭の上から重石(おもし)がとれたようで、しばらく呆(ぼう)としていました。
この状態を大人たちは「解放感」というコトバで言いあらわしておりましたが。
 その呆とした気持ちがシャンとなったのは、敗戦の翌年、日本国憲法が公布されたときです。
「きみたちは長くは生きられまい」と悲しそうにしていた先生が、こんどはとても朗(ほが)らかな口調で、「これから先の生きていく目安(めやす)が、すべてこの百と三つの条文に書いてあります」とおっしゃった。
とりわけ、日本はもう二度と戦争で自分の言い分を通すことはしないという覚悟に、体がふるえてきました。
 二度と武器では戦わない。
――これは途方もない生き方ではないか。
勇気のいる生き方ではないか。
日本刀をかざして敵陣へ斬(き)り込むより、もっとずっと雄々(おお)しい生き方ではないか。
度胸もいるし、知恵もいるし、とてもむずかしい生き方ではないか。
そのころの私たちは、ほとんどの剣豪伝(けんごうでん)を諳(そら)んじていましたが、武芸の名人達人たちがいつもきまって山中に隠れたり政治を志したりする理由が、これでわかったと思いました。
剣より強いものがあって、それは戦わずに生きること。
このことを剣豪たちはその生涯の後半で知るが、いま、私たちはそれと同じ境地に立っている。
なんて誇(ほこ)らしく、いい気分だろう。
 この子どものときの誇らしくていい気分を、なんとかしていまの子どもたちにも分けてあげたいと思って、私はこの本を手がけました。
   井上ひさし
  あとがき

 なにか大きな失敗をしでかしたあとは、ああ二度とあのような失敗をしないようにしようと思う。
そこが人間のすばらしいところです。
第二次世界大戦のあとの世界の人たちも、あんなむごたらしく悲しい大戦争はするまいと思い、たとえば国際連合というような集まりを作りました。
もう二度とあのような苦しみを、悲しみを味わうのはごめんだ、人間はもっと賢(かしこ)く生きられるはずじゃないのか。
この世界の人たちの想いや願いをひとつところに集めたものが、じつは日本国憲法です。
 ちがう言い方をしますと、私たちの憲法はアメリカに押しつけられたものではない。
そんな安っぽいものではなくて、そのころの世界の人たちの希望をすべて集めたものなのです。
もちろんそのころの日本人の希望も入っている。
日本の民間人が願っていたことも、日本国憲法のあちこちに取り入れられています。
 けれども人間は忘れることの名人でもある。
このへんは私たち人間のいたらないところですが、それはとにかく、このごろ「この憲法は古い」と言う人がふえてきました。
そう主張する人は他方で、「明治の教育勅語(きょういくちょくご)はすばらしい」と言ったりしますから、なにがなんだかわからない。
古いというなら、日本国憲法より、教育勅語のほうがよっぽど古いではありませんか。
 いったい、もめごとがあっても武力でではなく話し合いで解決しようという考え方のどこが古いのでしょうか。
このせまい小さな水惑星の上で、むやみやたらに火薬を爆発させていたら、しまいには人間が住めなくなる。
だから戦などしている余裕はない。
なんとかしてすべてを話し合いで……!
たいていの人がそう願っています。
そうなると、私たちの憲法は古いどころか、世界の人たちの願いを先取りしていることになります。
じっさいに、「21世紀の半ばまでに、すべての国の憲法に日本国憲法の前文と第九条を取り入れよう」と唱えて、勢いよく活動している国際的な集まりさえあります。
 この60年にわたって、私たちは目先のことに惑わされて、いろんなものを簡単に捨ててきました。
日本にあるものはたいていつまらないものばかりだから捨ててしまってもかまわないという考え方は、日本にあるものはすべて尊いとする考え方と同じように、まちがいだと私は思います。
捨ててよいものもあれば捨ててはいけないものもあって、後者の代表が日本国憲法ではないでしょうか。
これを捨てることは、世界の人たちから、希望をうばうことになりますから。
    井上ひさし
(『井上ひさしの 子どもにつたえる日本国憲法』井上ひさし文、いわさきちひろ絵 講談社 2006年)
ノブドウにいたのがセスジスズメ(鱗翅目スズメガ科)
なんか黒い体に黄色い〇が列になっていて
一番前の黄色い〇のなかに黒い点があって目に見えたけど…
ガの幼虫はどちらかというと苦手なんだけど面白いなと思いました。
生まれてから2回脱皮した」姿だそうです。