2020年6月27日土曜日

風がほとんどなくて…

風がほとんどないので蒸し暑さがましていました(-_-;)

ニホンカナヘビが金属製の手摺に乗って体温を上げているみたいでした。
変温動物なので体温が低いと動きが鈍ります。

ところでCOVID-19 の検査で施設などに入る時に
赤外線体温計をおでこに当てられて計測してもらうようになりました。
私の場合は、心筋梗塞を発症してから変温動物になったのかなと思うほど体温の変動が大きいです。
低いときで35度を切るかと思えば、37度くらいになるときもあります。
(夏場、午後から心臓リハビリにカンカン照りの中を運転して病院で測ると37度になったことが何度かあります)
心臓の上半分(心房)が壊死したために血液の循環が悪いためかな?
でも、人によって平熱は、個人差があり37度が平熱の人もあるようです。

わたし、37度が平熱なんです」(NHK)

医学的に正しい測り方をすれば、37℃は発熱の目安というより、むしろ平均的な平熱の範囲内であることがわかっています。“平熱”にも個人差があって当然なのです。」(「37℃って発熱?」テルモ)
大きな黒いものが飛んできたなと思ったらゴマダラカマキリです。
森林生物 ゴマダラカミキリ」(森林総合研究所)
6月27日
 香川県で徴兵令反対の「血税」一揆がおこった。 1873(明治6)年

 徴兵制がおこなわれてまだ日が浅いこの日、いまの香川県観音寺(かんおんじ)市から一揆の蜂起(ほうき)がはじまった。
徴兵令の中に「血税」の字があるのを、血をとられることだと誤解したのがはじまりだった。
村役人が説得につとめたが、むだだった。
お寺の鐘を打ちならし、農民はみんな竹槍(たけやり)を持って集まり、打ちこわしや放火をはじめた。
まわりの村々も一揆に加わり、あちこちの役場・役人宅・寺院・小学校などを次々におそった。
一揆は香川県の西部一帯に広がっていった。
 翌日には高松から軍隊が出動し、士族も手助けしたが、一揆が鎮(しず)まったのは翌月6日であった。
その間、小学校48カ所、村役人宅190軒など130カ村で599カ所が焼打ちされた。
処分をうけた者は、処刑4名をふくむ1万7千ににのぼった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
けつぜい【血税】
①(1872年(明治5)公布の太政官告諭中の語。身血を租税とする意)徴兵。
兵役義務。山路愛山、現代金権史「徴兵とは血税とて子息(むすこ)の血を搾取(しぼりと)ることなりなどと」
②血の出るような思いで納める苛酷な税。

けつぜいいっき【血税一揆】
西日本を中心に起こった明治初年の徴兵制反対の農民一揆。
きっかけは徴兵に関する太政官告諭中の「血税」の語を、人民の生き血を絞り取ると誤解したことにあったが、基底には維新政府の強引な開化政策への反発があった。
(『広辞苑 第六版』岩波書店 2008年)

血税」という言葉に誤解したというよりも徴兵によって命を奪われた若者がどれだけいたかを考えると、まさに民衆が受け取ったごとくだと思います。
日本の歴史20 明治維新』より「徴兵反対などの民衆蜂起」を転記しますφ(..)
徴兵反対などの民衆蜂起

 また廃藩置県につづく徴兵制・学校制・地租改正などの過重な負担に苦しむ民衆の一揆蜂起は、明治5年・6年には絶頂に達した。
明治4年から7年までの4年間に全国で90件のの一揆が記録され、うち1万人以上の蜂起が11件、その6件は明治6年に集中しており、これが自由民権論の社会的背景をなしていた。
(『日本の歴史20 明治維新』井上清 中央公論社 昭和41年)
 徴兵制反対の一揆は、明治4年12月、まだ中央政府の徴兵令がでる前、高知県でおそらく土佐藩の軍制改革のひきつづきであろうか、県庁の兵務司から18歳以上20歳までの男子を登録せよとの布達があり、同県と愛媛県の境の山間部では、これは政府が若い者の身体を焼き、脂をとって外国人に売り渡すとか、徴兵は人民を「ヘイムシ」という虫にして異人に食わせるとか、また従来の庄屋を廃して戸長・用掛りなどを置き、戸長が各戸に番号をうってまわったのも、戸ごとに青年の脂をとるためと流言がひろがり、それに反対してついに2千人の一揆蜂起となった。
県庁は参事の林有造(はやしゆうぞう)が指揮してこれを鎮圧し、首謀者は割腹自殺した。
 この一揆はまた藩知事を東京によびよせたことにも、賤民制廃止に反対しているが、賤民制廃止について一揆の要求書には、「えた新在家(しんぜいけ<あたらしい平民>)に相成り、えたが百姓交わり候時、何に忠勤に相成り候、百姓えたなされて何の用通かこれある」という。
わかりにくい文だが、えたを百姓と平等につきあうようにしたところで、かれらがなんの役に立つことがあろう、また百姓をえたにされてなんの役に立つのか、という意味かと思われる。
「用通」は用が通ずるの意味である。
つまりかれらは、賤民制廃止はかえって百姓を賤民に落とすことだと見なして反対しているのだが、明治5・6年の大一揆にもしばしばでてくる賤民制度反対の要求も、おそらくこれと同様の見方からでているものであろう。
 この諸要求はいかにも無知で反動的ともみえるが、これらの要求に人民が生命をかけたのは、かつて明治2年に大久保利通が、人民は新政を謳歌せず新政は旧藩の悪政以上に悪いというのももっともだと自認したような状態が、その後もいっこうに改善されず、さらに新たな負担が加わってくるので、人民はむしろ旧制がましだとさえ考えるようになったからである。
つまりその本質は旧政をしたうのでなく新政府に反対するにあった。
 6年には、5月、岡山県津山(つやま)地方の数万人の一揆、福岡県嘉麻(かま)郡・穂波(ほなみ)郡を中心とする全県下30万人の蜂起(筑前竹槍一揆という)などの大蜂起が続発した。
津山一揆も筑前一揆も、徴兵制反対・学校反対・賤民制廃止反対が主要求となっている。
この年は中国・四国・九州地方は凶作で、米価は春からうなぎ上りにのぼって、端境期(はざかいき)にいたり、いっそう暴騰したのが、これらの地方に大一揆のおこった直接のきっかけであった。
 筑前の一揆では、民衆は6月16日に蜂起して、米相場師の手先の家をうちこわしたのがはじまりで、20日には博多市になだれこみ、慈善家で知られた家を除いてほかの豪商をかたっぱしからうちこわし、県庁におしよせ官舎を焼き払い、また電信局をうちこわした。
電信は役人が人民を圧制する道具であり、また役人と結びついた豪商が米相場の通信に利用して人民を苦しめるだけであるとして、民衆はこれを破壊したのである。
6月25日、熊本鎮台から2中隊(旧藩兵から選んだ部隊)がきて、福岡県が臨時に徴集した百人の士族とともに一揆を鎮圧した。
 このときうちこわされたりした家は4590軒、そのうち官舎7軒、小学校29軒、村役場43軒、地主・富豪の土蔵が647軒ある。
なお電信柱181本も損傷をうけた。
蜂起民衆の戦死者28人、重傷者18人、首謀者である医師淵上琢章(ふちかみたくしょう)といま一人は絞首刑にされ、官吏を殺した疑いで3人が斬罪(ざんざい)にされ、懲役刑86人、そのほか6万3千余人が笞または杖で尻をたたかれる刑を受け、その罰金が11万6千6百余円にのぼった。
尻をたたかれた後ははれ上がるが、そこへ豆腐をつけるとよいとうので、われもわれも豆腐を買い、そのために豆腐の相場が一時はね上がったという、うそかまことかわからない話がある。
 なおこのとき、大阪の豪商で三井組とともに第一国立銀行に出資していた小野組の博多出張所が、一揆鎮圧の費用に1万5千円の大金を献納している。
いまなら少なくとも3千万円に相当しようか。
これは政府と大商業資本が結びついて人民と対立していることを、端的に示している。
 筑前一揆に典型的に見られることであるが、米価暴騰をきっかけとする一揆が、買占め豪商や、売り惜しみをする地主の家をうちこわすだけでなく、町村役場をおそい学校をこわし、はては県庁までおしよせて、国家権力に戦いをいどみ、徴兵制と学校制という国家の基本政策の廃止を要求する闘争に発展したところに、この時期の一揆の以前と異なる重要な特徴がある。
 7年1月の民撰議院設立論は、これらの民衆蜂起と結びつくものではなかった。
しかしかれらがその建白の冒頭に、いまの政府は人民を保護するとはいうもののその実績はなく、これではとうてい天下の治安を保つことはできない、このままでいけばおそらく国家は土が崩れるようになるであろうというのは、上記のような民衆蜂起の現実を背景にしてのことであった。
(『日本の歴史20 明治維新』井上清 中央公論社 昭和41年)
今朝の父の一枚です(^^)v
ヒマワリもいろんな種類があって、咲き出したのは背丈の低い品種のようです。
これから背丈の高い品種も咲き出すと思いますが…