2020年6月12日金曜日

雨粒

かなり雨が降ったけど、出かける時には小雨になり
歩いていると傘をささずに歩けました。
雨粒を見ていると飽きません(*´▽`*)
盛口満さんの『身近な自然の観察図鑑』は、自然が少ないと思われがちな都会でも
豊かな生物の営みを見ることができることを教えてくれます。
イラストも盛口さんが描いていて分かりやすいです。
3 カタツムリとナメクジ
†カタツムリって何?

(略)
 ところで、学生たちと話をしていると、どうも学生たちは「カタツムリはカタツムリ」と思っているようです。
カタツムリに種類があるなどと、思っていないということです。
もちろん、カタツムリにも種類があります。
じつはカタツムリは思っているよりも種類の多い生き物のグループです。
日本産のカタツムリはおよそ800種もあるのです。
(略)
(『身近な自然の観察図鑑』盛口満 ちくま新書 2017年)
 カタツムリは、一口で言えば、陸上に棲むようなった貝(軟体動物)です。
 僕の自然との関わりは、小学生時代、海辺で貝殻を拾い集めることから始まりました。
小さいころから貝類図鑑を座右の書にしていたので、僕にとってはカタツムリが貝の仲間であることに、まったく違和感がありません。
しかし学生たちの話を聞くと、カタツムリは海の貝とは別の「カタツムリ」という独自のグループの生き物と考えているようです。
 カタツムリは貝の仲間なわけですから、カタツムリとは何かを考える場合は、まず、貝の仲間そのものから考える必要があります。
 貝(軟体動物)の仲間は、全部で八つのグループから成り立っており、そのうちよく知られているのが、巻貝(腹足類)、二枚貝、イカ・タコ(頭足類)の3グループです。
巻貝(腹足類)も多くのグループで構成されています。
もちろん、巻貝の本拠地は海の中です。
そして、そうのうちいくつかのグループから、独自に陸上で生活をする巻貝が進化しました。
そのような陸上で生活する巻貝をひっくるめてカタツムリと総称しているのです。
(後略)
(『身近な自然の観察図鑑』盛口満 ちくま新書 2017年)
6月12日
 中大兄皇子が蘇我入鹿を倒し大化改新がはじまった。 645(大化元)年

 『日本書紀』によると、かねて中臣鎌子(なかとみのかまこ 藤原鎌足<かまたり>)と結んで、蘇我(そが)氏打倒をねらっていた中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、この日、大極殿(だいごくでん)で三韓(さんかん)からの表文(ひょうぶん)上奏の式がおこなわれている最中、突如おそいかかって入鹿(いるか)を斬り倒した。
入鹿の父蝦夷(えみし)も邸(やしき)に火を放って自殺、蘇我氏は滅んだ。
 中大兄は皇太子となって政権をにぎり、いわゆる大化改新(たいかのかいしん)にのりだした。
6月19日、「大化」の元号が定められ、翌年正月一日には「大化改新の詔(みことのり)」が発せられた。
しかしこの詔は、のちに手を加えられたものという見方が有力である。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
乙巳の変」(小学6年)
9日のニュースに
大化の改新ゆかりの広場ほぼ断定」(関西 NHK)

ブラタモリ「奈良・飛鳥~なぜ飛鳥は日本の国の礎となったのか?~
でも、大化の改新のきっかけ・蘇我入鹿暗殺の現場をタモリさんがブラブラ歩いていました。

日本の歴史2古代国家の成立』より「クーデター決行」を転記しますφ(..)
クーデター決行
 645年(皇極4年)6月12日、その日がきた。
このころすでに宮中に大極殿とよばれる建物があったかどうか少し疑わしいが、『書紀』によれば、天皇が大極殿に御(ぎょ)し、古人(ふるひと)皇子がそばに侍した、とある。
公式の場で古人が天皇に侍したというのはかれが皇太子であったことを示す。
(『日本の歴史2 古代国家の成立』直木孝次郎 中公文庫 2004年)
 すこしおくれて入鹿(いるか)が座につく。
いつも剣を身につけているが、きょうは持っていない。
鎌足が宮中に俳優(わざおぎ<道化方(どうけかた)>)にいいつけて、うまく剣をはずさせたのである。
 入鹿の入場をみすまして、中大兄皇子は宮中の警固にあたる靱負(ゆげい)の司(つかさ)に命じ、宮の諸門を全部とざさせる。
じゃまの入るのを防ぐためである。
そして自分は長槍をとり、鎌足は弓矢をもち、海犬養勝麻呂(あまのいぬかいかつまろ)は佐伯子麻呂(さえきのこまろ)と稚犬養網田(わかいいぬかいのあみた)の二人に剣を与え、殿のかげに身をひそめて合図をまつ。
合図は石川麻呂の上表文朗読である。
 緊迫の気が殿中にみなぎる。
そのなかを石川麻呂が進みでて表文をよみあげる。
なぜか刺客は姿をあらわさない。
表文は終わりに近づく。
何事もおこらない。
計画は露顕したのか。
中大兄や鎌足はどうしたのか。
不安と緊張のため石川麻呂は汗にまみれ、声乱れて上表文をもつ手がふるえる。
入鹿が怪しんで、
 「なぜそんなにふるえるのか」
と問う。
 「天皇の御前なので汗がでるのです」
 しどろもどろの答えだ。
あわやクーデターも失敗かと思われた瞬間、中大兄が先に立って刺客たちが斬りこんできた。
子麻呂らが入鹿の威をおそれてためらっていたのだ。
 たちまち入鹿は頭と肩を斬られ、足を刺され、天皇の前にたおれた。
「いったい何事か」と天皇は中大兄に問う。
中大兄は、
 「入鹿は皇統の皇子をほろぼし、皇位を傾けようとしております。皇統に入鹿がかわってよいものでしょうか」
と奏上した。
 『書紀』にはおよそ以上のように書いてある。
だいたいのなりゆきはそのとおりだろうが、話をおもしろくするために多少脚色したところがあるようだ。
また中大兄が天皇に奏上したことばは、中大兄の立場を弁護するための作為があるだろう。
入鹿は自分が天皇になろうとまで考えていたとは思われない。
中大兄が入鹿を斬ったその場でこのように言ったのではなく、この事件を記録した者が中大兄の奏上を脚色してこのように書き、『書紀』の編者がそれをそのまま採用したのであろう。
 それはともかく、権勢ならびない入鹿は死んだ。
古人大兄(ふるひとのおおえ)皇子は自分の宮に走りかえると閉居した。
中大兄皇子はただちに法興寺(飛鳥寺)に入り、これを城として戦備をととのえたが、これは予定の行動であろう。
法興寺は飛鳥川をへだてて甘橿岡(あまかしのおか)に対しており、発掘調査の結果わかったことだが、厚さ五尺の築地塀(ついじべい)が周囲をとりまいている。
甘橿岡の邸宅にこもる蘇我氏に対抗するにはもっとも適した場所である。
本来、法興寺は馬子の力によって創立され、蘇我氏の勢力下にある寺であるのに中大兄側によってたやすく占拠されたのは、クーデター計画が線密にたてられ、迅速な行動がとられたことを物語っている。
「諸皇子、緒王、緒卿大夫、臣・連・伴造・国造、悉(ことごと)く皆随(したが)い侍(はべ)る」と『書紀』は記している。
皇族・氏族の大部分は、この時期において反蘇我の旗幟(きし)をあきらかにしたと考えてよかろう。
 蘇我蝦夷(えみし)のもとには漢直(あやのあたい)らが一族こぞって参集し、防備を固めた。
中大兄は巨勢徳陀(こせのとくたの<徳太>)臣(おみ)をつかわして君臣の義を述べ、帰順をすすめた。
徳陀は、2年前の斑鳩宮攻撃には入鹿の命にしたがって参加している。
かつては入鹿に近づいていた男で、蘇我の党派に顔みしりが多かったのであろう。
徳陀の説得をきいて、蘇我氏の同族の高向(たかむく)臣も漢直らに戦いの無益なことを説き、いずれも武器をすてて立ちさった。
戦わずして大勢はこの日のうちにきまった。
 その翌日(13日)、蝦夷はかつて馬子が聖徳太子とともに編纂した天皇記・国記をはじめ所蔵の珍宝に火を放って自殺した。
このとき船史恵尺(ふなのふひとえさか)は火中から国記だけを救いだし、中大兄皇子に献じたという。
 かずかずのエピソードに飾られながら、古代最大の氏族蘇我氏の本宗は隆盛の頂上でほろんだ。
ここに新しい時代の幕があがる。
舞台の主役は中大兄皇子、演出は中臣鎌足といってよかろう。
(『日本の歴史2 古代国家の成立』直木孝次郎 中公文庫 2004年)
今朝の父の一枚です(^^)v
つい先日、咲き出したなと話していたのに
アメリカディゴの花が赤い絨毯のように敷き詰められていました。

12日にかけて大雨のおそれ 災害に十分注意を」(えりの気象日記 6月11日)