2020年6月29日月曜日

カラッとした暑さ…

気温は高かったけど湿度がそんなに高くなかったので
木陰に入ると風がときおり吹いてカラッとした暑さでした。
土曜日にセミの声が聞えているような(耳が悪いので…)?
クマゼミが羽化したばかりかな?
ツンツンしても飛びませんでした…
読売新聞の記事に三浦麻子大阪大教授ら心理学の研究グループが
日本、米国、英国、イタリア、中国の5か国で調査したら
コロナの感染は本人の責任という回答が日本が一番高かったそうです。
自己責任論が幅をきかせている日本は、感染症に限らず被害者が責められる国になっています。

「コロナ感染は本人が悪い」日本は11%、米英の10倍…阪大教授など調査〟(読売新聞)

 三浦教授は「日本ではコロナに限らず、本来なら『被害者』のはずの人が過剰に責められる傾向が強い。
通り魔被害に遭った女性が、『深夜に出歩くほうが悪い』などと責められることもある。
こうした意識が、感染は本人の責任とみなす考えにつながっている可能性がある」としている。
岩田健太郎さんのTwitter

昼に高齢者で流行したり、夜に20,30代で流行するといった「現象(あるいはエピソード)」は「傾向」ではない。
エピソードをあとから追っかけて「傾向」と名付けると間違う。
6月29日
 栃木県下都賀(しもつが)郡谷中(やなか)村が強制破壊された。 1907(明治40)年

 谷中村滅亡の日がきた。
この村が銅の生産に、邪魔になったからである。
県と警察の二百余名の破壊隊は、この日の午前8時から、詰めかけた新聞記者や田中正造(しょうぞう)・木下尚江(なおえ)などが見守るなかで、民家をこわしはじめた。
民家がこわれるのを堤の上から見ていた木下は、その家の長男の頭をなでながら「六月二十九日を忘れるな」と言った。
破壊隊はこの日から毎日民家をこわし、脅迫や買収(ばいしゅう)に負けずに残っていた16戸(116名)の家も、翌月7日までにすべてこわした。
 これまでにも足尾(あしお)銅山を経営する古河(ふるかわ)鉱業と警察が一体となって銅山鉱害に反対するこの村をつぶそうとした。
警察が盗賊を村内に横行(おうこう)させたり、雨期に堤防をこわしたりした。
それでも屈しなかったので、政府は貯水池をつくると言って、とうとうこの村をつぶしたのである。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
足尾銅山鉱毒事件」(中学・高校 動画)

この足尾銅山鉱毒事件をいち早く国民に知らせたのが荒畑寒村です。
荒畑寒村 社会主義運動家」(NHKアーカイブス)

谷中村滅亡史』から「解説」(鎌田慧)の前半を転記したいと思いますφ(..)
解説
      鎌田慧
 この熱血の書は、1907(明治40)年、荒畑寒村二十歳の作品である。
『寒村自伝』に、「私は谷中村の強制土地収用の報に憤激して一気呵成(いっきかせい)、四六版百七十余ページの小著を書上げた」とある。
強制代執行に至るまでの、鉱山主・古河市兵衛一家と政府、栃木県との結託にたいする青年の痛憤が、きわめて短い時間に脱稿させた。
強制代執行が6月29日、刊行が8月下旬、二カ月のあいだに執筆、印刷、製本がおこなわれたのだから、コンピュータ製版がない時代としては、いかにもはやい。
(『谷中村滅亡史』荒畑寒村 岩波文庫 1999年)
 政府と県とによる暴虐をひろく世間につたえようとする情熱が、土から引き剥がされ、放逐(ほうちく)された農民への深い想いにささえられていて、この漢文調の古風でやや悲壮な文体とよく合致している。
いわば、天が書かせたドキュメントといえる。
 寒村自身、後年になって復刻版の前書きに、「文章が幼稚で古くさく、無暗に悲憤慷慨の形容詞が多く、われながら拙劣さにやり切れない感じだ」と書きつけている。
もちろん、それは謙遜というものであって、谷中村が「公害と開発」との原点であるのとおなじように、この本が「国家と企業」との、奇妙な関係を学ぶための最良の教科書であることには変わりはない。
 というのも、「強制土地収用公告」を発した西園寺公望内閣の内務大臣は、原敬(のちに首相)であり、彼は1年前まで、鉱害発生源たる足尾銅山を経営する「古河鉱業会社」の副社長だった。
原敬が古河と結びついたのは、陸奥宗光外相の推挽によってであり、原の栄達は陸奥宗光の栄達とともにあった。
 陸奥宗光と古河市兵衛とは、陸奥の次男である潤吉が、古河家の養子となっている閨閥の関係にあった。
潤吉は1905年、市兵衛の死後2年目に、36歳で社長に就任するのだが、社長業わずか9カ月にして病死、そのあとをまだ未成年だった古河虎之助が引き継ぐ。
虎之助はまもなく、西郷従道(つぐみち<隆盛の弟>)海軍大臣の娘と婚姻、政財軍の強固なトライアングルが形成される。
寒村の憤怒は、この癒着にたいする世間の怨嗟(えんさ)を背景にしている。
 世界市場のなかで遅れて出発した日本の資本主義は、このようにして発達し、利益を産みだしてきた。
政治家、官僚、財界の三つ巴の癒着構造には、いまもなおさほど変わりはなく、利益供与と天下りの腐敗の関係は(このときの鉱山保安局長南挺三は、足尾銅山の鉱長に天下りする)、間歇的にスキャンダルを噴出させ、とどまることはない。
 横須賀の海軍造船工廠の造船工として働いていた、ある日の昼休みの情景から、『寒村自伝』は書きだされている。
下宿屋から届けられた弁当の包紙になっていた『万朝報(よろずちょうほう)』に、堺利彦、幸徳伝次郎(秋水)連名による、「退社の辞」があった。
日露開戦をめぐる世論の昂まりに押されるようにして、社主の黒岩涙香(くろいわるいこう)はついに「開戦派」に転じた。
記者として健筆をふるっていた堺と幸徳は、あくまでも「非戦」を主張して、ついに黒岩と袂(たもと)を分って退社する。
その決意表明である。
 「国際の戦争を目するに貴族、軍人等の私闘を以てし、国民の多数は其為(そのため)に犠牲に供せらるる」とのこれまでの主張をふたりは譲ることができない。
沈黙を拒否して社を辞去した堺と幸徳は、まもなく『平民新聞』の発刊に漕ぎつける。
その「退社の辞」を読んだ感激が生涯を決定した、と寒村は書いている。
彼が「平民書房」から、『谷中村滅亡史』を発刊するのは、その4年後だった。
 寒村が最初に谷中村の惨状を目撃するのは、赤くペンキを塗った箱車を曳いてパンフレットを売りあるく、「社会主義伝道」の旅の途次においてである。
田中正造の案内を受けて、鉱毒による村民の塗炭の苦しみをつぶさに視察して、『平民新聞』が発禁になったあとに発行された『直言』(1905年7月28日号)に、寄稿している。
 「忘れられたる谷中村」が、その題名である。
そこには、「調査」にやってきた栃木県の職員にたいして、「大泥棒!」と叫んで杖を振り上げ、追い払おうとする田中正造翁の姿が活写されている。
 谷中村の住民で、『田中正造翁余録』の筆者である島田宗三によれば、このときの寒村について、田中正造は「二十(はたち)にならない若い身空で、あの赤い箱車を引いて社会主義の本を売りながら、全国を伝道して歩く、実に頼もしい青年だ」と語っていた、という(『荒畑寒村著作集』月報2)。
 そのあと、寒村は谷中村についてのルポルタージュとして、日刊『平民新聞』(1907年3月26-29日)に「谷中村の強奪」を、『週刊社会新聞』(同年6月23日)に「谷中村を訪ふの記」を発表している。
田中正造が村びとに語る有り様が、次のように描写されている。
 「翁は例の如く、白髯を撫しつゝ、政府当局の暴状を語り出で、その悪虐無道の所行を算するや。一語は一語よりも急に、一句は一句よりも鋭く、眼燗々(まなこらんらん)として口火焔を吐くに非ずやと疑はる。而してまた低声、温を垂れて村民を励まし、困苦を労(いた)はるの状、誰れか暗然として面(おもて)を背(そむ)けざらんや」(『週刊社会新聞』)。
 正造はこのときすでに多くの同志を失い、孤立していた。
それはともかく、このような執筆の実績があったからこそ、寒村は強制土地収用の報を受け、一気呵成(いっきかせい)に書き下ろすことができたのだった。
が、『谷中村滅亡史』は、たちまちにして発売禁止処分、となった。
 この年8月下旬、利根川、渡良瀬川はまたもや大洪水が発生し、谷中村に踏みどとまっていた16戸は、水浸しとなった。
堤防のうえに非難した島田宗三宅は、六尺四方の戸板を立て、その陰で一家8人が枕を並べて寝ていた。
そこへ到着したのが、まだインクの香り高い『谷中村滅亡史』だった。
田中正造の手に、それは無事渡された。
発禁になった一冊である。
 「結論」の最後にある、「平民の膏血(こうけつ)を以て彩られたる、彼らの主権者の冠を破砕せよ。而して復讐(ふくしゅう)の冠を以て、その頭を飾らしめよ」の一句が、内務省官僚を震撼(しんかん)させたようだ。
自著を自分の手元に置くことさえできなかった寒村は、この部分を、「平民階級が復讐の碧血(へきけつ)をもって帝王の冠に衂(ちぬ)らしめよ」と書いたように記憶していた(新泉社版「改版にあたって」)。
それが真意だったようだ。
 あるいは、その一句の影響だったのかもしれない。
翌1908年6月、大杉栄、堺利彦、山川均、荒畑寒村などが、屋内の「集会場」から外へ押し出して、赤旗を掲げただけを理由に逮捕、投獄された、「赤旗事件」十数名の被告のだれかが、留置場の壁に、「一刀両断帝王頭」とフランス革命を賛美する漢詩を書きつけて、物議を醸すことになる。
それはともかく、『谷中村滅亡史』の結語が、やや不穏当な文言だったことが、発禁処分を引きだしたのはまちがいないようだ。
田中正造でさえ、その処分の報らせを受けて、「少し芥子(からし)がきき過ぎましたね」との感想を漏らした、という(前掲、島田宗三)。

(後略)

(『谷中村滅亡史』荒畑寒村 岩波文庫 1999年)
今朝の父の一枚です(^^)v
父も最初のクマゼミを写していました。
父が踏まれるから向うへゆきと言うと向かってきたそうです(*´▽`*)

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