2020年6月3日水曜日

ノウゼンカズラが咲き出すと…

ノウゼンカズラの花をみると夏が来たなと思います。
キョウチクトウと同じく厳しい暑さに負けずに咲いている。
顔見知りの方が、人は汗をかかないとだめですねと声をかけてくださった。

3日水曜日も暑い!真夏日のところも」(えりの気象日記 6月2日)
高須力弥さんのTwitterを見ていると
親子で意見が違うのはよくあることだと思います。
私は力弥さんに共感しています。

私も父と政治の意見は高校時代から対立している。
共通しているのは自民党支持者の父が首相の顔も見たくないとテレビを消すこと。
大阪にカジノを誘致するのは反対なので、維●の会や●明党に不信感を持っていること。
内田聖子さんのTwitter

知らない方も多いのですが、今国会では個人情報保護法の改正案も審議中で、
すでに衆議院は通過、6月4日の参議院内閣委員会で4時間の質疑後、採決される予定です。
わずか2日で結論という拙速審議です。
本来であればこの改正時に十分審議され、法案に入れ込まれるべき項目がいくつかあります。(続く)
自切で切れた尻尾は、やがて再生しますが、元の尻尾より短くなったり、あるいは少し歪みがあったりします。
また、再生は一回きりです。

カナヘビを捕まえよう」(科学実験データベース)
6月3日
 アメリカ軍インド艦隊が浦賀に現われた。 1853(嘉永<かえい>6)年

 ペリーがひきいるアメリカ東インド艦隊の軍艦サスクェハナ号2450トン、ミシシッピ号1692トン、帆船プリマス号989トン、同サラトガ号882トンは、この日の夕方とつぜん浦賀に現われ沖合に停泊(ていはく)した。
沖縄をへて浦賀にやってきたペリーは、アメリカ大統領フィルモアの国書をたずさえ、武力で日本に開国をせまったのである。
 9日に久里浜(くりはま)で国書を渡しおえたペリーは、艦隊で江戸湾をデモンストレーションし、沿岸の人々を驚かせたあと、12日に引き揚げていった。
なかには船を出して黒船見物にでかけた庶民もいた。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
ペリー艦隊」(小学6年 動画)
サスケハナ号の構造を紹介しています。

先人たちの底力 知恵泉 「伊藤博文の青春 “耳学問”のススメ
知恵その二として「嫌われても人間関係は断ち切るな!」がありました。
器が大きいからできたのでしょうね。
今の内閣は、仲間だけを集めているからコロナ対策も支離滅裂になっている。
再放送はEテレで6月9日午後0時から
見逃し配信は、6月9日(火) 午後10:43 まで
池田香代子さんの「あとがき」を見ると

霜山氏が準拠した1947年刊の旧版とこのたび訳出した1977年刊の新版では、かなりの異同があった

と記されています。

夜と霧【新版】』より「『夜と霧』と私――旧版訳者のことば 霜山徳爾」を転記しますφ(..)
フランクルの人柄などを知ることができます。
  『夜と霧』と私――旧版訳者のことば 霜山徳爾

 本書は1956年に初版を世に出した。
訳者はその前年まで、西ドイツ政府留学生として在独していた。
その前は十五年戦争と狂信的な国家主義の時代と、治安維持法下の恐怖の世界があり、その上、さらに3年間の戦場の生活があった。
西ドイツ政府留学生に選ばれた時には30歳を過ぎていた。
その在独中に著者フランクルの「或る心理学者の強制収容所体験」という粗末な紙の書物に出会い、いたく心をひかれ、邦訳の許しを得るために、私はウィーンに彼を訪ねた。
(『夜と霧【新版】』ヴィクトール・E・フランクル著 池田香代子訳 みすず書房 2002年)
 著者ヴィクトール・E・フランクルはウィーンに生れ、フロイト、アドラーに師事して精神医学を学び、ウィーン大学医学部神経科教授であり、また同時にウィーン市立病院神経科部長を兼ね、臨床家としての識見が高く買われているばかりでなく、また同時に理論家として、精神分析学のいわゆる「第三ウィーン学派」として、また独自の「実存分析」を唱え、ドイツ語圏では知られていた人である。
また戦後はアメリカ合衆国およびラテンアメリカ諸国によく招聘(しょうへい)され、各地で学術講演をする他に、ジャーナリズムでも精力的に活動していた。
 このような少壮の精神医学者として嘱目(しょくもく)され、ウィーンで研究していた彼は、美しい妻と二人の子供にめぐまれて、平和な生活が続いていた。
しかし、この平和はナチスのオーストリア併合以来破れてしまった。
 なぜならば、彼はユダヤ人であったから。
ただそれだけの理由で、彼の一家は他のユダヤ人と共に逮捕され、あの恐るべき集団殺人の組織と機構を持つアウシュヴィッツ等に送られた。
そしてここで彼の両親、妻、子供たちは、或いはガスで殺され、或いは餓死した。
彼だけが、この記録の示すような凄惨(せいさん)な生活を経て、高齢まで生きのびることができたのである。
 私はウィーンに彼を訪れた時のことを想起する。
あらかじめ手紙で、面会とその目的を求めていたこともあって、彼は暖かな心からの親切で、この極東の無名の一心理学者をもてなしてくれた。
病棟の案内から臨床の陪席まで、数日のウィーン滞在中、あらゆる便宜を私のために計ってくれた。
また思想的にも彼はあらゆるヘブライズム的なものから自由であったし、ヒューマニスティックな暖かい良識で、すべての人々をつつんでいた。
従って医師というよりは一人の思想家として、キリスト教的世界から大きな親和性をもって迎えられていた。
彼の理論にはマックス・シェーラーの影響の色が濃く、体系的にはマルチン・ハイデッガーなどの影響から少し距離をとったものであった。
それでもハイデッガーがウィーンを訪れてきた時に、フランクルに" Das Vergangene geht, Das Gewesene kommt. "と書き残したように(これは邦訳は少し困難である)、広義にいえば精神医学上の「人間学派」とも称することができるかもしれない。
 フランクルの理論はきわめて判り易いのがその特色であるが、それよりもつくづくと感心したのは、彼の臨床的手腕であり、患者の世界との巧みで早い「間(ま)のとり方」などは天才的でまことに勉強になった。
 かくして快活、率直な彼の魅力的な人柄にひかれ、私は彼と十年の知己のごとく親密になった。
 その内で最も印象的だったのは、或る夜、彼に招かれて、ウィーン郊外の有名な旗亭(きてい)アントン・カラスで、ワインの盃(さかずき)を傾けながら、彼からアウシュヴィッツでの語られざる話を聞いた時であった。
謙遜で飾らない彼の話の中で、私を感動させたのは、アウシュヴィッツでの他の多くの苦悩の事実ばかりでなく、彼がこの地上の地獄の内ですら失わなかった、堅い良心とやさしい人間愛であった。
それは良質のワインの味すらも、全く消し去るほどのものであった。
 帰途、なにかのことで音楽の話題になり、彼は自分の好きな音楽の一つとして、グスタフ・マーラの「大地の歌」をあげた。
これは中国の詩の独訳を作曲した(彼の第九交響曲ともいわれる)異色の古・オーケストラの名曲である。
それは私もきわめて好んでいる曲であった。
偶然の一致を喜んだ彼と私は、暗い夜道で、迷惑もかからないので、一緒に歌うことになった。
「大地の歌」といっても、その最初の一章「大地の哀愁にそそぐ酒の歌」であった。
各節に「生も昏(くら)し、死も暗い」という哀しく美しい旋律のリフレインがついている。
それを共に歌いながら帰ってきたのだが、明るく強い彼の言葉に陰翳(いんえい)のようにあるもの、彼の世界観の深い底にある哀しさ、を示しているかのようであった。
 また別な日にこの度は彼の自宅に招かれたが、質素で、全く目ぼしい家具もない(恐らく一切を失ったせいであろう)一室で、彼が強制労働をただ一度休めた発疹チフスの高熱を利用して、一挙にひそかに書きすすんだという学術原稿を見せてもらったが、数十枚の小さな汚れた紙片に、速記の記号で、びっしりと細かく書かれてあるのを見た時、もし自分がアウシュヴィッツに送られたら、果してそれだけの勇気と、それだけの学問への愛があったであろうか、と反省せざるをえなかった。
 フランクルは何回も訪日しているが、最初は私たちの招待であった。
私たちも貧しかったので、羽田空港にハイヤーを手配するようなことはできなかった。
羽田では、これ以上古いルノーはないというような私の小さなルノー車の助手席に彼を押し込んでホテルに向かった。
私の願いはどうぞルノーが故障しないようにということであった。
それほど古く、ちょっとした昇り坂でもエンジンはすぐ「咳(せき)」をしだす有様で、私は隣のフランクルにもし怪我でもあったらどうしょうとしきりに気になった。
彼に向かって車が狭くて申し訳ないというと、彼は真顔(まがお)でこれだけのスペースがあれば充分だと答えた。
(事実、彼は高齢になってから、やっと中古の小型車を買うことができて、子供のように喜んでいたそうである。)
 翌日、フランクルは講演の直前に私に用があるというので行ってみると、濃いストレートのコーヒーを二杯続けてのませて欲しいとのことで、早速手配したが、彼の熱心で強い説得力は、このように、カフェインに助けられ、懸命に訴えられているのは哀しみでもあった。
 このような超国家主義の悲劇は、周知のように本邦にも存在し、多くの死と不幸を人々にもたらした。
軍閥は相克しつつ堕落し、良識ある国民、特に知識階級に対しては、国家神道の強制、および治安維持法による(ナチスに負けない)残忍な逮捕、無期限な留置、拷問、懲役、で「転向」を強制するのであった。
戦争の末期に至るや、「特攻」作戦と称して強制的な命令によって、あらゆる中古機、練習機、古い水上機などを主として、これを爆装して、陸海軍合せてなんと七千名の少年兵出身で、やっと操縦できる程度の練度の低いパイロットをのせて、いわゆる「神風(しんぷう)」の体当たり作戦に投じ、ほとんど全滅であった。
この無法な作戦の上奏に対して、天皇が許可しなければそれまでであった。
しかし彼は黙認してしまった。
私には未だに血の逆流する想いが断ちきれない。
フランクルの書はこの時、「大いなる慰め」である。
 しかし時間は、そして歴史は遠慮なく流れていく。
一生忘れられない戦前の屈辱と戦後の貧富の間には、戦中の烈しい砲弾の爆裂音のトラウマを残しながら、時代は変って行った。
 あの愚かしい太平洋戦争の絶望的な砲火硝煙(しょうえん)の戦場体験を持つ者は、今や七十歳代の終りから私のように八十歳前半までの老残の人間のみである。
どうしても骨っぽい、ごつごつした文体になってしまう。
またそれはアウシュヴィッツの現場をみた者には避けられないことかもしれない。
 それに対して、新訳者の平和な時代に生きてきた優しい心は、流麗な文章になるであろう。
いわゆる" anständig "な(これは色々なニュアンスがあって訳しにくいが「育ちのよい」ともいうべきか)文字というものは良いものである。
半世紀の間、次々と読者に愛された本書が、さらにまた読みつがれるように、心から一路平安を祈るものである。
  2002年9月
(『夜と霧【新版】』ヴィクトール・E・フランクル著 池田香代子訳 みすず書房 2002年)
今朝の父の一枚です(^^)v
キリンか鹿に見えたそうです。

プロフェッショナル 仕事の流儀 
餅ばあちゃんの物語~菓子職人・桑田ミサオ~
を録画して父と一緒に見ていました。
いろんな苦労を体験されているのに素敵な笑顔に手を合わせたくなる。
番組の後半、息子さん夫婦がガンになり介護をされていた。
笹餅を作る手が止まっていたけど、

まあなるようにしかならないし。

日中は介護で作業が途切れるため深夜に餅作りを始めておられた。

こういう仕事でもあるから、なんとか、もっているでしょうけど
仕事がなければ、すごく落ち込んでいると思うよ。


最後に桑田ミサオさんのことば。

分らないっていうことは幸せなことよ
そういう気持ちで人生送っていれば
きっといいことがあるわよ


再放送は6月9日(火)午前0時15分から(8日深夜)
見逃し配信は6月9日(火) 午後11:15 まで

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