2020年6月6日土曜日

日ざしがあまりなかったので…


曇り空で気温は25度前後だったけど照りつけるような日差しがなかったので助かりました。
でも、蒸し暑かったな…(^^;
ムラサキシジミに会ったけど気温が高いので翅を拡げてくれなかった…

6日土曜も暑く すっきりしない天気に」(えりの気象日記 6月5日)
蓮池透さんのTwitter

【横田滋さんの訃報を受けて】
いつか、この日が来るのは分かっていたし、怖かった。
滋さんは、公には政治家に対しても、右派的思想家に対しても決して異論を唱えることのないジェントルな人だった。
しかし、プライベートではお酒が好きで、日ごとにその量は増えていった。(続く)


(続く)を読んでほしいです。
大坂なおみさん、「スポーツに政治を持ち込むな」ツイートに痛快な反論 『これは人権の問題です』〟(生田綾 HUFFPOST)

大坂さんは一連の事態を受け、「沈黙が『裏切り』になる時がくる」とのキング牧師による演説の一節を引用したツイートをシェアするなど、抗議への参加を呼びかけている。(キング牧師は、「最大の悲劇は悪人の抑圧や残酷さではなく、善人の沈黙である」という言葉も残している。)
6月6日
 高杉晋作が奇兵隊を結成した。 1863(文久<ぶんきゅう>3)年

 フランスの軍艦2隻(せき)が、下関の前田砲台をアッという間にたたきつぶした翌6日、現地を調べにきた高杉晋作(たかすぎしんさく)は、だらしない長州(ちょうしゅう)藩兵に腹をたてて、その日のうちに藩主の許可をえて新しい軍隊をくりはじめた。
奇兵隊(きへいたい)と名づけられたこの軍隊は、藩の家臣だけでなく、農民や町人にもひろく入隊をよびかけ、身分の上下にこだわらない全く新しい軍隊であった。
しかし、規則はきびしく、武士道に反したとして仲間の目の前で切腹させられたり、首をきられるものもいた。
奇兵隊は1年半後に長州藩軍の中心にのしあがり、66年には、おしよせる幕府の大軍をさんざんに打ち破った。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
日本の歴史18 開国と幕末変革』より「奇兵隊と高杉晋作」を転記しますφ(..)
ここだけを読むと歴史の流れが分かりにくいと思います。
興味を持たれたら本を手に取ってください。
  奇兵隊と高杉晋作

 萩では流言、張り紙が出る状況で、政府は山口へ移ったが、萩は「俗論の巣窟」であった。
俗論派とは、周布(すふ)派がそう呼んだのであり、俗論派自身は、自身を「正義派」、周布派を「慷慨(こうがい)派」と呼んだ。
俗論派も、死刑や遠流(おんる)、逼塞(ひっそく)、隠居の重罪をも恐れず蜂起したのである。
(『日本の歴史18 開国と幕末変革』井上勝生 講談社学術文庫 2009年)
 もともと幕府の嫌疑を恐れず産物交易を上方へと広げたのが、長州藩においても坪井久右衛門(つぼいくえもん)に指導された俗論派であった。
薩摩藩の調所(ずしょ)派で見たように、調所らは幕令に反した密貿易を大々的に展開した。
幕命によって琉球に派遣された藩兵も、密かに鹿児島へ帰還させてしまった。
調所は、西欧の軍事力と対抗できるとはまったく考えていなかった。
幕府に対抗することでは(島津)斉彬(なりあきら)に劣らなかったが、路線は徹底して現実的であり、斉彬とは違うのである。
長州藩でも、坪井は、1863年10月に萩で処刑された。
坪井ら俗論派の処刑を恐れない「御意難事件」をみれば、攘夷戦を前にして、怖(お)じけたわけではないことがわかる。
攘夷戦において正規藩兵が消極的だったというのは、このような政治の問題である。
 周布たちは攘夷戦を、「卵を以て、石に投ずるに等しい」と認識していた。
「彼をして憤兵(ふんへい)たらしめ、我(長州藩)をして死地に入れそうろうより外に良策これあるまじく」という「策」であった。
 1863年3月、高杉晋作は京都で剃髪(ていはつ)し、藩から「十年の暇」を与えられる。
名前を「東行(とうぎょう)」と改めた。
周布が自分の甲冑(かっちゅう)を贈ると、高杉は、「攘夷の戦い」があれば着すと甲冑に記した。
木戸孝允らも同席した。
高杉が途中、遊興を尽くして無一文となって藩地へ帰着したのは4月上旬である。
木戸孝允が帰国できたのは、京都で8月18日の政変が起きたためもあり、9月になってからであった。
 年長の指導者周布政之助(すふまさのすけ)は、5月9日、かろうじて攘夷実行の前日、山口に帰着する。
攘夷実行の翌日、隠居雇いとなり、政事堂勤務、政務座の筆頭、藩地の指導者となった。
通説では、高杉は「十年の暇」を与えられ、方向を見失ったように言われているが、それは当たっていない。
頼りの木戸はいないが、国元の態勢は整ったのである。
帰藩を切望した木戸が、9月までとうとう帰藩できなかったところに、すべてを断ち切った高杉「十年の暇」の意味があろう。
高杉は一切を捨てて、「死地」に賭(か)けたのである。
 攘夷期日の5月10日、下関海峡で長州藩の庚申丸が砲撃を開始する。
京都から帰着した尊王攘夷派草莽が集まった光明寺党は庚申丸に乗り、暗夜のなかアメリカ商船ペンブローク号に接近して砲撃を加えた。
同夜、下関の正規藩兵の本陣は動かなかった。
引きつづく外艦砲撃事件で、長州藩の砲手の手練が列強を驚かせるが、欧米軍艦の反撃も強烈であった。
6月1日、アメリカのコルベット艦ワイオミング号は長州藩海軍を壊滅させ、5日、フランスのフリゲート艦セミラミス号の陸戦隊は前田村を焼き尽くす。
 こうして、6月6日、高杉晋作が呼び出され、翌7日、高杉は、下関において武士と民衆混在の有志隊「奇兵隊(きへいたい)」を結成する。
有志がたんに寄り集まった軍隊ではなく、藩庁公認の「有志隊」として結成された点が重要なところである。
久坂玄瑞(くさかげんずい)らの藩医や、軽卒から出た尊王攘夷派三十余人が奇兵隊の原型となったのである。
「陪臣(ばいしん)、軽卒、藩士を選ばず、同様に相交(あいまじ)わり」、もっぱら「力量」を重んずる、という藩の新しい軍隊である。
 和流、西洋流にかかわらず、それぞれの武器で戦う、と高杉は「隊法」に記したが、次に述べるように、長州藩の軍制改革の流れから言えば、西洋流も認めさせることに重点があった。
結成の九ヵ月後、奇兵隊はゲベール銃・ミニエー小銃を藩庁から借り出している。
ミニエー小銃は、クリミア戦争でイギリス軍がロシア軍を撃滅したライフル銃で、19世紀中葉には、このライフル銃が世界史に軍事革命をもたらしたのである。
 前述のように長州藩では、安政期の周布派による改革で、洋式軍制改革が決められていた。
長崎直伝習には木戸孝允の義弟、来原良蔵(くるはらりょうぞう)が参加して、オランダ銃陣を習得した。
桜田門外の変の直前には、長崎と横浜で大量のゲベール銃を買いつける。
しかし、洋式軍制改革に対する正規藩兵の抵抗は大きかった。
近代的軍隊は兵士の均質な構成を必要とするが、正規藩兵の複雑な上下関係が改革を不可能にする。
来原良蔵は同藩士から石つぶてを投げつけられた。
藩庁は足軽以下の軽卒の銃陣編成を推進せざるをえない。
ところが、「士隊に先だちこれを行なえば、序をみだるの弊あり、これをもって軽卒の操練は、藩地にありてはいったん中道にして廃するのやむをえざるに至れり」(『修訂防長回天史』)であり、正規藩兵の猛反対によって中止となった。
 1863年ごろには、周布は、「人民は五六ヶ月執業つかまつらせそうらえば、一個の士とはあいなるべし」、「十八宰判(郡)、民兵およそ九大隊」と民兵論まで構想する。
結局、改革派は下関外国船砲撃事件という「対外戦争」に無理やり突入すること、死地に投ずることによってようやく士庶混成の有志隊をつくったのである。
新しい奇兵隊は高杉晋作個人の生み出したものではなく、周布政之助や木戸孝允、高杉ら長州藩の改革派の総意と決意が生み出したものである。
(『日本の歴史18 開国と幕末変革』井上勝生 講談社学術文庫 2009年)
今朝の父の一枚ですφ(..)
ハンゲショウを写していました。
ドクダミの仲間だけあって薬草としての効能が幾つかあります。

 江戸時代1803年に著された「本草綱目啓蒙(ほんぞうこうもくけいもう)」には、江戸時代には、オシロイカケ、ハンゲグサなどの名で呼ばれたという記録が多くの本草書に残っています。
東邦大学医学部 額田医学生物学研究所

追記)
本当に美味しそうな顔をしている(*´▽`*)