2020年6月7日日曜日

ムクゲが咲き出しました


暑いけど湿度が低く、風が気持ちよかったです。
ムクゲが咲いていたけど蕾のときにかじられたのかな?
アオサギがムスッとした顔?で歩いていて嘴が開かないようすでした。
釣り糸でも絡まっているのかなと思ったら…
ニホンカナヘビが最後の抵抗をしていました?
6月7日
 世阿弥(ぜあみ)が将軍足利義満(よしみつに侍し祇園祭を見た。
    1378(天授<てんじゅ>)4、永和<えいわ>4)年

 あいにくの雨になったが、この日、将軍足利義満は祇園祭の盛大な山鉾巡行(やまぼこじゅんこう)を見物した。
加賀(かが)の守護富樫(とがし)に命じて桟敷(さじき)をつくらせ、大和猿楽(やまとさるがく)の観阿弥(かんあみ)の子世阿弥(16歳)をそば近くに召しよせていた。
これを見た内大臣藤原公忠(きみただ)はこの日の日記で、近年義満が世阿弥を異常に寵愛(ちょうあい)していると非難した。
さらに公忠は、「将軍の意向に叶(かな)おうとして守護大名が競って財産や物を世阿弥にあたえ、その費用は巨万に及んでいる」と述べ、猿楽師のやっていることは乞食のように卑しいと、このような風潮をきらっている。
 観阿弥は農村や社寺の神事の芸能であった猿楽に、田楽(でんがく)や曲舞(くせまい)などをとり入れて新しい能楽を生み出した。
1374年、これを義満の前で親子で演じて以後その庇護(ひご)を受けた。
世阿弥は芸をみがき、幽玄(ゆうげん)の美を追求して能を完成した。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)

世阿弥がのこしたもの」(小学6年)
世阿弥について『室町人の精神 日本の歴史12』と
日本文学史序説<上>』より転記したいと思いますφ(..)
第五章 酔狂の世紀
 1「無為」と「恐怖」の文芸
  「無為」の世の芸術家


 義満の時代には能を演じていれば貴人たちは喜んでくれたものだ。
けれどもこのごろは彼らの目も肥(こ)えてきてちょっとしたミスでも見逃さなくなったので、よほど洗練されたものでなければ彼らを満足させることはできなくなった。
――こう語るのは58歳の世阿弥元清(ぜあみもときよ)である。
1420年(応永<おうえい>27)成立の伝書『至花道(しかど)』のなかの言葉だ。
12歳で義満を魅了し、たちまち時代の寵児(ちょうじ)となりながら、その後義満の心は近江猿楽(さるがく)の犬王道阿弥(いぬおうどうあみ)に移り、義満の後継者となった義持は田楽(でんがく)の増阿弥(ぞうあみ)を寵愛した。
自然、将軍からのお声がかりも少なくなって世阿弥の活動舞台は京都郊外の寺社へと押しやられていった。
そのようななかでこの文章は書かれたのである。
(『室町人の精神 日本の歴史12』桜井英治 講談社学術文庫 2009年)
 しかしじつはこの不遇の時代こそ世阿弥がもっとも精力的な著作活動を展開し、数々の謡曲や伝書を世に送り出した時期でもある。
世阿弥が複式夢幻能(ふくしきむげんのう)の形式や「動十分心(どうじゅうぶんしん)、動七分身(どうしちぶんしん)」といわれる抑制された演技にたどりついたのもこのころであった。
右の文章にみえるような目の肥えた観客たち、具体的には将軍義持や細川満元をはじめとする幕閣たちの冷徹なまなざしを意識しつつ、世阿弥はひたすら高踏的な演劇世界の創造を目指したのである。
 この観客たちは一方の政治の世界においては室町幕府の最盛期を演出した優れた政治家たちであった。
そして彼らが政治家としての自己形成をおこなった時期というのは、はしなくも彼らが能の鑑賞眼を培(つちか)っていた時期と符合するのである。
しかも彼らがになった幕府政治の基調が高度な政治判断にもとづく自己抑制にあったというのも、どこか世阿弥の目指していたところと共鳴しあうように思えて興味深い。
さらに無視できないのは、世阿弥が1434年(永享<えいきょう>6)という「政治の死」を象徴する年に佐渡に配流(はいる)されている点である。
「無為(ぶい)」の政治とともに生き、その死とともに去っていった芸術家、それが世阿弥であった。
(『室町人の精神 日本の歴史12』桜井英治 講談社学術文庫 2009年)
第五章 能と狂言の時代」より
(前略)

 観阿弥作とされる曲には、二人の人物の対決を中心にした劇的な構成をもつものがめだつ。
たとえば「自然居士(じねんこじ)」では、舟上の人買いと少女を舟から救い出そうとする自然居士との激しい問答、「卒塔婆(そとば)小町」では、卒塔婆に腰かけた老女(小野小町)と僧との仏教問答。
前者は自然居士の舞で終り、後者は小町の「もの狂い」の舞で終るが、劇的緊張の頂点は問答にあり、超自然的な存在を介入させず、現世的な人間関係の劇であるという点では、狂言の世界と根本的にはちがわない。
このような傾向は、宮増作といわれる曲にもみられ、「夜討曾我」が典型的である。
これは有名な敵討ちの話で、兄は討死、弟は召捕られる。
その間兄弟側の母に対する感情、主従関係などがからみ、一曲のしくみは全く現実的であって、亡霊などは出てこない。
(『日本文学史序説<上>』加藤周一 ちくま学芸文庫 1999年)
 しかるに世阿弥は、あきらかに、別の方向へ「能」を発展させたのである。
別の方向とは、第一に、題材を大衆的な伝説の主人公(小町や曾我兄弟ではなく、主として『平家物語』の武将(頼政、実盛、忠度、敦盛)や平安時代の古典の主人公(業平と「井筒」の女、「檜垣(ひがき)」の老女、融、貫之など)にとったことであり、第二に、劇的緊張を複数の人間相互の対立にではなく、一人の主人公の「変身」に集中し、内面化したことである。
たとえば主人公が武将の場合には、諸国行脚の僧が古戦場で老人(前シテ)に会い、土地の話を聞く前場と(僧があらためて里人から話を聞いて老人の正体を知る「間<あい>」がある)、その老人が昔の武将の姿であらわれ(後シテ)、討死のさまを語りながら舞い、僧が読経して亡霊をしずめる後場とから成る。
「前シテ」は老人や老女で、「後シテ」は狂い舞う亡霊である。
前場の舞台はこの世であり、後場の舞台は死後の世界、亡霊の彷うところである。
この構造は、武将の話でなく、身分の低い老人の高貴な女に対する恋を扱った「恋重荷」でも変らない。
「前シテ」の老人は、恋する女になぶられて、自殺する。
「後シテ」はその老人の亡霊で、狂い舞いながら女を責めるのである。
このように世阿弥の「能」では、ほとんど常に、主人公が人間から亡霊へ「変身」し、此岸から彼岸へ移り、自然的(社会的)な世界から超自然的な世界へ向う。
 そういう曲が観阿弥の時代になかったわけではない(「通小町」)。
また観阿弥よりも古く神事の「能」には(「脇能」)、前場で老人としてあらわれる神が、後場で正体をあらわすというしかけもあった(これは「延年の風流」構造を継承するものだといわれている)。
しかし世阿弥は神とその化身についてではなく、人間について、その此岸と彼岸にわたるところに注目し、「能」に固有の形式を徹底させ、完成したらしい。
たしかにそれこそは、彼の時代において、新しい「能」のつくり方であった。
さればこそ彼はみずからの立場を擁護するために、理論を必要としたのである。
まさにその200年の後、大蔵虎明が「狂言」を初期歌舞伎から区別し、自己の芸術を擁護する必要を感じたときに、「狂言」の最初の理論書、『わらんべ草』を書いたように。
世阿弥以後の作者の多くは、あるいは観阿弥風の現実的な「能」をつくり、あるいは世阿弥風の夢幻的な曲を書いた。
(『日本文学史序説<上>』加藤周一 ちくま学芸文庫 1999年)
続きは後日、もう少し転記しますφ(..)
といいながら明日は、父の歯科通院に付き添うのでブログはお休みします。

コロナのことでついうっかりしてしまいそうだなと思ったのが
放置はダメ! 車内に消毒用アルコール」(NHK)

以前、ガスライターを車内に置き忘れたために火災になったニュースがありました。
ライターは安全に正しく使いましょう! 」(消費者庁)