2020年6月14日日曜日

雨が止むと…

夜明け前に激しい雨が降るとの防災速報のメールが届きました。
その雨も出かける時には止んでくれました。
やはり梅雨だなと思うのは湿度が90%前後…(^^;
ニホンカナヘビは、気温が上がったのでのんびりしていました。
お腹が膨らんでいるのでメスかな?
こころの時代~宗教・人生~「敵対と共生のはざまで
番組の制作の仕方が違っているなと思いました(*´▽`*)
ウイルス学者の山内一也(88歳)さんの言葉の一部を転記しますφ(..)

免疫のない状態のところに入ってきた新しいウイルスですから
広がること自体は不思議ではないと思います。
ただ、例えばインフルエンザウイルスと比較してみますと
インフルエンザウイルスっていうのは、もともとカモが持っている鳥類のウイルスなんですね。
コロナウイルスは、コウモリは哺乳類なんです。
哺乳類が持っているウイルスが入ってきた。
しかもこのコロナウイルスというのは、非常に大きなサイズのRNA(リボ核酸)ウイルス。
インフルエンザウイルスも同じRNAウイルスなんですが、そのインフルエンザウイルスの2倍ぐらい大きい。
大きいっていうとちょっと分かりにくいかもしれない。
RNAは数珠につながったような1本の数珠がずっとつながった鎖のようなものと考えて頂けばいいんですが。
それで1つの数珠を1つの文字とするとインフルエンザですと15,000字の文章になる。
コロナウイルスは30,000字の文章になっちゃう。
ということはコピーする時に、それだけミスが起きやすくなるということですね。
そういう意味では、どんどん変異していくウイルスであるということですね。
コロナウイルスはコウモリと恐らく1万年ぐらいは共存してきてると思います。
そういうウイルが、たまたまこの人の世界の方に入り込んできたといのが現状だということですね。
我々は遭遇したことないのが入ってきた場合には
やはり免疫がないわけですから、それが脅威といえば脅威です。
今回の新型コロナなんかの場合ですと
コウモリから発生の危険性というのは2010年代からいくつもそういう学術論文は出てるんですね。
危険だという。

人獣共通感染症(インターネット)講座」では、恐ろしいウイルスの話が中心だった。
細菌には悪玉菌と善玉菌がある。
で、ウイルスの場合には善玉ウイルスってないんですかという質問があったんですね。
目からうろこみたいな感じで受け止めたんです。
ちょうどそれ多分2000年ごろだと思うんですが

私は20世紀は根絶の時代っていうか
ウイルスの根絶を目指した時代であったと。
21世紀は共生の時代であると。共に生きる。
もともとウイルスそのものが30億年前には地球上に現れて
人間は原始人類でホモサピエンスだったのは20万年前なんですね。
生命の1年歴っていうのあるんです。
地球が46億年前にできて、そこから現代まで1年に例えると
ウイルスが出現したのは5月の初めなんです。
人間が出現したのは12月31日の最後の数秒だったと。ほんのひとときなんだ。
ですからウイルス対人類とかって言ったって
もう人間なんていうのはウイルスにとっては取るに足らない存在だと思うんです。
ですからやはりそのいう中に我々は生きてるわけですから
いかに共生していく、共に生きていくか。

コロナウイルスに例えて言えば
コウモリという宿主(しゅくしゅ)でずっと1万年まえからやってきてる。
そこから人間に来なければいいだけ。
それを来るようにしむけてるのが人間社会なんですね。
その時にはウイルス対人類と考えてもいいんですが
ただ敵というか相手っていうかこれはもうとても勝とか負けるとかって相手じゃないんですね。
全然もう違う存在だというふうに思います。
我々の遺伝子のヒトゲノムですね。
これの4割ぐらいっていうのはウイルスなんですね。
我々自身の中に
ウイルスと私たち人間と一体化してるというか。
完全に身の内なんですウイルスも。
遺伝子の4分…約半分がウイルスであると。
腸内細菌、これが100兆個ぐらいあるわけですが、1つの細菌に10ぐらいのウイルスがいる。
10以上いるというふうにいわれてるんですね。
すると1,000兆ですね。
それだけのウイルスが我々の体の中にはいるということなんですね。
ですからウイルスと人との区別っていうのはなかなかつけがたい。
ウイルスといっても病気を起こすというウイルスだけじゃないわけですから。
まさに我々はウイルスと一緒に生きてるわけで、今でもちゃんと一緒に生きてる。
そのコロナみたいな野生のウイルスと共生するということだけではなくて
我々の体の中のウイルスも一緒に生きてるっていうことは
認識しておくべきだろうと思います。

見逃し配信は6月21日(日) 午前6:00 まで
6月14日
 祇園会(陰暦6月7日から14日まで)

 いまは7月17日から24日まで、京都じゅうを楽しい興奮にまきこんで行われる祇園祭は、陰暦では6月7日から14日まで行われた。
 祇園会(ぎおんえ)の起源は、平安時代の初めころ、疫病が流行したくさんの死者がでたとき、悪霊(あくりょう)を追い払うために、六本の鉾(ほこ)を立て、神輿(みこし)を神泉苑(しんせんえん)に送って、けがれを水に流そうとしたことにあるらしい。
御霊会(ごりょうえ)ともいうのは、死者のみたまをなぐさめる行事ということである。
応仁の乱後の京都復興の中で、この行事は京都の民衆の手でさかんに行われるようになり、華美な山車(だし)や囃子(はやし)がつくられた。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)

町衆」(中学・高校)
岩波仏教辞典(旧版)』より「御霊会」を転記しますφ(..)
御霊会(ごりょうえ)
<御霊祭>ともいう。
不慮(ふりょ)の死をとげた人の霊は祟(たた)りを招くと恐れられて<御霊(ごりょう)>と呼ばれるが、御霊会はその鎮魂(ちんこん)の儀式。
<御霊>はもと天皇家の死者の霊を意味するミタマであったが、時代の推移と共に非業の死霊(しりょう)を意味するようになり、それは怨霊(おんりょう)とみなされた。
疫病・飢饉・地震・雷災などは御霊の仕業とみなされ、その慰撫(いぶ)が必要となり、御霊は<御霊神>という神格にみなされるように至った。
(『岩波仏教辞典(旧版)』中村元他編 岩波書店 1989年)
 8-12世紀は特に御霊神時代といわれる。
863年(貞観5)5月20日、神泉苑(しんせんえん)で御霊会が国家的レベルで行われ、以後に強く影響を及ぼした。
藤原氏によって非業の死をとげた崇道(すどう)天皇(早良<さわら>親王、?-785)、伊予(いよ)親王(?-807)、藤原夫人(吉子、?-807)、観察使(かんさつし)、橘逸勢(たちばなのはやなり ?-842)、文室宮田麻呂(ふんやのみやたまろ―843―)は六所御霊とみなされ、御霊会の対象となった。
のちに菅原道真(すがはらのみちざね 845-903)、吉備真備(きびのまきび 693-775)、井上皇后(717-775)などから2霊を加えて八所御霊が生まれ、京都の上御霊神社と下御霊神社で祀られて有名。
また、行疫神の牛頭天王(ごずてんのう)を祀る八坂神社(感神院)の祇園御霊会(祇園会)は、今日、祇園祭として知られ、火雷神として畏怖された菅原道真の御霊慰撫は菅公信仰として全国的広がりを見せている。
関東地方中心であるが、平将門(たいらのまさかど ?-940)の御霊信仰なども特筆すべきものである。
なおこれらに限らず、悪霊鎮魂の行事は、生命をおびやかす疫難や農作に被害をもたらす虫害対策を中心に全国各地で行われたが、中世以降、そうした御霊鎮送行事に鎮魂を業とする念仏聖(ねんぶつひじり)などの広範な参加があったことが、やがて踊念仏(念仏踊)・田楽(でんがく)系統の民間諸芸能や風流(ふうりゅう)的出し物を生み出す要因ともなった。
(略)
(『岩波仏教辞典(旧版)』中村元他編 岩波書店 1989年)
応仁の乱』に「疫病の流行」がありますので転記しますφ(..)
1 厭戦気分の蔓延
  疫病の流行


 文明3年(1471)7月、京都では疱瘡(ほうそう)が大流行した。
14日に経覚(きょうがく)が一条兼良(かねよし)に聞いたところによると、烏丸季光(からすますえみつ)、武者小路種光(むしゃのこうじたねみつ)、日野勝光(かつみつ)の息子などが疱瘡によって死去したという。
疱瘡は地方にも広がり、人々は恐怖におののいた。
お札に「麻子瘡之種我作」と書いて背中に貼れば疱瘡にかならないというおまじないの存在を知った経覚はさっそくお札を作って、周囲の人間に配っている(「経覚私要鈔<きょうがくしようしょう>」)。
(『応仁の乱』呉座勇一 中公新書 2016年)
 同21日には後土御門(ごつちみかど)天皇が疱瘡にかかり、治癒の祈禱が行われた(「親長(ちかなが)卿記」「宗賢(むねかた)卿記」「内宮(ないくう)引付」)。
翌8月には足利義尚(よしひさ)が病に倒れた。
この頃、足利義政(よしまさ)・日野富子夫妻は喧嘩をして、義政が小川(こかわ)の細川勝元(かつもと)邸に、富子が北小路殿(きたのこうじどの)に移っていたが、息子の重病を知ってあわてて室町殿(将軍御所)に戻っている。
しかし、この二人も流行病にかかったらしく、腹を下している(「経覚私要鈔」「宗賢卿記」)。
 同時期、奈良でも疫病が流行し、600人が亡くなったという。
尋尊(じんそん)は疱瘡にかかり、政覚(せいかく)は腹を下した(「大乗院寺社雑事記」「経覚私要鈔」)。
経覚は疫病を鎮めるため、薬師如来の図絵を掛けて法会を行った(「経覚私要鈔」)。
しかし疫病は勢いを増す一方で、閏8月には山田宗朝(やまだそうちょう)が赤痢で亡くなり、古市胤栄(いんえい)も陣中で病に倒れて古市に帰還した。
経覚の側近で古市胤栄に随行していた畑経胤(はたきょういん)も赤痢にかかり、同じく古市に帰還した。
 この年の赤痢・疱瘡の大流行は、旱魃(かんばつ)と戦乱のダブルパンチによるものだろう。
飢饉と軍事徴発によって食糧は不足し、人々の体力は奪われていった。
大量の餓死者や戦死者は都市衛生を悪化させ、疫病の大流行を招いた。
 本来、為政者は疫病の撲滅に努めなくてはならない。
だが応仁の乱の真っ最中ということもあり、朝廷・幕府の対策は除病の祈禱に限られたため、実効性はなかった。
平癒したとはいえ将軍足利義政にも直接の影響を与えた文明3年の疫病は、戦乱の早期終結の必要性を義政や両軍首脳部に強く意識させたであろう。
(『応仁の乱』呉座勇一 中公新書 2016年)
内戦などの紛争地ではCOVID-19 が感染拡大しています。

先日、久しぶりに本屋を覗くと品切れになっていた
感染症の世界史 人類と病気の果てしない戦い』が
平積みになっていました。
大戦終結を早めたインフルエンザ」を転記しますφ(..)
なお、リンク先は角川ソフィア文庫にしています。
大戦終結を早めたインフルエンザ
 中立国のスペインでは、5~6月に約800万人が感染し、国王をはじめ閣僚も倒れて政府だけでなく国の機能もマヒした。
大戦中は多くの国が情報を統制していたが、中立国だったスペインだけは統制がなく流行が大きく報じられた。
このために、「スペインかぜ」とよばれることになった。
スペイン政府はこの名称に抗議したが、あとの祭りだった。
(『感染症の世界史 人類と病気の果てしない戦い』石弘之 洋泉社 2014年)
 とくに、ドイツ軍と英仏米の連合軍が膠着(こうちゃく)状態に陥った西部戦線は、異常事態が起きていた。
ウィルスはこの最強の防衛線をいとも簡単に乗り越えてきた。
兵士が塹壕(ざんごう)にすし詰めになった過密な戦いが三年半もつづいているところに、インフルエンザウィルスが侵入した。
 両軍ともに兵士の半数以上が感染し、戦闘どころではなくなった。
ベルリンでは、毎週平均500人が死亡していた。
米国軍の戦死者は5万3500人だったのに対して、インフルエンザで死んだ将兵はそれを上回る5万7000人もあった。
 ドイツ軍の受けた打撃も大きかった。
インフルエンザで約20人の将兵を失った。
最高司令官エーリッヒ・ルーデンドルフ将軍は、1918年7月にパリ東方80キロのマルヌ川にまで迫った。
ところが、英仏米連合軍が反撃すると、いとも簡単に敗走した。
後に将軍は、「マルヌの攻防戦での敗走は、けっして新しく参戦して来た米国軍によるものではない。兵士がことごとくインフルエンザにやられ、弱り果てて武器を運ぶこともできなかったのだ」と語った。
 両陣営とも戦争継続が困難になり、大戦の終結が早まった。
だが、各国から参戦した兵士は、ヨーロッパ戦線で感染して本国にウィルスを持ち帰ったために、一挙にインフルエンザのグローバル化が起きた。
(『感染症の世界史 人類と病気の果てしない戦い』石弘之 洋泉社 2014年)
今朝の父の一枚です(^^)v
展望台?から遠く生駒山の方を眺めていました。
ここで休憩するつもりだったようですが、風雨が激しかったようでベンチは濡れていたそうです。

今夜遅くにかけ激しい雨のおそれ」(関西 NHK)