2020年6月21日日曜日

気温は高いけど…

青空が広がり気温は高めでしたが、木陰に入ると風が涼しかったです。
今日は部分日食が見られるようですが、偏光板がどこかに隠れてしまっている(^^ゞ

きょう全国で部分日食 午後4時ごろから午後6時半ごろまで」(NHK)
カタバミのハイテク生活
 振動感知型タネ発射装置


 長い花期の間、花は次々と咲いては実を結ぶ。
実の形はロケットそっくりで、天に向かって屹立(きつりつ)する。
実の中には小さなタネがたくさん詰め込まれており、その一つひとつに、振動感知型の炸裂(さくれつ)装置が装備されている。
(『したたかな植物たち―あの手この手のマル秘大作戦【春夏篇】』多田多恵子 ちくま文庫 2019年)
 タネはそれぞれ、白い袋に包まて大きくなる。
最初のうちこそ袋は中にタネと液体を入れたまま、風船のように大きくスムーズに膨らんでいくが、タネが大きくなるにつれ外側の細胞層の伸びは止まり、内側の細胞層だけがなおも伸び続けようとする。
そして、タネが熟す頃には内側の細胞層は無理に押し縮められた状態となる。
 そんな時期の実に触れる(振動を与える)と、とたんにピュピュッ、実の中からタネが飛び出してくる。
タネのまわりの袋が内外の圧力差に耐えきれなくなり、振動をきっかけに瞬間的に破れて裏返ってしまうのだ。
中のタネは文字通りの巻き添えを食い、実の裂け目から猛烈な勢いで飛び出してくる。
 このとき、袋の中に充満していた透明な液体もタネとともに飛び出す。
この液体はいわば「瞬間接着剤」。
振動を与えた張本人の靴や足にタネを貼りつける。
こうして、カタバミはタネを飛ばし、さらに人の移動力をも利用して生活圏を広げていく。
(『したたかな植物たち―あの手この手のマル秘大作戦【春夏篇】』多田多恵子 ちくま文庫 2019年)

はじける種 カタバミ」(小学3年 動画)
6月21日
 武家諸法度が改定され、参勤交代が定められた。 1635(寛永<かんえい>12)年
 江戸城大広間(おおひろま)で、将軍徳川家光(いえみつ)の前にかしこまる諸大名に向って、この日、林羅山(はやしらざん)は自分で起草した21カ条の武家諸法度(ぶけしょはっと)を読みあげた。
ちょうど20年前、大坂夏の陣の直後に、以心崇伝(いしんすうでん)がはじめての武家諸法度を読みあげたのは京都の伏見城であったが、今回は江戸城で申し渡した。
この改定で、参勤交代が制度化され、巨船を造ることがかたく禁止された。
全国の諸大名は、武家諸法度にもとづいて徳川家のきびしい支配をうけた。
その結果、かってに城の修理をしたり、将軍の許可なく大名同士で結婚をとりきめたりするなど法度にそむいたという理由で、とりつぶされた大名も少なくなかった。
 18世紀からは、将軍が交代するたびに武家諸法度が読みあげられ、諸大名は将軍への忠誠をちかわされたのである。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
参勤交代」(中学・高校 動画)

大名の妻子は、常に江戸で暮すことが決められているのですが
江戸期に生きた女表現者たち』より大名の夫人たちがどのような暮らしていたのかを見たいと思います。
黒田土佐子~日記から見る大名夫人の日常(江戸)
 大名夫人の座に就く


 寛永(かんえい)11年(1634)、江戸幕府は大名統制の一環として、大名妻子の江戸への移住を命じた。
以後、幕末期に至るまで、大名の母や妻たちは幕府の人質として江戸城下での生活を続けることになった。
「入(い)り鉄砲に出女(でおんな)」という言葉が生まれるほど、大名家の女性たちが江戸から出るのは厳しく取り締まられ、各関所で女改めが厳しく行われた。
 こうしたことから、大名家の女性たちは、厳しい制限のもとに窮屈な日常を過ごしたのではないかと思われている。
はたして、大名家の女性たちは江戸でどのような生活をしていたのであろうか。
黒田土佐子(くろだとさこ 1682~1758)の二点の日記から垣間見てみよう。
(『江戸期に生きた女表現者たち』柴桂子 NHK出版 2016年)
 享保(きょうほう)2年(1717)正月、江戸の常盤(ときわ)橋(千代田区)にある常陸(ひたち)国下館(しもだて)藩(茨城県筑西市)1万5000石の藩主黒田直邦(くろだなおくに)の上屋敷が類焼したため、藩主一家は本所石原(墨田区)へ移住し、屋敷の修復が終わる翌年11月までそこで暮した。
1冊目の『石原記(いしわらき)』は、直邦夫人の土佐子が残した、その折りの生活日記である。
 土佐子は旗本折井(おりい)氏の娘として生まれ、幼い頃に徳川綱吉(つなよし)の側用人(そばようにん)柳沢吉保(やなぎさわよしやす)の養女となった。
元禄4年(1691)、10歳の時、綱吉のお声がかりで綱吉の小姓だった16歳年の開いた直邦と縁組し、14歳の時、婚礼の儀を挙げた。
その年、綱吉が吉保の邸を訪れた時、土佐子ははじめて綱吉にお目見(めみえ)し、下賜(かし)品をいただいた。
その後、綱吉は柳沢邸訪問の帰途、しばしば黒田家にも立ち寄った。
 元禄16年、直邦は加増され下館藩藩主の座に就いた。
宝永(ほうえい)4年(1707)、綱吉の死により、直邦は将軍家宣(いえのぶ)、家継(いえつぐ)時代には側用人間部詮房(まなべあきふさ)らの権勢におされて一時、閑職となった。
しかし将軍吉宗(よしむね)時代には、吉宗の世子家重(いえしげ)の奏者番(そうじゃばん)に就任し、寺社奉行を兼任した。
享保17年、直邦は上野(こうずけ)国沼田(群馬県沼田市)に移封となり、西の丸老中に就任。
3万石の大名となった。
直邦は文武の道に優れ、政治を為す根本を「仁義礼智信」にそって説く『政治略論』や『老話』の著書をもつほか、『家僕教訓』などの訓戒書や『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』の注釈書、あるいは詩文集なども執筆した文人だった。
吉宗の信望が厚く、70歳で世を去るまで辞職願は許されなかった。
 土佐子は33年もの間、大名夫人の座にあり、直邦を支え続けた。
『石原記』に見る大名夫人の日常生活

『石原記』は、享保2年正月の火事の話から始まる。

(日記原文、略)

 土佐子の心配は的中し、享保2年丁酉(ひのとのとり)の正月、小石川あたりからの出火はたちまちのうちに深川まで広がり、常盤橋の黒田家上屋敷も類焼した。
この時、36歳であった土佐子は、豊子(とよこ)、三千子(みちこ)、利子(としこ)の3人の娘らを連れて本所石原の下屋敷へ仮住まいすることになった。
 下屋敷は狭く、淋しいところであった。
土佐子は直邦のすすめで近くの神社仏閣に参詣し、また縁者を訪問するなど、多い時には、月のうち7、8日も外出した。
 外出先で最も多かったのが、深川の隅田川のほとりにあった多田薬師(ただやくし <東江寺(とうこうじ)。墨田区>)で、多田源氏の祖源満仲(みなもとのみつなか)の守本尊(まもりほんぞん)だったといわれる薬師如来に家内安全を祈願し、持参した酒や重の物を皆で食べ、一日を過ごした。
深川の浄心寺(じょうしんじ)は黒田家の江戸における菩提寺でもあったので住職とも親しく、直邦も同行してしばしば訪れ、たいそうなもてなしを受けた。
少し離れた将軍家の祈願所でもあった木下川(きねがわ)薬師(浄光寺<じょうこうじ>。葛飾区)へも川舟でよく出かけ、舟から降りてあちこち散策し、入相(いりあい <夕暮れ>)を過ぎると両国へ向かい、舟から花火を楽しんだ。
そのほか、亀戸天神(かめいどてんじん)、五百羅漢(ごひゃくらかん)、浅草観音(浅草寺)、上野の桜、洲崎(すざき)弁財天、山王権現(山王日枝神社)、深川八幡宮(富岡八幡宮)、牛島神社、王子権現など日帰りで行ける範囲の所は大方出かけた。
 土佐子は、他家もたびたび訪問した。
直邦の母も火事で焼け出されて多田薬師の近くへ住んでいたので、その住まいにもよく出かけた。
駒込(文京区)の六義園(りくぎえん)には義父母の柳沢吉保夫妻の御霊屋(おたまや)である龍華庵(りゅうげあん)へは、夫妻の回向(えこう<供養>)のためにしばしば出かけた。
吉保の跡を継いだ義兄吉里(よしさと)のもとには新年の挨拶や長女豊子の婚礼の際の挨拶などに出向いた。
 豊子が陸奥(むつ)国桑折(こおり)藩(福島県伊達<だて>郡)藩主松平忠暁(ただあきら)と結婚してからは、1年間で7回も松平家を訪れた。
結婚翌年の新年には直邦も同行。
結婚半年後には4泊の滞在をしており、豊子の臨月見舞いにも2泊で出かけている。
豊子が男子を出産するとすぐに駆けつけ、23日も滞在して初孫の世話をし、豊子の産後の肥立ちの無事を見届けて帰宅した。
庶民に変わらない母親らしい行動である。
 こうした外出の多さは、経済的に恵まれ、比較的時間の余裕のあった大名夫人だからことできること。
庶民の女たちより、かえって自由が外出が可能だったと考えられる。
(もう一冊『言の葉草』については省略します)
(『江戸期に生きた女表現者たち』柴桂子 NHK出版 2016年)
今朝の父の一枚です(^^)v
羽衣のようだと話していました。
僕には鳳凰が飛んでいる姿に見えました。