2023年2月26日日曜日

2月26日

日があたるとポカポカして暖かいのですが
陽が雲に隠れると風が吹いてきているようで寒かったです。
帰りには雪がチラチラと降ってきていました。

雪がチラチラ降るくらいならいいのだけど…
花粉が舞うのは辛いなぁ(+o+)
大阪の花粉飛散予報」(ウエザーニュース)
 「鳥インフルエンザ感染で11歳の女の子死亡 カンボジア」(NHK)
致死率は50%以上。

2022年12月23日の記事で山内一也さんの『新版 ウイルスと人間』を転記したように

カモではインフルエンザウイルスはほとんど病気を起こさない。
カモではインフルエンザウイルスは共存している…


人間は、共存できないようです。
現在のインフルエンザワクチンでは防げません。
かつて大阪で感染した生徒の在籍する学校への誹謗中傷が起きたことがあります。
2009年新型インフルエンザ流行の経験から学ぶこと」(内閣官房新型インフルエンザ等対策室)

Ⅱ. 水際対策
…前略…
5月9日にカナダから帰国した大阪の高校生が成田空港の検疫で新型インフルエンザ陽性となったという情報が入ってきました。
幸い症状は軽症とのことでほっとしましたが、その高校への予想もしない誹謗中傷が起きていました。
学校の周りを歩くと感染するというデマもありました。
なぜこのようなことになるのだろうと思いました。
この誹謗中傷の問題はその後も繰り返されることになりました。
…後略…
今朝は雪がチラチラ降る程度でしたが、 1936(昭和11)年2月26日は3日前の雪が残っていました。
二・二六事件 「兵に告ぐ」〟(NHKアーカイブス 1936年)

二・ニ六事件高橋蔵相殺害」(戦争証言アーカイブス)

一定ノ地域ニ戒厳令中必要ノ規定ヲ適用ス・(緊急勅令)」(国立公文書館)

渡邉英徳さんのTwitterに

87年前の今日。
1936年2月26日、「2.26事件」で決起した直後、半蔵門を占拠する反乱部隊。
第3章 内なる戦い
 5 皇道派と二・二六事件
 木戸幸一の対応


 1936年(昭和11)2月26日未明、磯部浅一・栗原安秀・村中孝次・高橋太郎・安田優ら青年将校に率いられた、歩兵第一・第三連隊を主力とする1400人余の兵が叛乱を起こした。
叛乱軍は、内大臣斎藤実(さいとうまこと)・蔵相高橋是清(たかはしこれきよ)・教育総監渡辺錠太郎(わたなべじょうたろう)、予備役陸軍大佐松尾伝蔵(まつおでんぞう<岡田首相と誤認>)を殺害し、鈴木侍従長、牧野前内大臣を襲撃し、鈴木には重傷を負わせている。
叛乱軍は、その後、四日間にわたり、警視庁・陸軍大臣官邸・陸軍省・参謀本部を占拠した。
東京帝国大学で政治思想を講じていた南原繁(なんばらしげる)は、この日「ふきしまく吹雪は一日荒れいたり 由々(ゆゆ)しきことの起こりいたり」と詠み、折口信夫(おりくちしのぶ)は「つつ音を聞けばたぬしと言う人を 隣りにもちてさびしとぞ思う」と詠んだ。
(『天皇の歴史8 昭和天皇と戦争の世紀』加藤陽子 講談社学術文庫 2018年)
 叛乱軍側は、陸相川島義之(かわしまよしゆき)をはじめ、荒木や真崎など軍事参議官(重要軍務について天皇の諮詢<しじゅん>に応ずる軍長老)を参内させ、彼らを中心として宮中工作をおこない、皇道派による暫定内閣樹立をめざした。
だが、このような意図は、内大臣秘書官長木戸幸一(きどこういち)の卓抜な手腕によって阻止されることとなった。
木戸は、秘書官長に就任以来、牧野内大臣と西園寺元老のあいだの連絡役を貴族院議長近衛文麿とともに務めていた。
牧野ら宮中側近、そして天皇自身も考慮していた天皇親政論を排斥してきた人物であった。
その際の、国策についての周到な準備があるのは軍部だけであるから、これに対抗するには十分な準備が必要であるとの木戸の的確な政治判断は、西園寺の私設秘書原田熊雄(はらだくまお)や、陸軍省新聞班長・内閣調査局調査官を歴任する鈴木貞一(すずきていいち)などからもたらされる情報から導き出されていた。
「時局収拾の為の暫定内閣」をいったん樹立させてしまったが最後、叛乱軍に同情的な軍事参議官によって叛乱軍の成功が導かれるとし、2月26日の当日中に岡田の生存情報を摑んで以降は、とにかく現内閣の辞職を認めず、鎮圧一本でいく方針を木戸は天皇に言上した。
 木戸のもとに、情報として、東京憲兵隊長福本亀治の指示でなされていた盗聴記録「電話傍受綴(つづり)」が上がっていたかはわからない。
しかし、中田整一氏の調査によれば、真崎の盗聴記録は36年2月4日から、栗原中尉と非常に親しかった斎藤瀏(さいとうりゅう)予備役陸軍少将の盗聴記録は1月8日から採られていた。
事件までに、中野正剛(なかのせいごう)、鈴木貞一、山下奉文、北一輝、西田税なども盗聴の対象となっていた。
歌人でもあった斎藤は、蹶起(けっき)を知った胸のうちを、次のように詠んだ。
「思いつめ一つの道に死なむとす この若人(わこうど)とわが道行かむかな」
 木戸が打った手は次のようなものだった。
①斎藤内大臣死亡を受け、実質的に内大臣の働きをする人物として、一木喜徳郎(いちききとくろう)枢密院議長の参内を早朝の時点で促し、一木は午後3時に参内。
これは、一木が暗殺リストに載せられていたことを考慮すれば、一木の身体を安全に確保した点でも意義があった。
②岡田内閣の全閣僚を午後2時30分までに参内させた。
岡田内閣を存続させるには、後藤文夫内相など首相代理となりうる閣僚の確保が重要だった。
③奉勅命令発出後の2月29日、後継首班の選定に着手し、3月2日、西園寺の上京につなげた。
蹶起側の暗殺リスト予定者には、西園寺、一木、後藤の名前があったことを考慮すれば木戸のとった措置の重要性がわかる。
 鎮圧一本でいく方針は、天皇自身の意向にも従ったものであった。
2月26日、事件直後、伏見宮軍令部総長が参内したおりに天皇は、「徹底的に圧鎮せよ、要すれば錦旗(きんき)を奉じて往く」とまで述べている。
同日、木戸日記によれば、川島陸相が「暫定内閣」について上聞し拝謁したおりには、天皇はそれを拒絶し、「今回のことは精神の如何を問わず甚だ不本意なり。国体の精華を傷つけるもの」だと述べ、本庄武官長には「陸軍は自分の頸(くび)を真綿で締めるのか」との意味の言葉を発している。
27日には、叛乱軍の行動は統帥権干犯にあたるが、その精神を咎(とが)むることは難しいと言上した本庄に向い、「朕が股肱(ここう)の老臣を殺戮す、此(かく)の如き兇暴の将校等、其(その)精神に於ても何の恕(じょ)すべきものありや」と激しい言葉を投げている。
(『天皇の歴史8 昭和天皇と戦争の世紀』加藤陽子 講談社学術文庫 2018年)
今朝の父の一枚です(^^)/

 ■虫探しのパターン
 コゲラはまず太い幹にとまり、虫などを探して、表皮をつつき、らせん状に登って、やがて太い枝から細い枝に移動して飛び去るというパターンが一般的。
 春先頃から「トロロロロロ」と木を叩く「ドラミング」と呼ばれる音が聞こえ、主に求愛行動と考えられている。 
(『野鳥 しぐさでわかる身近な野鳥』久保田修/構成 藤田和生/絵 学研 2006年)