2023年2月4日土曜日

立春

霜が降りて池に氷がはるほど気温が低かったですが
風がほとんど吹かずに陽ざしがあったので暖かったです。
カワヅサクラの蕾はまだかたいのだけど…

花粉の飛散量 去年の2倍以上と予測 対策は」(関西NHK 2月3日)
同性婚「見るのも嫌だ」発言の荒井秘書官 岸田首相が更迭検討〟(NHK)
認めたら国を捨てる人が出てくる」そうですが、行先はロシアだろうなぁ
同性愛など規制強化 「非伝統的」NG、文学も対象―ロシア〟(時事ドットコム 2022年11月24日)

織田信長や家康、芭蕉などの物語や俳句などを読むのも嫌なんだろう。

信長も!家康も!芭蕉も!ニッポンのBLの歴史は奥が深いぞ!」(Aimu Ishimaru 和楽web)

徒然草の第九十段の現代語訳を転記しますが、どのように解釈しますか?
第90段
 大納言法印の召し使っていた乙鶴丸が、やすら殿どいう者と交際して、いつも行ったり来たりしていたが、例によってあるとき出かけていって帰ってきたので、法印が、「どこへ行ってきたのか」とたずねると、「やすら殿のお宅に伺っていました」という。
「そのやすら殿は、俗人か、それとも坊さんか」と、たたみかけてたずねられたので、乙鶴丸、袖(そで)をかき合わせてかしこまった様子で、「さあ、どうでございましたかしら。実は頭を見ておりませんので」と返事を申しあげた。
 頭だけが見えなかったなどということが、どうして、あったことか。
(『徒然草』今泉忠義訳注 角川文庫 昭和32年改訂)
 節分・立春と正月

 現行の太陽暦は、原理的には冬至正月であり、立春は2月に訪れる。
明治5(1872)年まで公式に採用されていた太陰太陽暦、いわゆる旧暦は立春正月であったから、立春は年頭ないしは年の暮(だいたい元日を中心として前後それぞれ半月の間)に当たった。
太陰太陽暦においては、大正月および小正月は月の朔望(さくぼう)という太陰暦的要素にもとづく年頭、立春は黄道上の太陽の位置という太陽暦的要素にもとづく年の初めとう性格をもっていたことになる。
このため、節分を年取り、年越し、大年、年の夜などと呼ぶ地方が少なくない。
また、ある地方で節分に行われる行事が、ほかの地方では大晦日や六日年越し・十四日年越し(小正月の晩)の行事となっていることもあるのは、旧暦においては大晦日・元旦と節分・立春が接近していたからである(約30年に一度は同日になることもあった)。
(すす)払いの日や大晦日に豆撒(ま)きをする例は東北地方をはじめ各地に少なくないし、小正月に行われことの多い成木責(なりきぜ)めやもぐら打ちを節分に行う地方もある。
(『三省堂 年中行事事典(旧版)』田中宣一、宮田登 編 三省堂 1999年)
 2月4日 建保2年(1214.3.16) 栄西(えいさい)、病の源実朝(みなもとのさねとも)に茶を進め、『喫茶養生記(きっさようじょうき)』を献じる(吾妻鏡)。
(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)

病名は、何かなと検索すると
栄西と『喫茶養生記』(「*栄西と茶」 11/48)」(静岡県茶業会議所)に、
「将軍源実朝が二日酔いで苦しんでいるときに、栄西は茶一盞(さん)と茶徳を述べる書を献じたという。その書が『喫茶養生記』とされる。」
 Ⅲ 仏教の革命
 栄西 禅の大祖師にして茶道の祖


 栄西は日本の臨済宗の開祖である。
曹洞宗の開祖の道元も初めは栄西が開いた建仁寺(けんにんじ)に学び、彼の弟子といってもよい。
その後、臨済宗、曹洞宗とも大いに発展したことを考えると、栄西はすべての禅宗の各宗派から総祖師として崇拝されてしかるべきだと思われるが、栄西を祖師として尊崇するのは、彼が創始した鎌倉の寿福寺(じゅふくじ)及び京都の建仁寺を本山とする寺などにかぎられ、他の禅寺には彼の頂相(ちんぞう<肖像>)すらない。
(『梅原猛、日本仏教をゆく』梅原猛 朝日文庫 2009年)
 禅は師から弟子への相伝(そうでん)の血脈(けちみゃく)を大事にするが、栄西が禅を相伝した師は、臨済宗黄龍派(おうりゅうは)の虚菴懐敞(きあんえしょう)であった。
であった。
宋において臨済宗は慈明楚円(じみょうそえん)の後に黄龍派と楊岐(ようぎ)派に分かれる。
栄西以後、日本に渡った臨済禅はほとんどすべて楊岐派系統の禅であるので、まったく血脈の異なる曹洞宗はもちろん、黄龍派に属する他の臨済宗の各本山も栄西にほとんど敬意を払わない。
 そればかりではない。
栄西には古くから悪評がある。
天台座主(てんだいざす)を四度務めた当時の宗教界の大ボスである慈円(じえん)の、著者名を伏せた著書『愚管抄(ぐかんしょう)』に、「其時葉上僧正(ようじょうぞうじょう)ニナラントシテ申シテ、カネテ法印ニハナサレタリケル、僧正ニ成(なり)ニケリ、院ハ御後悔アリテ、アルマジキ事シタリトオホセラレケリ、大師号ナンド云サマアシキ事サタアリケルハ、慈円僧正申トドメテケリ」とある。
栄西が落雷で焼失した法勝寺(ほっしょうじ)の九重の塔の再建に努力し、塔が無事再建されたときに、大師(だいし)号を賜(たまわ)りたいと後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)に頼んだことを、慈円は非難しているのである。
 栄西は後鳥羽上皇に取り入り、前に伝燈大法師(でんとうだいほうし)や法印(ほういん)という位を賜ったが、今またあつかましく大師号を賜りたいという。
大師号は、多くの学徳ある祖師すら死後に賜るものであるという理由でだめになったと伝えられるが、この『愚管抄』を読むと、上皇は大師号を与えてもよいというご意向であったのに、他ならぬ慈円自身の反対によってだめになったものであることを彼自らが暴露しているのである。
しかも慈円は栄西が僧としての最高の位である僧正(そうじょう)という位を得たことを悔しそうに語る。
 慈円は、同時代の傑僧として多くの人々に厚く崇拝される僧たちに強い嫉妬をもっていたようで、栄西のみならず法然についてもくそみそに語っている。
しかしこの『愚管抄』に書かれた栄西に対する悪口は末の世にも影響を与え、いまだに栄西はこのような悪評から解放されていないかにみえる。
 栄西は1141年(保延<ほうえん>7)、備中(びっちゅう)すなわち今の岡山県にある吉備津(きびつ)神社の神官の子として生まれた。
8歳にして出家を志し、13歳にして叡山(えいざん)に上り、翌年受戒(じゅかい)し、栄西と称した。
栄西の頂相をみると、頭はまことに長く大きく、そのてっぺんは平らであり、しかも背は甚だ低い。
四頭身か五頭身であるといってよかろう。
おそらく人はこのような栄西をひと目みたら忘れなかったであろう。
栄西の心の中には肉体に関する深いコンプレックスがあったのではないかと思う。
 しかし彼は頭脳甚だ鋭敏にして意志強く、叡山に上っても学業と修業において頭角を現し、天台座主、明雲(みょううん)の愛顧を得てたらしい。
そして彼は28歳のとき、博多の商人などの援助により入宋(にっそう)し、約半年滞在して仏教を学んだ。
彼はこの入宋を成尋阿闍梨(じょうじんあじゃり)の入宋より78年目、あるいは三河入道寂照(みかわにゅうどうじゃくしょう)のそれより149年目のことであると自慢している。
 しかし彼の庇護(ひご)者、明雲は平家に近づきすぎたために源氏の御世(みよ)になると座主の職を失い、いったん復活したものの、ついには現役の座主としてまことに異例な殺害による最期を遂げた。
栄西は庇護者を失っても後鳥羽天皇に近づき、神泉苑(しんせんえん)で祈雨に成功して、葉上の号と紫衣(しえ)を賜った。
 そして1187年(文治<ぶんじ>3)、47歳のときに再び入宋し、インドに赴(おもむ)こうとしたが行けず、やむなく足かけ5年、宋に滞在し、禅を学んで帰国した。
帰国した当座は、九州を中心に活躍するが、やがて京都に出て、後鳥羽上皇に近づき、禅宗を新しい仏教宗派として認めてほしいと、『興禅護国論(こうぜんごこくろん)』という書物を書いて請願する。
時に栄西58歳であった。
しかしその請願が認められないと知るや一転して鎌倉に飛び、後の将軍源頼家(みなもとのよりいえ)とその母、北条政子(ほうじょうまさこ)に取り入り、ついに鎌倉に寿福寺を、さらに将軍頼家の援助により京都に建仁寺を創立し、建仁寺を天台、密教、禅宗の三宗の仏教を学ぶ寺とする。
…つづく…
(『梅原猛、日本仏教をゆく』梅原猛 朝日文庫 2009年)

追記)
訪問している方のブログに「立春の卵」とあったので検索すると
わずか15分間で6個の卵を立てた児童もいたそうです(゚д゚)!