2023年2月15日水曜日

雪が降ってきた

 気象予報士の近藤奈央さんが北よりの風が強い状態で気温があまり上がらない
今日のポイントは「広く厳しい寒さ」だと話していました。
公園に着くと昨日の雪かな?少し、残っていました。
歩いている途中で雪がチラチラ降ってきました。

奈良 興福寺で釈迦の遺徳をしのぶ「涅槃会」〟(奈良NHK)
昨日の朝ドラ「舞いあがれ!」について俵万智さんのTwitter

リュー北條、今日はいい仕事した!
編集者の無茶ぶりで、殻をやぶれることはある。
啐啄
(そったく)という語を思う。
相聞歌が生まれたら、読解力のある史子に真っ先に(舞のことと)気づいてほしい 笑
 #舞いあがれ

そったく【啐啄】(「啐」は鶏の卵がかえる時、殻の中で雛がつつく音、「啄」は母鶏が殻を外からつつき破ること)
①〔仏〕啐啄同時に同じ。
②逃(のが)したらまたと得がたい好機。
そったくどうじ【啐啄同時】〔仏〕禅宗で、師家(しけ)と弟子とのはたらきが合致すること。
(『広辞苑 第六版』岩波書店 2008年)

リュー北條が秋月史子に
自分好みのきれいな短歌だけ書いててほしいんでしょ。
美しいソプラノを聞きたいがために少年の成長を止めるような残酷さを感じるね

と反論するのを見て、ドラマの展開に「#○○反省会」なんて呟く人たちのことが浮んだ。
昔、ボブ・ディランがフォークギターからエレキギターに持ち替えたときに
ファンから大ブーイングが起きたことがありました。
例えば、「3. ボブ・ディラン~政治と音楽~

はんせい【反省】
自分の今までの言動・あり方について、可否を考えてみること。
(『新明解国語辞典<第四版>』山田忠雄〔主幹〕他編著 三省堂 1997年 )

古い辞書なので、今では、「反省」という言葉の意味が変わったのかな?
100分de名著、「いのちの初夜」北條民雄のテキストに

 *ハンセン病

らい菌という細菌に感染することで起こる感染症。
かつては「らい(癩)病」と呼ばれていたが、差別的なニュアンスを含むことから、らい菌を発見したノルウェーの医師アルマウェル・ハンセンにちなんでハンセン病と呼ぶようになった。
らい菌は感染力が極めて弱く、感染してもハンセン病を発症することはまれで、発症しても急激に進行することはない。
初期症状は皮疹と呼ばれる皮膚の病変と末梢神経が侵されることによる知覚麻痺で、進行すると手足や顔などに運動障害や変形が生じる。
そうした外見上の特徴や感染への恐怖から、この病気の患者は誤解にもとづく偏見や差別を長きにわたって受けてきた。
以前は治療法が確立されていなかったが、1943年にアメリカで治療薬が開発され、現在は薬による治療で完治する。
なお、本書では、原著の表現を尊重して、引用箇所については「癩(病)」という表現を用いている。
(「100分de名著 北條民雄『いのちの初夜』」中江有里 NHK出版 2023年)
  臨終記  東條耿一(とうじょうこういち)

 彼が昭和12年9月の末、胃腸を壊して今年二度目の重病室入りをして以来、ずっと危険な状態が続いて来たが、こんなに早く死ぬとは思わなかった。
受持の医師が、私に、北條さんはもう二度と立てないかも知れません。
と云われたのは彼が死ぬ二十日ばかり前の事であった。
私はその時はじめてそんなに重態なのか、とびっくりするほど迂闊(うかつ)に彼に接していたのである。
来る春まではまあむずかしいにしても、正月ぐらいは持越すものと信じていた。
それほど彼は元気で日々を送り迎えていたのである。
彼にしても、こんなに早く死が訪れようとは思わなかったに違いない。
もっとも死期の迫りつつあることは意識していたらしく、その頃の日記にも、

 「こう体を悪くしたのも、元を質(ただ)せば自ら招けるものなり。あきらめよわが心。
  けれど、こう体が痩せてはなんだか無気味だ。ふと、このまま病室で死んでしまうような気がする。」
(『北條民雄集』田中裕編 岩波文庫 2022年)
 また重態の日々が続いた後であろう、苦悶(くもん)の様が書かれている。

 「しみじみと思う。怖ろしい病気に憑(つ)かれしものかな、と。
  慟哭(どうこく)したし。
  泣き叫びたし。
  この心如何(いか)にせん。」

 その頃が最も苦しかったらしく、また、死との闘争も激しかったように見受けられた。
私にも、おれはまだ死にたくない、どうしても書かなければならないものがあるんだ。
もう一度恢復(かいふく)したい。
と悲痛な面持で云った事もあった。
彼は腸結核で死んだのである。
 彼は最後の一瞬まで、哀れなほど実に意識がはっきりしていた。
文字通り骨と皮ばかりに痩せてはいたが、なかなか元気で、便所へなども、死の直前まで歩いて行ったほどである。
その辛抱強さ、意志の強靭さは驚くばかりであった。
それでも死ぬ三、四日前には、起上るにも寝返りするにも、流石(さすが)に苦痛を覚えたらしく、私が抱起してやるとほっとしたように、そうしてくれると助かるなあ、と嬉しげであった。
寝台が粗末で狭いので、痩せこけている背中のあたりが悪く、剰(あまつ)さえ蒲団(ふとん)が両脇に垂れ下がり、病み疲れた体にはその重量がいたく感じるらしく、よく蒲団が重いなあ……と苦しげに呟(つぶや)いた。
私が蒲団を吊(つ)ってやろう、と云うと、彼は俄(にわ)かに不機嫌になって、ほっといてくれ、君、ここは施療院だぜ。
施療院の、おれは施療患者だからな。
出来るだけ忍ばにゃならんよ。
それに蒲団を吊ると重病人臭くていかん。
と怒ったように云うのであった。
平素の彼が、全く我儘(わがまま)無軌道ときているので、こんな時、思いがけなく彼の真の姿に触れ、たじたじとさせられる事がよくあった。
 来る日も来る日も重湯(おもゆ)と牛乳を少量、それも飲んだり飲まなかったりなので、体は日増しに衰弱する一方であった。
食べる物とては他に何も無いのであった。
流動物以外の物をちょっとでも食べようものなら、直(ただ)ちに激しい痛みを覚え、下痢をするらしかった。
彼はよく、おれは今何もいらん。
ただ麦飯を二杯ずつ食いたい、そのようになりたい、と云った。
創元社の小林さんからの見舞品も、ほとんど手をつけなかった。
もっとも、これはおれの全快祝いに使うんだ、と云って、わざわざ私に蔵(しま)わせておいたのである。
 それらの品々は悲しくも、お通夜の日、舎の人達や私達友人の淋しい茶菓となった。
彼はまた口癖(くちぐせ)のように、こん度元気になったら附添夫を少しやろう。
あれはなかなか体にいい、やっぱり運動しなけりゃ駄目だ。
まず健康、小説を書くのは然(しか)る後だ、と云って、よくなってからの色々のプランを立てていた。
そんな時の彼は恢復する日を只管(ひたすら)待ち侘(わ)びていたらしく、また必ず恢復するものと信じていたようであった。
小説はかなり書きたいようだった。
君、代筆すてくれ。と云ったり、ああ小説が書きたいなあ……と悲しげに呟く事などもあった。
じっと寝たなりで居るので色々な想念が雲のように湧いて来るのであろう、おれは今素晴らしい事を考えていた。
世界文学史上未だかつて誰も考えた事もなく、書いた者もない小説のテーマなんだと確信ありげに云う事もあった。
 病気によいという事はたいていやってみていたらしいが、たいして効果は無かったようだった。
時には変った療法を教えたりする人があると、真向(まっこう)から、そんなものは糞にもならん、あれがいいこれがいいと云うものはすべてやってみたが、却(かえ)っておれは悪くした。
結局、病人は医者にいのちを委(まか)せるより他ないんだ、と喰って掛る事もあった。
 死ぬ二、三日前には、心もずっと平静になり私などの測り知れない高遠な世界に遊んでいるように思われた。
おれは死など恐れはしない。
もう準備は出来た。
ただおれが書かなければならないものを残す事で心残りだ。
だがそれも愚痴かも知れん、と云ったのもその頃である。
底光りのする眼をじっと何者かに集中させ、げっそり落ちこんだ頰に小暗い影を宿して静かに仰臥(ぎょうが)している彼の姿は、何かいたいたしいものと、ある不思議な澄んだ力を私に感じさせた。
私は時折り彼の顔を覗(のぞ)き込むようにして、いま何を考えている?と訊(たず)ねると何も考えていない、と答える。
何か読んでやろうかと訊(き)くと、いや何も聞きたくない、と云う。
静かな気持を壊されたくないのであろう。
 彼の死ぬ前の日。
私は医師に頼んで、彼の隣寝台を開けて貰(もら)った。
夜もずっと宿って何かと用事を足してやるためであった。
私が、こん晩から此処(ここ)へ寝るからな、と云うと、そうか、済まんな、とただ一言。
後はまた静かに仰向(あおむ)いていた。
補助寝台を開けると、たいていの病人が、急に力を落したり、極度に厭(いや)な顔を見せたりするのであるが、彼は既に、自分の死を予期していたのか、目の色一つ動かさなかった。
その夜の二時頃(十二月五日の暁前)看護疲れに不覚にも眠ってしまった私は、不図(ふと)私を呼ぶ彼の声にびっくりして飛起きた。
彼は痩せた両手に枕を高く差し上げ、頻(しき)りに打返しては眺めていた。
何だかひどく昂奮しているようであった。
どうしたと覗き込むと体が痛いから、少し揉(も)んでくれないか。と云う。
早速背中から腰の辺を揉んでやると、いつもはちょっと触っても痛いと云うのに、その晩に限って、もっと強く、もっと強くと云う。
どうしたのかと不思議に思っていると、彼は血色のいい顔をして、眼はきらきらと輝いていた。
こんな晩は素晴らしく力が湧いて来る、何処(どこ)からこんな力が出るのか分らない。
手足がぴんぴん跳(は)ね上る。
君、原稿を書いてくれ。と云うのである。
いつもの彼とは容子が違う。
それが死の前の最後に燃え上がった生命の力であるとは私は気がつかなかった。
おれは恢復する、おれは恢復する、断じて恢復する。
それが彼の最後の言葉であった。
私は周章(あわ)てふためいて、友人達に急を告げる一方、医局への長い廊下を走りながら、何者とも知れぬものに対して激しい怒りを覚えバカ、バカ、死ぬんじゃない、死ぬんじゃない、と呟いていた。
涙が無性(むしょう)に頰を伝っていた。
 こうして彼が何の苦しみもなく、安らかに息を引き取ったのは、夜もほのぼのと明けかかった午前五時三十五分であった。
もはや動かない瞼(まぶた)を静かに閉じ、最後の訣別を済ますと、急に突刺すような寒気が身に沁みた。
彼の死顔は実に美しかった。
彼の冷たくなった死顔を凝視(みつ)めて、私は何か知らほっとしたものを感じた。
その房々として頭髪を撫(な)でながら、小さく北條北條と呟くと、清浄なものが胸元をぐっと突上げ、眼頭が次第に曇って来た。
 彼が死んではや二週間、その間お通夜、骨上げ、追悼と、慌(あわただ)しい中に過ぎ、いま彼の遺稿の整理をしながら、幾多の長篇の腹案に触れ、もうあとせめて五、六年、私の生命と取替えてでも彼を生かしてやりたかった、としみじみとした思いがした。
残り尠(すく)ない彼の日記を読んでいるうちに、ふと次の詩のような一章が眼についた。
彼のぼうぼうとした寂寥(せきりょう)と孤独、その苦悩の様がほぼ窺(うかが)われるような気がするので、此処に引用する事を許して戴き、心から彼の冥福を祈りたい。

  粗い壁
  壁に鼻ぶちつけて
  深夜、
  虻(あぶ)が羽ばたいてゐる。
          (昭和十二年十二月記)
略年譜より

 昭和12(1937)年 12月5日 23歳
午前5時35分、逝去。死因は、腸結核・肺結核。
川端康成が来院、遺体と対面した。
葬儀は、生前の本人の遺言に従い、院内の信徒によってカトリック式で執り行われた。
「いのちの初夜」を高く評価していた主任司祭のコッサール神父は、(本名で通知されたため、北條民雄であることに気づかず)葬儀の司式ができなかったことを非常に悔やんだと伝えられている。
遺骨は、一部は病院内の納骨堂に納め、一部は父が持ち帰り、郷里の墓域に埋葬された。
(『北條民雄集』田中裕編 岩波文庫 2022年)
今朝の父の一枚です(^^)/
もうじき、旅立つのだろうなぁ!

 渡る鳥、渡らない鳥

 鶏の多くは空を飛んで移動します。
鳥が季節とともに移動したり、決まった場所を周期的に行ったり来たりするようになったのも、一つは飛べるからです。
 1年を通じて同じ場所に住み続けられる、生息環境に恵まれた鳥もいますが、生き抜くには厳しい季節がめぐってくる場所に住んでいる鳥は、一時期、違う場所に移動しなければなりません。
鳥の移動パターンは、ざっと次のようになります。

1.留鳥(りゅうちょう):繁殖期や越冬期も含め、一年中同じ場所にいる鳥。
いわば地元民。

2.渡り鳥:繁殖地と越冬地を、毎年行き来する鳥。
初夏の繁殖期に現れる渡り鳥を「夏鳥」、繁殖期ではない秋と冬に現れる渡り鳥を「冬鳥」という。
つまり、同じ鳥でも繁殖地に住む人にとっては夏鳥、越冬地に住む人にとっては冬鳥になる。
移動中は体力を消耗するので、渡り鳥は通常、中継地で休憩して食べ物を補給する。
そこに住む人にとって、こうした渡り鳥は「旅鳥」に当たる。

3.迷鳥(めいちょう):天候など何らかの理由で、渡りの経路から外れてしまった鳥。
(『鳥類学が教えてくれる「鳥」の秘密事典』陳湘靜・林大利著、 牧髙光里訳、今泉忠明監修 SBクリエイティブ 2023年)