2023年2月11日土曜日

建国記念の日

公園に着いたときは曇り空でしたが、次第に青空になりました。
アセビ(馬酔木)の白い花が咲いていました。
急に気温が上がると体調管理が難しいです。

関東甲信 気温上がり急速に雪どけ進む 山沿いでなだれに注意」(NHK)
今日は、「建国記念の日」。
父の時代は「紀元節」。
昭和15年(1940)11月10日~14日に行なわれたのが紀元2600年祝賀行事。

紀元二千六百年 奉祝会」(NHKアーカイブス 1940年)
紀元二千六百年
 そのころの東京は、まだ「市」であった。
 市内には路面電車、いわゆるチンチン電車(警笛のかわりに足踏み式の打鈴を鳴らしたため、この名称で親しまれた)が縦横に走り、市内全域が片道7銭均一、無公害で便利で安い市民の足であった。
(『戦中用語集』三國一朗 岩波新書 1985年)
 その市電が、時ならぬお化粧をこらす日がくる。
昭和15年11月10日、「紀元二千六百年」奉祝の「東京市電花電車」の出番であった。
 造花でびっしり飾りつけられた特設車体のここかしこに、「奉祝」だの、「天壌無窮(てんじょうむきゅう)」(天地の存在する限り、日本の皇室が長く繁栄しつづけること)だのと<飾り文字>がとりつけられ、運転士も、いつもとは勝手のちがう照れくささと晴れがましさの混合した表情で、ゆっくり軌道を走らせる。
市民の歓声の中を、である。
 午前11時。
東京の宮城前広場には、正面に「萬歳(ばんざい)」の額をかかげた式殿が特設され、国内国外からの招待者約5万人が参集する中を、ラウンドスピーカーが天皇・皇后の「出御(しゅつぎょ)」を告げる。
ただし、お二方の出番はレディース・ファーストで、まず皇族妃のグループをしたがえた皇后が厚生大臣(金光康夫)の先導で、つづいて各皇族を率いた天皇が、総理大臣(近衛文麿)の先導で式殿中央の玉座、御座につく。
総理の会式奏上、全員の「君が代」斉唱……。
 首相近衛は、天皇・皇后の前に立って「寿詞(よごと)」を読み上げるが、まず国のはじめ(神武天皇即位)以来、「一系連綿正(まさ)に紀元二千六百年」を迎えたと謳い上げ、比類のない日本の<国体>を讃える。
いま日本の使命は、「東亜の安定」と「世界の平和」だと言い切る。
そして、「非常の時艱(じかん)を克服し八紘一宇の皇謨(こうぼ)を翼賛して」限りなく「宏」く「大」きな「聖恩」(皇室、天皇の恩)にむくいるのが全国民の覚悟であると、声をはげまして宣言した。
近衛は、またそのすこしあとで、「天皇陛下万歳」の唱和の音頭をとる。
 この年、私は名古屋の旧制八高の3年生だったが、校長や教師の何人かがこの式典に参列して帰り、それぞれ授業のはじめに土産ばなしをきかせたことを記憶している。
一人の例外もなく、彼等は晴れがましさを忘れかねる、という表情であった。
 太平洋戦争がはじまるのは、この祝典の1年と1か月あとのことである。
このとき、式場に居並ぶ諸外国の使臣を代表して「祝詞」を奏上したアメリカ大使はジョセフ・グルーだったが、次の年の日米開戦を、彼は予想していたか。
当然していただろう。
 近衛文麿の「寿詞」にあった「東亜ノ安定」と「世界ノ平和」も、まさに累卵(るいらん)の危きにあった。
 昭和15年が、本当に紀元2600年か。
いわゆる「紀年論争」には長い経緯があり、東洋史学の那珂通世(なかみちよ)の「日本上古年代考」(1888年)以来、いくつもの仮説が出されたが、一般に紀年が実年代よりかなり延長されているという点では一致していて、戦後は、中国から入った当時の暦法の内容に研究が集中している。
(『戦中用語集』三國一朗 岩波新書 1985年)
神武天皇
 橿原即位

 辛酉(かのとり)の年春一月一日、天皇は橿原宮(かしはらのみや)にご即位になった。
この年を天皇の元年とする。
正妃を尊んで皇后とされた。
皇子神八井命(かむやいのみこと)、神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)を生まれた。
だから古語にも、これを称して次のようにいう。
「畝傍(うねび)の橿原(かしはら)に、御殿の柱を大地の底の岩にしっかりと立てて、高天原に千木高く聳(そび)え、始めて天下を治められた天皇」と申し、名づけて神日本磐余彦火火出見天皇(かむやまといわれびこほほでみのすめらみこと)という。
初めて天皇が国政をはじめられる日に、大伴(おおとも)氏の先祖の道臣命が、大来目部を率いて密命を受け、よく諷歌(そえうた<他のことになぞらえてさとす歌>)、倒語(さかしまごと<相手に分らせず味方にだけ通じるよう定めていう言葉)をもって、わざわいを払いのぞいた。
倒語の用いられのはここに始まった。
(『日本書紀(上)』宇治谷孟訳 講談社学術文庫 1988年)
紀元2600年行事が行われた1940年、世界に目を向けると

1940(昭和15)年
 8月20日 
 レフ・トロツキー、亡命先のメキシコの自宅で暗殺される。
この暗殺は、スターリンの指示で行われた仕業だった。
通称「ジャクソン」、この暗殺者の正体は、スペイン共産党員カリダト・メルカデルの息子のラモンという説が有力だが、公式にはいまだわかっていない。
ジャクソンは、アメリカのトロツキスト、シルヴィア・エイジロフを通じて、トロツキー家に近づいた。
暗殺の一ヵ月ほど前にも、トロツキーの自宅は銃撃されていた。
アメリカのトロツキストたちが安全のために、アメリカへの移住を勧めたが、トロツキーは聞き入れなかった。
彼は、KGBの追及をこそこそとのがれることを欲しなかったのだ。
20日の夕刻、トロツキーは書斎でジャクソンのピッケルの一撃によって倒された。
(『年表で読む二十世紀思想史』矢代梓 講談社 1999年)

ロシアでは、プーチン大統領に反対する者は、
「プーチンはヒトラーより恐ろしい人間になる」……〟(東京新聞 2022年6月11日)