2023年2月1日水曜日

2月になって

昨日よりも気温が高くなるようですが
曇っていたので昨日よりも寒く感じました。
歩いているうちに陽ざしが届くようになり暖かくなりました。
でも、東北や北海道では

東北や北海道中心に今夜からあす2日にかけ天気大荒れのおそれ」(NHK)
  梅花(ばいか)は雨に 柳絮(りゅうじょ)は風に 世はただ嘘(うそ)に揉(も)まるる

 梅の花は雨に、柳の綿毛は風に、人の世はただ嘘に揉まれます。

柳絮 柳の綿毛。「柳花ハ即チ柳絮ナリ」(節用集大全)、「柳絮ハ楊花也」(中華若木詩抄・下)、「風吹柳絮毛毬走 雨打梨花蛺蝶飛」(禅林句集・十四字)。
ただ 中世小歌に頻繁に用いられる強意の副詞。
 「迂疎(ウソ) 虚言」(温故知新書)。「ウソヲユウベカラズ、サケヲノムベカラズ」(ロドリゲス日本大文典)。『朝倉宗滴話記』には「武者を心掛くる者は、第一にうそをつかぬ物なり」。
(『閑吟集』 真鍋昌弘校注 岩波文庫 2023年)
▼9番の「嘘(きょ)」(「只吟可臥梅花月 成仏生天惣是虚」)を受けて、「嘘(うそ)」へ。
大道芸放下歌謡で、民衆にもなじみの「揉まるる物尽し」の型で歌う。
「雨に」「風に」の下には「揉まるる」を省略して、最後に「嘘に揉まるる」と置いて、今の世のすべての「嘘」を突いた。
世の実体は嘘であると見抜いた。
これは、日本歌謡史上においても、意識しておいてよい。
なお閑吟集成立後、中世小歌圏歌謡集としては、宗安、隆達があるが、「嘘」を歌う小歌はそこには認められない。
(『閑吟集』 真鍋昌弘校注 岩波文庫 2023年)
 第十章 子どもの楽園

…前略…

 「日本ほど子供の喜ぶ物を売るおもちゃ屋や縁日の多い国はない」とグリフィスは言う。
だが、彼があげる大道芸やのぞき眼鏡や講釈やしんこ細工や見世物は、子どもだけでなく大人も楽しんだのである。
それを見る大人たちはたいてい口をあけていると、オールコックが書いている。
スエンソンによれば「日本のおもちゃ屋は品数が豊富で、ニュールンベルクのおもちゃ屋にもひけをとらない。みな単純なおもちゃだが、どれもこれも巧みな発明が仕掛けてあって、大人でさえ何時間も楽しむことができる」。
ヒューブナーも言う。
「玩具を売っている店には感嘆した。たかが子供を楽しませるのに、どうしてこんなに知恵や創意工夫、美的感覚、知識を費やすのだろう、子供にはこういう小さな傑作を評価する能力もないのに、と思ったほどだ。聞いてみると答えはごく簡単だった。この国では、暇なときはみんな子供のように遊んで楽しむのだという。私は祖父、父、息子の三世代が凧を揚げるのに夢中になっているのを見た」。
(『逝きし世の面影』渡辺京二 平凡社ライブラリー 2005年)
 フォーチュンも「あらゆる種類の玩具が豊富に揃っていて、中にはまことにうまく出来ていて美しいのがある」のに感心した。
「おもちゃの商売がこんなに繁昌していることから、日本人がどんなに子どもを好いているかがわかる」。
オズボーンの見るところも彼とひとしい。
これは川崎大師へ遠乗りした時の品川郊外での見聞である。
「道に群れている沢山の歩行者の中に、市場から家路を急ぐ農夫たちの姿があった。大都会で何か買物したものを抱えているのだが、この気のいい連中のうち、子どものおもちゃを手にしていないものはごく稀であることに目がひかれた。おもちゃ屋がずい分多いことにすでにわれわれは気づいていた。こういったことは、この心のあたたかい国民が、社会の幼いメンバーにいかにたっぷりと愛を注いでいるかということの証拠だろう」。
子ども遊びの問題を研究すれば、「日本人が非常に愛情の深い父であり母であり、また非常におとなしくて無邪気な子供を持っていることに、他の何よりも大いに尊敬したくなってくる」とグリフィスは言う。
そしてモースもまた述べる。
「日本人は確かに児童問題を解決している。日本の子供ほど行儀がよくて親切な子供はいない。また、日本人の母親ほど辛抱強く愛情に富み、子供につくす母親はいない」。
 グリフィスは横浜に上陸して初めて日本の子どもを見たとき、「何とかわいい子供。まるまると肥え、ばら色の肌、きらきらした眼」という感想を持った。
またスエンソンは「どの子もみんな健康そのもの、生命力、生きる喜びに輝いており、魅せられるほど愛らしく、仔犬と同様、日本人の成長をこの段階で止められないのが惜しまれる」と感じた。
彼らが「幸せに育っているのはすぐに分かっ」た。
「子供は大勢いるが、明るく朗らかで、色とりどりの着物を着て、まるで花束をふりまいたようだ。……彼らと親しくなると、とても魅力的で、長所ばかりで欠点がほとんどないのに気づく」というのはパーマ―である。
母親とおなじ振袖の着物を着てよちよち歩きをしている子どもほど、「ものやわらかでかわいらしいものはない」とシッドモアは言う。
日本についてすこぶる辛口を書いたムンツィンガーも「私は日本人など嫌いなヨーロッパ人を沢山知っている。しかし日本の子供たちに魅了されない西洋人はいない」と言っている。
チェンバレンの意見では、「日本人の生活の絵のような美しさを大いに増している」のは「子供たちのかわいらしい行儀作法と、子供たちの元気な遊戯」だった。
日本の「赤ん坊は普通とても善良なので、日本を天国にするために、大人を助けているほどである」。
モラエスによると、日本の子どもは「世界で一等可愛いい子供」だった。
 かつてこの国の子どもが、このようなかわいさで輝いていたというのは、なにか今日の私たちの胸を熱くさせる事実だ。
モースは東京郊外でも、鹿児島や京都でも、学校帰りの子どもからしばしばお辞儀され、道を譲られたと言っている。
モースの家の料理番の女の子とその遊び仲間に、彼が土瓶と茶碗をあてがうと、彼らはお茶をつぎ合って、まるで貴婦人のようなお辞儀を交換した。
「彼らはせいぜい九つか十で、衣服は貧しく、屋敷の召使の子供なのである」。
彼はこの女の子らを二人連れて、本郷通りの夜市を散歩したことがあった。
十銭ずつ与えてどんな風に使うか見ていると、その子らは「地面に坐って悲しげに三味線を弾いている貧しい女、すなわち乞食」の前におかれた笊に、モースが何も言わぬのに、それぞれ一銭ずつ落し入れたのである。
この礼節と慈悲心あるかわいい子どもたちは、いったいどこへ消えたのであろう。
 しかしそれは、この子たちを心から可愛がり、この子たちをそのような子に育てた親たちがどこへ消えたのかと問うこととおなじだ。
またバードが、日本人は「家は貧しいけれども、男たちは自分の家庭生活を楽しむ、とにもかくにも子どもが彼らをひきつけている。英国の労働者階級の家庭を往々にしてビアガーデンに変えてしまうような喧噪騒ぎや口答えは、従順と服従が揺り籠の時分から当然のこととして教えこまれているこの国では、見ることができないのだ」というふうに述べたこの国の家庭生活が、どこへ消えたのかと問うこととひとしい。
 欧米人の衆目を集めた子どものかわいさは、これまた彼らの感嘆の的となった親たちの愛情と照応していた。
そしてこの日本人の子どもへの異常ともみえる関心は、眼の色肌の色を異にする異邦の子どもたちにさえ向けられたのである。
…後略…
(『逝きし世の面影』渡辺京二 平凡社ライブラリー 2005年)

“ベビーカーたため”論争は続く 孤立する親 乗務員の本音は?」(NHK 1月19日)
今朝の父の一枚です(^^)/

羽の色の不思議

…前略…

 カワラヒワなどフィンチ類の黄色や赤色の多くは、カロテノイド色素による発色である。

 カロテノイドは抗酸化作用をもつ

 ここでカロテノイドが個体の免疫能力などを表す信号として機能することについてもふれたいと思います。
 カロテノイドは高い抗酸化作用をもつ物質です。
我々人間社会でも抗酸化は免疫能力と関係するゆえに、健康食品などのキーワードとして耳にするようになりました。
これは野生動物でも同様で、近年、免疫能力とカロテノイド発色の間には関連性があることがわかってきています。
(『日本野鳥の会のとっておきの野鳥の授業』日本野鳥の会編、上田 恵介監修、山と渓谷社 2021年)

カロテノイド」(厚生労働省)