2023年2月14日火曜日

チラチラ雪が…

公園に着くと西の空に黒い雲、風も冷たい
時々、日ざしがあたるとホッとしましたが、
駐車場に帰り着く頃、小雨かなと思ったけど雪が降り出した。
しばらくすると雪は、やんだけど、明日にかけて気温がさらに低いとのこと。
「ひこにゃん」にバレンタインのプレゼント チョコなど231個〟(NHK)

今日は、「聖ヴァレンタインの日」ですが、縁がなかったので(^^ゞ

2月14日 延長8年(930.3.16) 路辺の疫病者を施薬院・悲田院などに収容し、食料などを支給(扶桑略記)。
(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)

施薬院(せやくいん)・悲田院(ひでんいん)といえば思い浮かべるのが光明(こうみょう)皇后です。
第1部 病の記録
 四 光明皇后と施療


 施療は、あまねく人々を救えば、未来永劫においても疫病の苦しみにあうことがない」という仏典をよりどころにして行われる、仏教の中でもとりわけ重要な行事である。
有名な施療事業に、聖徳太子が難波(なにわ)の四天王寺に施薬院、療病院(りょうびょういん)、悲田院、敬田院(きょうでんいん)の四院を建てたという伝説がある。
施薬院はあまねく薬草を栽培して病人に薬を施す施設であり、療病院は身寄りのない病人を泊めて、療養させる施設であり、悲田院は困窮した独り者を住まわせ、飢えを救い、回復してからは四院の雑事に従事させるための施設であり、敬田院は戒律の道場で、道を広め、教え興す施設といわれる。
 しかし、太子が四院を建てた話は、それからかなり後になって書かれた『聖徳太子伝暦(でんりゃく)』『四天王寺御手印縁起』に出てくる話であり、本当に太子が四院を建てたのか否かは定かではない。
だが、この伝説は聖徳太子崇拝とともに後世に大きな影響を与えたのは事実である。
(『病が語る日本史』酒井シヅ 講談社学術文庫 2008年)
  1 興福寺の施薬院・悲田院

 それでは最初の施薬院はいつ、どこで建立されたのであろうか。
『扶桑略記(ふそうりゃっき)』によると、養老(ようろう)7年(723)に、興福寺(こうふくじ<当時の山階寺(やましなでら)>)に施薬・悲田の二院が建てられ、それをまかなう財源として封戸(ふご)五十戸、伊予(いよ)の水田百町、越前(えちぜん)の国の稲十三万束が与えられたのであった。
 施薬院が興福寺に設けられたのは、藤原不比等(ふじわらのふひと)の娘、光明皇后が関与したからであった。
興福寺はそもそも藤原鎌足(ふじわらのかまたり)の病気平癒を祈って山科(やましな)の邸に草創された、藤原氏の氏寺山階寺であったからである。
ちなみに山階寺は不比等によって、藤原京(ふじわらきょう)の厩坂(うまやさか)に移され、さらに平城(へいじょう)遷都のあと、興福寺として春日野(かすがの)の現在地に移建されたのであった。
 大宝律令(たいほうりつりょう)に続いて養老2年(718)に編纂(へんさん)された養老律令に、医療に関係する令(りょう)「医疾令(いしつりょう)」が定められた。
そこでは医学教育から国の医療行政にいたるさまざまなことが細かく定められた。
たとえば、宮中に内薬司を、宮中の外に典薬寮を置くことや、医療職や医学教育の方法を定めた。
地方の国々もこのときから国医師を置くことが決められたのであった。
しかし、医疾令で定めたとおりのことが行われていたか疑わしい。
また、実施されていたとしても、医疾令の定めだけで困窮した人々を救済することはできなかった。
それで窮民の救済を行う施薬院と悲田院が興福寺に設けられたのであった。
 興福寺には、天平宝字(てんぴょうほうじ)元年(757)12月8日に孝謙(こうけん)天皇から越前(えちぜん)国にある墾田(はりた)百町が布施された。
この布施にあたって天皇は、「疾病および貧乏に苦しむ人々をもれなく救済するために山階寺(興福寺)の施薬院に墾田百町を永久に布施する。この善行により、朕は他の一般の人々とともに、施しから生ずる幸いを未来にまで広め、仏の(本性と等しい力をもつ)薬樹をこのけがれの多い世界に茂らせ、そして病苦の悩みを永遠に滅ぼし、共に長寿の楽しみをもち、遂にまことの微妙深遠の真理を悟り、おのずから円満な理想の身になることを願うのである」(『続日本紀(しょくにほんぎ)』)と述べている。
 貧民を救済することで、この世に仏の薬樹を広め、理想の身になることを願っての布施であった。
 2 光明皇后と施薬院

 美貌(びぼう)の光明皇后は、華麗な天平文化の頂点に立ち、叡智(えいち)と厚い仏心で、歴代の皇后の中でひときわそびえ立つ存在であった。
施薬院も光明皇后によってはじめて本格的なものになっていくのである。
 光明皇后が立后した年に、光明皇后を世話する官職として皇后宮識(こうごうぐうしき)が内裏の東側にあった元藤原不比等の邸宅に新たに置かれた。
 天平2年(730)4月17日、光明皇后が立后した翌年、興福寺に次ぐ施薬院が皇后宮識の中に設けられた。
それに続いて、ほどなく都の東西に悲田院が設置された。
 施薬院には使(し)、判官(じょう)、主典(さかん)などの役人が置かれ、施薬院は本格的な活動を始めたのである。
その費用は皇后宮識から出たが、皇后宮識の封戸つまり収入は、令に定められた皇后の湯沐(とうもく)料二千戸と、皇后が父不比等から相続した封戸二千戸、合わせて四千戸であった。
小さな国の二、三ヵ国に匹敵する収入があったのである。
 医疾令の中で典薬寮の医・針の師が病家を巡り、治療することを定めているが、施薬院では毎年、諸国から各国の薬草を買い集めて、典薬寮の医師が薬嚢(やくのう)をもって洛中(らくちゅう)を廻り、窮民の病人に薬を与え、保養のかなわない病人を悲田院に収容したのである。
 光明皇后は施薬院だけでなく、さまざまな施療に携わったが、広く世に知られているのが浴室の話である。
それは戦前の小学校の教科書に、慈悲深い光明皇后の逸話として語られていた。
自ら千人の垢(あか)を洗うことを誓い、千人目になったとき、全身膿(うみ)で汚れた病者が現れた。
皇后は病者が求めるままに全身の膿を吸い、吸い終わったとき、病者は自ら阿閦仏(あしゅくぶつ)の化身であることを明らかにした。
そのとたんに室内は光明と馥郁(ふくいく)たる香りに満ち、姿は忽然(こつぜん)として消えてしまったという話である(前ページの図<省略>)。
 当時、浴室は湯室と呼ばれ、湯室を使うと、七つの病を除き、七つの福を得るといわれて、多くの寺院に設けられていたのである。
 光明皇后のらいの話の出典は、鎌倉時代に書かれた『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』である。
ここに慈悲深い仏心をもつ光明皇后の姿を伝える説話として語られたのであった。
 しかし、この説話は平安時代後半のころからすでに広まっていたともいわれる。
それで鎌倉時代に僧忍性(にんしょう)がこの故事にならって、伝説の地にならい病者のための長屋を建立した。
その遺業が後の世まで続き、その史跡がいま北山十八間戸(きたやまじゅうはっけんど)として同じ場所に建っている。
(『病が語る日本史』酒井シヅ 講談社学術文庫 2008年)

木曽街道六十九次之内 赤坂 光明皇后」(歌川国芳 文化遺産オンライン)

今月の100分de名著は「『いのちの初夜』北條民雄」です。
光明皇后の逸話を学んだり教えていた人たちが、ハンセン病の人たちを隔離し、尊厳を奪ってきた
今朝の父の一枚です(^^)/
父は、梅の花などに来るメジロを追い払うヒヨドリのことを嫌っているのですが…

 鵯(ひよどり)

○「渡りヒヨドリに戻りツグミ」の諺があるように、ヒヨドリは西南日本の温暖地で冬を越すが、この漂行について、ヒヨドリが多く渡って来るとカタシ(サザンカ)が多くなる(鹿児島県甑島<こしきじま>)、ヒヨドリはツバキの花を吸い始めると苦くなるが、これは遠く飛ぶために脂肪を抜くからだ(福岡県八女郡)などという。
ヒヨドリの漂行してくる時期がシイの実の熟する頃、またサヨリ漁の始まる頃なので、渡って来たヒヨドリに「ヒーヨ、ヒヨノシイの実落せ、サイラ(サヨリ)とれたらほったら」と子供たちは呼びかける(和歌山県西牟婁郡)。 
(『日本俗信辞典 動物編』鈴木棠三 角川ソフィア文庫 2021年)