2023年2月28日火曜日

にげて行く…

今日で、2月も終わり…
「1月は行(1)く 2月は逃(2)げる 3月は去(3)る―」(Eテレ0655

急に春が来たような陽気なんだけど…
スギ花粉飛散シーズン到来 東京など12都府県 過去10年で最多か」(NHK)
2009年2月28日に京都大原の金毘羅山に登りました(記事を書いたblogは、なくなりました)。
スギの木の下を通ると、目の前が、霞むほど花粉が降ってきました。
遠くを見ると、狼煙(のろし)のようにスギ花粉が舞いあがっていました。
花粉症なのにクシャミや鼻水は出なかったし、目もかゆくならなかったです。
生まれたての花粉は、発症させないけど、
空気中を漂ううちに、様々な有害物質が付着して発症させるのではないかな?
花粉症は、スギ花粉やヒノキ花粉が悪いのではない。
有害物質を空気中に排出した私たち。
花粉や黄砂は、平安の昔から「春霞(はるがすみ)」や「朧月夜(おぼろづきよ)」として親しまれていました。
春霞」(今井明子 暦生活 2020年4月15日)
2月28日 天正19年(1591.4.21) 千利休、豊臣秀吉の怒りにふれ自刃(70、茶湯大成者)(多聞院日記)。
『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)

以前「切腹」や「集団自決」がトレンドに入っていて何のことかと思いました。
優秀な学者さんのようですが、祖父母と暮らしたことのない核家族で成長された方なのでしょうか?
それは「比喩」だと弁護された方は、沖縄の人を揶揄する発信をされていました。
母は、沖縄で米軍による艦砲射撃や機銃掃射の中を逃げて生きのびてくれました。
もし、母が集団自決をしていたら私は、この世に生を受けることはなかった。
第4章 政治の知恵
 大愚のリーダーを求める気質と「原恩主義」
 「切腹」には責任回避という側面もある


 つまり、お願い文化は、無責任文化でもあるのだ。
 が、しかし。以上述べたことに対して、こう反論する読者もいることだろう。
日本には、「切腹」という重い責任の取り方があるではないか――、と。
「切腹」は、自らの責任を痛感したり、主君への忠誠を表したりするために行われる「自死」である。
日本の場合、これが社会的に容認されており、儀式化されている点、特異である。
しかも、歌舞伎等では、舞台でも演じられるので、「ハラキリ」という用語が世界中に広まっている。
いわば、責任を取る名誉の死だ。
(『教会と千歳飴 日本文化、知恵の想像力』上野誠 小学館 2021年)
 たしかに、「切腹」は重い責任の取り方ではあるけれど、それ以上の責任追及を回避できるという点も見逃してはならない。
日本には「死者に鞭(むち)打つな」「死ねば仏さま」という考え方があり、死者が責任を取るということはないからだ。
「切腹」には、もう一つ重要な側面がある。
それは、自分が死ぬことによって、親類、縁者への責任追及を軽くすることができ、将来において、子孫の名誉回復が図られる可能性を残すことができるという点である。
したがって、腹を切る側にも一つの打算があるということは、よく知られていた。
 朝鮮語圏や中国語圏の前近代の政治においては、反対勢力が皆殺しになったり、先祖を祀る廟や墓までも取り壊されて、辱めを受けることもあった。
ところが、島国の日本の場合は、地縁や血縁関係が複雑で、そういうことができにくい。
しかし、一方で、誰かが責任を取らなくてはならないこともある。
そういった場合、自分が「切腹」することによって、一族や党派を守ることができるのである。
切腹には、そういう側面もあるのである。
 不祥事などによる辞職も、同じである。
辞職することによって組織が守られれば、辞職した者の名誉になるからである。
ひょっとすると、高額の日本の退職金は、辞職者救済のためにあるのかもしれない。
もちろん、それは賃金の後払いではあるけれど。
 「切腹」と「自死」の危険な快感

 近代以降、人命尊重の思想が定着し、「切腹」は減ったが、なくなったわけではない。
なくならない理由の一つは、「切腹」には一種のヒーローイズムがあるからであろう。
つまり「切腹」によって命と引き換えに快感(カタルシス)が得られるからである。
 この快感は、入浴の垢(あか)落し、大小便の排泄、さらに射精で得られる快感に近いもので、責任を取る側が、反転してヒーロー(英雄)になってしまうのである。
だから、この上もない快感になってしまうのだ。
三島由紀夫(1925―1970)ですら、このヒーローイズムと快感にとりつかれてしまったのである。
 では、なぜ生きて、無罪を主張したり、贖罪(しょくざい)をしたりしないのだろうか。
それは、自分の命よりも、共同体や集団の利益を優先するからである。
日本型民主主義には、多数決がなく、それは誰も責任を取らない体制だと述べたが、誰かが責任を取る必要がある時には、その共同体や集団を温存する道を選ぶのである。
それを美談としてしまうから、「切腹」は、けっしてなくならないのである。
人命尊重の思想が普及して、「切腹」はなくなっても、まだ責任者の「自死」が残っている歴史的背景は、じつはここにあるのだ。
 そして、「切腹」と似た行為として、責任を取るための「辞職」をする人は、あとを絶たない。
その多くに人びとは、「これ以上、会社や学校に対して、ご迷惑をかけるわけにはいかない」という言葉を残すのを常とする。
共同体や集団の利益を私の利益に優先させることによって、それ以上の責任追及を逃れることができるからである。
さらには、うまくゆけば、英雄になれるかもしれないのだ。
 したがって、「切腹」は重い責任の取り方ではあるけれども、一方では究極の責任回避術といえるかもしれないのである。
(『教会と千歳飴 日本文化、知恵の想像力』上野誠 小学館 2021年)
今朝の父の一枚です(^^)/
ジョウビタキを写そうとしていたのですが、
写すことができずスズメかと思ってシャッターを押したら…
「ウグイスを写しているよ」と声をかけるとビックリして大喜びでした(*´▽`*)

 鳥たちの求愛行動 上田恵介
 鳥にもあった同性愛?
  メス(&)メスペア


 カモメ類では時々、通常よりも多くの卵が入った巣が見つかることがある。
この巣にあった卵の模様が異なるため、2羽以上のメスに産卵されたと考えられるのだが(カモメ類は、産んだ個体によって卵の模様が異なる)、これまでは同じ種の中での托卵によるものと考えられていた。
 しかし、カリフォルニア湾で調べられたウスオオカモメが、じつはメス同士でペア組んでおり、しかも巣には受精卵も産まれていることがわかったのだ。
 メス同士のつがいが産んだ卵が受精卵であることは驚くべきことだった。
これには、以下の推測がなされている。
●オスとメスがつがい、交尾をした後に別れたか、オスが死に、残されたメス同士でペアを組んだ
●既婚のオスがつがい相手以外の未婚メスを受精させ、元のメスと未婚メスがペアになった
●メス同士でペアを組んだ後に、オスによって受精させられた
 既婚オスがつがい相手以外のメスに産卵させ、自分がヒナの世話をしなくても、メス同士のペアがきちんと育てているとしたら、オスは労力をかけずにより多くの子孫を残せることになる。
…つづく…
(『日本野鳥の会のとっておきの野鳥の授業』日本野鳥の会編、上田 恵介監修、山と渓谷社 2021年)