2023年2月19日日曜日

雨水

初めは傘をささなくても歩けたのですが
しだいに雨と風が強くなりました。
それでも今までの雨と違うなと思ったのは
ガラスがスリガラスになるほどの湿気

九州北部地方で2年ぶり「春一番」 南よりの風強まり気温上昇〟(福岡NHK)
今日は二十四節気

雨水(うすい) 
 
 降っていた雪がいつしか雨に変わり、積もった雪や氷が本格的に解け始めるころ。
固く締まっていた土がゆっくりと潤い始め、春の気配に草木が蘇ります。
昔から雨水の時季は、農耕の準備を始める目安とされてきました。
 雪も徐々に水分が多くなると結晶同士がくっつきやすく、大きな「花弁雪(はなびらゆき)」や牡丹(ぼたん)の花弁にたとえた「牡丹雪」、そして、すぐに解けてしまう「淡雪(あわゆき)」、雪混じりの「霙(みぞれ)」へ。
やがて、糸を引くような「春雨(はるさめ)」「暖雨(だんう)」へと変わっていくのです。
(『イラストで楽しむ日本の七十二候』アフロ著、森松輝夫絵 中径出版 2013年)
 雨の日は音たてて春すすみけり  倉田紘文(こうぶん)

 季節の微妙な移り変わりは、視覚によるより聴覚の方が的確かもしれない。
けれど近代人はあまりに見えるものだけに頼りすぎて、音を軽視したきらいがある。
文明の発展が騒音をまきちらしたためもあるが、耳を澄まして聴く音の復権を望みたい。
 掲出句はサウンドスケープ、音の風景である。
耳を通して感じられる音の総体によって季節の推移を捉(とら)えた感覚的俳句だ。
春の雨と春雨は降り方が違う。
春雨は静かに小止みなく降りつづく晩春の雨。
春の雨は季節を通して草木を育てる雨で、芽吹きはじめた雑木山や春寒い山峡(やまかい)などに音を立てて毎日降り、春を促進する。
  1940~ 大分県生まれ。高野素十門。「附記」主宰。
   句集『慈父悲母』『光陰』など。
(『きょうの一句 名句・秀句365日』 村上護 新潮文庫 平成17年)
これまでに紹介したように貴司の歌に俵万智さんが呟いていますね(*´▽`*)
短歌を舞いあがらせたいという熱い思いを感じます。
貴司の手元にあったのが『黄月(くわうげつ)

第7章 旅
 冬山の青岸渡寺
(せいがんとじ)の庭にいでて風にかたむく那智の滝みゆ
                   佐藤佐太郎『形影』(昭45、短歌研究社)

 昭和43年(1968)2月、佐藤佐太郎は那智山青岸渡寺を訪れた。
青岸渡寺は西国三三カ所第一番札所。
寺の背後に那智の滝が落ちていることで有名である。
滝の高さは133メートル。
一段の滝としてはわが国随一の滝であるが、何よりその優美な姿が見るものを感嘆させる。
(『現代秀歌』永田和宏 岩波新書 2014年)
 「冬山の」と詠いはじめているので、青葉の茂った生気旺盛な山ではなく、枯れ色の山容を目に浮かべるべきだろう。
青岸渡寺に来て、その庭に出てきたのである。
その佐太郎の目に、白いひとすじの滝の落ちるのが見える。
滝の水量も少なく、落差の大きな細いひとすじの滝は、折からの風に吹かれて傾いているように見えたのだ。
景が大きく、それとともにしらべが雄大である。
佐太郎の代表作の一首とみなが認める歌でもある。
 この一首、よく見ると文にねじれがある。
それを高野公彦は次のように指摘する。
 「正しく言ふなら「庭にいでて……滝みつ」もしくは「庭に出れば……滝みゆ」だろう。しかし正しい言ひ方にすると、この歌の魅力は失はれる。つまり、ねぢれは詩的に有効に働いてゐるのだ。」(高野公彦『うたの前線』)
 確かにその通りであり、文の構造のねじれが、歌の膨らみとなっているように感じられる。
そこを今西幹二は、
 「上句の悠揚とした調べは風景を貪るのではなく、滝を見るためともなく庭に出たところ、滝の全容がおのずから見えたというのである。そこに、「庭にいでて(見る)」ではなく「見ゆ」と受けた所以がある。」(『日本名歌集成』)
と説明する。
つまり「庭に出て見る」という意志的な行動ではなく、なんとなく庭に出てみたら、そこに滝が見えた、という感じであり、その受動性がいいと言う。
どちらも頷ける鑑賞である。
後に佐太郎自身が、高青邱に「高風揺飛泉」(高風飛泉を揺るがす)という詩句があったのに気づいたと述べているが、佐太郎は漢詩をよくし、他にも漢詩的な表現がみられる。
 佐藤佐太郎は斎藤茂吉の弟子であり、写生を自らの作歌のもっとも根幹に据えて作り続けた歌人である。
「純粋短歌」という言挙げもあったが、字余り字足らずなども認めず、純粋に定型を守るべきだという立場を貫いた歌人である。
個人的には、私は佐太郎は近代の、あるいは現代のどの歌人よりも、歌の生理がわかっていた歌人だと思っている。
そして秀歌が多い。
歌壇の風潮や流行に流されることなく、ただひとすじに己れの信じる道を進んだ歌人という印象が強い。
そして、その対象を切り取る視線の鋭さ、切れ味は他の追随を許さないものがある。
   あぢさゐの藍(あゐ)のつゆけき花ありぬぬばたまの夜あかねさす昼 『帰潮』

   秋分の日の電車にて床(ゆか)にさす光もともに運ばれて行く 

   夕光(ゆふかげ)のなかにまぶしく花みちてしだれ桜は輝(かがやき)を垂る 『形影』
 私は佐太郎の短歌が好きである。
もっと挙げたい気がするが、いずれも佐太郎の代表歌。
一首目では枕詞の使い方が際立っていよう。
二首目では下句「光もともに運ばれて行く」がすぐに目につくが、実は上句「秋分の日の電車にて」という何気ない、時間の特定が下句を際立たせているのである。
三首目は京都二条城のしだれ桜を詠ったものであるが、結句「輝を垂る」がすばらしい。
普通なら「輝きてをり」と収めそうなところであるが、それをしだれ桜が輝きを「垂る」のだと能動的に言いきったところに非凡さがある。
この歌については、後日作者は、李白に「輝きを垂れて千春に映ず」という詩句があることを知ることになったが、それは偶然の一致、この輝きは佐太郎自身が発見した輝きであったことは間違いない。
(『現代秀歌』永田和宏 岩波新書 2014年)
今朝の父の一枚です(^^)/
空が暗いので残念がっていました。
明日、σ(^^;)の眼底検査があるので、今日のように雨か曇りの方が助かるのだけど…

 スズメ(雀) 

 鳴き声から「スス」、そこに「鳥」「群れ」を意味する「メ」がついた。
 「スス」には「小さい」という意味も。


 スズメはきれいな羽衣(うい)のかわいい小鳥である。
スズメの語源を簡略に記した。
①スズメのスズは「チ、チ」、「チュン、チュン」など鳴き声の擬声語。
②古語「ささ」は「細かいもの、小さいもの」賞美する接頭語。「ささ」がスズになった。
 ③スズメのメは「群れ」のこと。
また、カモメ、ツバメのメと同じ、鳥を表す接尾語。
 漢字「雀」は、小+隹(鳥)、すなわち、小さい鳥である。
雀という字は、ほかの多くの小さい鳥の漢字名でも使われ(たとえば小雀<こがら>、雲雀<ひばり>)、大きな鳥の名前(鷹の1種ツミの漢字名のひとつの雀鷹や、孔雀の例もある)にも使われている。
 種スズメの英名はEurasian Tree Sparrow。
英語のsparrowも「スズメ」同様に多くの種に使われている。
(『野鳥の名前 名前の由来と語源』文:安部直哉、写真:叶内拓哉 ヤマケイ文庫 2019年)