2023年2月25日土曜日

風が吹くと…

久しぶりの青空で日ざしが暖かいと思っていたのですが
風が吹くとやはり冷たい…
画像は、カワヅサクラですが(^_-)

京都の北野天満宮で菅原道真をしのぶ「梅花祭」〟(京都NHK)
淀川マッコウクジラ「淀ちゃん」は46歳だった〟(関西NHK)
長い旅をしてきたのだろうなぁ…

第10章 防人の妻
 庶民の女の「嘆きの歌」


 この章では、これまでとはまったく様相の異なる一群の歌、「防人(さきもり)の妻たちの歌」をご紹介します。
前章までを、有名女流歌人や皇族の女性たちが繰(く)り広げる華麗できらびやかな歌の世界とするなら、この章は、庶民の女たちが生活のなかからつむぎだした素朴な心情と嘆きにあふれる歌の世界です。
どのようなものか、まず一首、見てみましょう。

  防人に 行くは誰(た)が背(せ)と 問ふ人を
    見るが羨(とも)しさ 物思(ものもひ)もせず (巻20-4425)

「召集された男たちが出発してゆく……。その行列を眺めながら『あの防人たちは、いったいだれのだんなさまでしょう』などと、物思いも無さそうな、屈託(くったく)なげな顔をしてささやき交している女たちを見ると、羨(うらや)ましさに、たまらなくなる。つれて行かれるのは私の夫なのだ。あの中には私の夫もまじっているのだ!」
(『万葉の女性歌人たち』杉本苑子 日本放送出版協会 1999年)
 防人に指名され、はるばる筑紫(つくし<北九州>)にまで出掛けて行く夫。
その出征を他人ごとのように見送る女たちの輪から離れて、「防人の妻」が洩らした深い悲嘆の歌です。
その背景には、「よりによって防人に選ばれるなんて」という鬱屈した思いと、「筑紫などという想像もつかないほど遠い地から、果たして無事に帰ってこられるのだろうか」という不安が渦巻いています。
 左注や内容から確実に「防人の妻」の作と思われる歌は、万葉集に12首収められていますが、そのいずれもが、防人の九州派遣という国の政策によって、愛する人であり家の大黒柱でもある夫と離ればなれになることへの嘆きや悲しみをうたっています。
さらにいえば、88首の「防人歌(さきもりうた)」、つまり男たちの歌なのなかでも圧倒的に多いのは、悲しみと嘆きの歌です。
その事実を知るとき、私には、防人とその妻たちの歌とは国家の意思と庶民の暮らしとの関わりを考えさせる、歴史上、最初の証言といってもいいのではないかという思いが湧いてくるのです。
 「防人」の誕生

「防人」とは、7世紀後半から8世紀後半の時期、北九州の海辺防備のため、主として東国から派遣された兵士のことをいい、辺境の崎々を守る、すなわち「崎守(さきも)り」が語源です。
 防人の制度は、当時の対外情勢、すなわち新羅(しらぎ)・百済(くだら)・高句麗(こうくり)がしのぎをけずっていた朝鮮半島との関わりから生れました。
661年(斉明7)、その前年に唐・新羅連合軍に滅ぼされた百済の再興を助けるため、斉明女帝が自ら筑紫に下ったことは、すでに何度もご紹介したとおりです。
 ところが、斉明帝崩御後に称制をとっていた中大兄皇子(なかのおおえのおうじ<天智天皇>)が朝鮮半島に派遣した日本軍は、663年(天智2)8月、白村江(はくすきのえ)の戦いで大敗を喫し、日本に逃げ帰らざるを得ませんでした。
のみならず、余勢をかった唐・新羅の連合軍が、いつ日本本土に攻め寄せてきてもおかしくない状況となったのです。
国土防衛体制を築かなければならない、と中大兄皇子は痛感したことでしょう。
 そこで翌664年(天智3)に、防人の制度が採用されました。
すなわち、朝鮮半島から日本本土への最短の航路上に位置する対馬(つしま)・壱岐(いき)の2島と筑紫国(この場合は北九州沿岸)に防人を配置して、唐・新羅軍の侵入に備えようというわけです。
同時に烽(とぶひ<のろしによって遠方に急を知らせる山上に築いた通信施設>)も整備し、また少しのちには、娜大津(なのおおつ<博多>)から内陸に入った場所に筑紫の政庁として大宰府(だざいふ)を置き、その前面に水城(みずき<水をたたえた巨大な堀>)を造ったり、周囲の山に城を築くなどして、防衛体制を固めました。
 当初、防人には地元西国の兵士たちが当てられていたようですが、次第に東国人を派遣することが多くなり、特に730年(天平2)からは東国人だけということになりました。
その理由については、戦いつづきで西国人が疲弊していたからとか、何よりも東国人は勇猛だったからとか、いくつかの説があるようです。
私自身は、8世紀前半、兵役を嫌って各地の軍隊から逃亡する者が続出したことから、政府が逃亡予防の目的でとった措置ではないかと思っています。
つまり、仮に東国人の防人が筑紫の兵営から逃げ出しても、九州と東国の言葉はまったくちがうので、すぐに身元がばれてしまう、道を訊(き)くことも食を乞うこともできないからです。

…中略…
「醜の御楯と出で立つわれは」

 防人歌と聞くと、日中戦争・太平洋戦争を体験された方のなかには反射的に、左の歌を思い出される方が多いのではないでしょうか。

  今日よりは 顧(かへり)みなくて 大君の
    醜(しこ)の御楯(みたて)と 出(い)で立つわれは (巻20-4373)

「今日からは、雑念など抱かずに、大君の強い御楯となって私は出立してゆくのだ」
  天地(あめつち)の 神を祈りて 征箭貫(さつやぬ)
    筑紫の島を さして行くわれは (巻20-4374)

「天地の神に祈りをささげ、矢を背中の靫(うつぼ)にさし貫き、筑紫の島をさして出征して行くのだ、このおれは」
 戦争中、私たちが教えられたのは、こんな勇ましくいさぎよい歌ばかりでした。
しかし、いま100首もの防人歌に目を通してみると、〝勇壮で〟〝士気を鼓舞する〟ような歌は、じつはこの二首しかありません。
あとのほとんどは、嘆きの歌です。
大多数の防人たちの真実の声を伏せ、わずか二人ばかりの作を〝防人の歌〟と号して宣伝したところに、当時の指導者たちのくるしいトリックがうかがえます。
 昭和18年10月21日、雨の神宮外苑競技場で行われた学徒出陣壮行会
女学生の私はスタンドに立ち、行進する学徒たちに、泣きながら手を振っていました。
粛々と行進する学徒たちの心のうちは知るすべもなかったけれど、私自身は、学徒たちも私たちもみな、遠からず死ぬのだと覚悟していました。
当時ですから、その覚悟をためらいなく、据えはしたけれども、心の底の底では「死なずに帰って来てほしい」と念じる熱い思いも疼(うず)いていたのです。
五十数年前の自身の心情と重ね合わせると、防人とその妻たちの真実の声が、いっそう鮮明に、私には聞こえてくる気がしてなりません。
(『万葉の女性歌人たち』杉本苑子 日本放送出版協会 1999年)

杉本苑子」(NHKアーカイブス 人物録)