2023年2月2日木曜日

昨日よりも…

昨日は、池や田んぼに氷がはっていた。
今朝は霜もおりていなかったのに昨日よりも寒かったです。
薄曇りで冷たい風が吹いていたからかな?

北海道で荒れた天気続く 交通への影響など十分注意」(NHK)
今までヒヨドリがピラカンサの実を食べているのを見たことがあるのですが、
昨日、今日とメジロが別の場所でもやってきていました。
見ていると面白いのは、食いちぎって食べる子と、丸飲みする子がいました。
メジロにも性格があるのかな(*´▽`*)

ところで明日は節分ですが
節分を前に かたい豆など「5歳以下に食べさせないで」消費者庁〟(NHK 2月1日)
第2章 驚きの食生活
 体内に食べ物をためる? 小石で砕く?


 世界には1万種以上の鳥がいます。
暮している標高や生息地はさまざまで、その環境の違いが、鳥の生活スタイルや獲物の捕り方を多様に進化させました。
食べるものも、タネや果実、花の蜜、昆虫をはじめとした節足動物、小動物、魚などいろいろです。
(『鳥類学が教えてくれる「鳥」の秘密事典』陳湘靜・林大利著、 牧髙光里訳、SBクリエイティブ 2023年)
 鳥は嚙(か)むための歯がありません。
大口を開けて飲み込んだ食べ物は、通常は口の中に留まることなく、すぐに食道を経由して「嗉嚢(そのう< crop >)に送られます。
嗉嚢は一時的な貯蔵庫で、食べ物はここで柔らかくなります。
 カモメの仲間には、食道や嗉嚢に魚1匹を丸ごと一時的に貯蔵するものがおり、スズメはタネを蓄えています、
ハトやフラミンゴ、そして一部のペンギンは、嗉嚢から、食べ物と消化液が混ざった「嗉嚢乳(そのうにゅう< crop milk >)」を吐き出してヒナに食べさせます。
 嗉嚢を通った食べ物は胃に入ります。
鳥の胃は「前胃( proventriculus )」と「砂嚢(さのう< gizzard >)」に分かれています。
 「前胃」には、タンパク質を分解するペプシン( pepsin )や塩酸などを含んだ胃液を分泌する「胃腺」があります。
腐った死骸(しがい)を食べるハゲワシの胃酸には非常に強い殺菌力があり、腐肉から出る毒素や有害な細菌に対抗しているのです。
 「砂嚢」の内側は強靭(きょうじん)な胃壁でできていますが、一部の鳥は食べ物を粉砕するために、砂嚢まで小石を飲み込んでいます。
タネを食べる鳥類は砂嚢が特に発達しています。
私たちが食べている「砂肝」はニワトリの砂嚢で、コリコリした食感がするのは、丈夫な胃壁でできているからです。
 胃を通った食べ物は最終的に腸に入り、栄養が吸収されます。
鳥の腸は哺乳類よりも短く、吸収効率にも優れていますが、このスピードが、飛ぶエネルギーの素早い吸収と、体重の軽量化に貢献しています。
彼らがいつも食べ物を探しているのは、こんな理由があるのですね。
(『鳥類学が教えてくれる「鳥」の秘密事典』陳湘靜・林大利著、 牧髙光里訳、今泉忠明監修 SBクリエイティブ 2023年)

鳥に歯がない理由に新説、卵のふ化を早めるため」(AFP 2018年5月23日)
1940(昭和15)年2月2日 民政党斎藤隆夫、衆議院で戦争政策を批判し問題化(3月7日 議員除名)。
(『新版 日本史年表』歴史学研究会 岩波書店 1984年)

斎藤隆夫」(近代日本人の肖像 国立国会図書館)
第1章 斎藤隆夫 リベラルな保守主義者

 斎藤隆夫のことは、昭和11年(1936)5月7日、帝国議会において粛軍演説をした勇気ある政治家として名前を知っていた。
明治、大正から、戦前、戦後まで生き抜いた不屈の政治家である。
 彼は民政党の議員で、取り立てて左翼だったわけではない。
天皇を崇敬し、自分もお国のために役に立ちたいと願っていた。
しかし、二・二六事件の将校たちが「維新」を標榜し、軍部が「革新」と称して暴走しそな時に、あえて「保守」として、たった一人、牽制の手綱を引こうとした。
彼は保守派であると同時に、近代的なリベラリストでもあった。
だからこそ、「維新」「革新」といった華々しい言葉に惑わされることなく、自由主義と立憲主義を「保守」しようとした。
元祖「リベラル保守」であろう。
(『暗い時代の人々』 森まゆみ 亜紀書房 2017年)
 時局下においても斎藤は大勢に流されず、信念を捨てなかった。
粛軍演説の4年後の昭和15年にも、「支那事変処理」に関して国会で質問(いわゆる反軍演説)し、問題視され、国会から除名されてしまうのである。
 彼は戦後の1949年に80歳で長逝したが、それまで1回の落選以外は13回当選、議員職に35年間あった人気政治家であった。
これは「憲政の神様」と言われた尾崎行雄に次ぐ長期議員生活である。
 その斎藤がわたしの家からそう遠くない本郷区向ヶ丘弥生町三番地に住んだことがあると知った。
そこには、時代は違うが反骨のジャーナリスト宮武外骨(みやたけがいこつ)が住んだ番地でもある。
たしかに彼の自伝『回顧七十年』の序言には「向ヶ丘偶居において」とある。
わたしはもう少し斎藤のことを知りたいと思った。
しかし、この序言にしてからが、「自ら顧みて恥ずることあるも、誇るべき何ものもない」といった淡々とした調子で書かれている。
それは成功談ではなく、「浮きつ沈みつ」の70年を語ったものである。
  反骨の風土・出石に生れる

 斎藤隆夫は、明治3年(1870)8月8日、兵庫県の小京都・出石(いずし)の生れである。
出石といえば、わたしがかつて養父(やぶ)にある作家・山田風太郎の記念館に招かれて行った時、主催者が出石でおそばをご馳走してくれ、城崎の温泉宿まで送り届けてくれた思い出がある。
 出石は江戸時代後期のお家騒動・仙石騒動の舞台であり、また明治女学校を開いた木村熊二や巌本善治(いわもとよしはる)のふるさとである。
木村熊二の墓は谷中墓地にあり、『明治東京畸人傳』に一節書いたことがある。
彼は17歳で彰義隊に参加した。
幕府恩顧の彰義隊は、上野寛永寺に立てこもり、新政府軍と一戦を構えたが半日で敗れた。
彰義隊残党は明治の世を渡ることがむずかしく、その後、木村はアメリカで長く牧師の勉強をし、帰って下谷教会を開く。
ここに旧幕臣であった幸田露伴の父などが通った。
その下谷教会女子部として谷中初音町に生れたのが、後の明治女学校である。
 この学校は、羽仁もと子、相馬黒光(そうまこっこう)、野上彌生子(のがみやえこ)などを輩出し、清水紫琴(しみずしきん)、萩野吟子、中島湘煙(なかじましょうえん)などが関わった。
二代目校長となった巌本善治の妻で「小公子」「小公女」などの翻訳で知られる若松賤子(わかまつしづこ)は会津出身である。
 以上、あげた人々は皆、明治の世を反藩閥に立脚して生きた。
斎藤隆夫という人も明らかにその系譜にある。
 斎藤は出石といっても藩士の子ではない。
出石の街中から離れた室埴(むろはに)村(いまの豊岡市)のかなり土地持ちの農家に生まれた。
兄と四人の姉がおり、両親とも四十代で生まれた末子であったため、家には縛られなかったが、反対に言えば継ぐべき家産もなかった。
8歳で福住小学校に入学したが、どういうわけか、卒業前に12、3歳で、京都の西本願寺の附属学校である弘教校(弘教講学舎)というところに転入している。
 わたしは弘教校があったという西六条東中筋花屋町上ルという住所を訪ねてみた。
浄土真宗系の龍谷大学の西である。
西本願寺は浄土真宗本願寺派で、斎藤の家は禅宗だった。
しかし弘教校での斎藤は、お経を唱えたり、四書を教わるくらいの旧態依然とした教育に失望して、村に帰ったという。
そういうところは直情径行だ。
 弘教校をやめた後、家に帰って牛飼いや田圃(たんぼ)の手伝いをした。
当時、農耕はすべて人力と牛の力に頼っていた。
だが、斎藤は百姓仕事がいやでたまらなかった。
それでまた無断で家でをして京都に向かい、仕出屋の配達、駄菓子の製造などに携わった。
これは口入れ屋の周旋する丁稚(でっち)奉公である。
 京都に行ったのはふるさとに近い都会であり、前の滞在の土地勘があったからだろうが、三ヶ月でいやになって帰郷した。
現状に満足しない人なのである。
えらいと思うのは、家出をして帰郷した末っ子を、兄や姉、兄嫁、父、母ともにしかることもなく、無事を喜んでくれたというところである。
すなわち、この一家は維新後の近代的な立身の道を知らなかったが、子供、兄弟に対して愛情を持っていたとわかる。
家族の愛情は人を支える。
…後略…
(『暗い時代の人々』 森まゆみ 亜紀書房 2017年)
今朝の父の一枚です(^^)/
アトリが群れてアキニレの実を食べている時に
下を通ると雨のように食べかすが落ちてきます(^^;

アトリ〔花鶏〕

 スズメ目アトリ科。全長16センチ、体重24グラム位。
濃紺と白色と茶色の組み合わせの美しい小鳥。
ユーラシア大陸北部の森林地帯に広く繁殖し、南へ渡って越冬する。
日本では冬鳥。
離島も含め全国で記録があり、数も少なくない。
山地や低山地、山麓(さんろく)の林、農耕地などで群れで見られることが多い。
数千、数万の大群も時に見られるが、それは西日本の農耕地であることが多い。
冬期は木の実や草の実や草の種子を主に食べている。
飛び方は波状で、魚尾のような尾羽がよく目立つ。
(『野鳥の歳時記5 冬の鳥』日本鳥類保護連盟監修 小学館 昭和59年)