小雨でしたが次第に本降りになり風も強くなりました。
こんな風雨の中でも鳥たちは生きるために活動していました。
雨の日は、50mmレンズで歩くので鳥たちをアップで写せないけど…
どんなきっかけがあって新種と分かったのかな?
「40年近く前発見のカエル 新種と発表 京大など研究グループ」(京都NHK 2月9日)父とうなりながら見ていたのが、情熱大陸「永井陽右[ 国際NGO代表 ]」
国連などの組織があったわけでなく
「君みたいな人がいったら邪魔だから、どうせ死ぬんだから、そのおかげで迷惑になるんだよ」
と言われながらも
「NPO法人アクセプト・インターナショナル」を立ち上げた。
その根っこはもしかしたら高校時代かもしれないと話していました。
ソマリアは今、過去40年で最悪の旱魃に見舞われています。
加えて、小麦の9割をウクライナに依存していたため事態は、いっそう深刻です。
「ソマリアの干ばつ:気候危機と紛争が飢餓を引き起こす中での、命を守るための闘い 」(WFP 2022年10月24日)「トルコ・シリア大地震1週間 死者3万人超 救助続く」(NHK)
渡邉英徳さんがリツイートされていたのが
トルコにて、128時間ぶりに救出された生後二ヶ月の赤ちゃん
関連して、他の方が赤ちゃんの動画をリツイートされていました。朝日新聞の読書欄(2月11日)
「ひもとく 渡辺京二の世界 歴史に埋もれた逸話、集めて」
「幕末期の来訪外国人の手記をもとに、人々の質素ながらも満ち足りた暮らしが近代化によって失われたことを明らかにした『逝きし世の面影』」と紹介されていました。 第十章 子どもの楽園
…前略…
「私は新潟で大いに歩き廻っている。そして、目下のところ当地で唯一のヨーロッパ婦人であるファイソン夫人と、彼女の三歳のきれいなイギリスっ子であるルース嬢と一緒の時は、大群衆が私たちのあとからぞろぞろついて来る。というのは、波うつ金髪を肩に垂らしたこの別嬪の嬢ちゃんを見ていると、まったく魅せられてしまうからだ。男も女も子どもをひきつけるやさしいやり方を心得ているので、ルースは群集をこわがるどころか、彼らににっこり笑いかけ、日本風にお辞儀をし、彼らに日本語で話しかける。自分の同国人からは離れていたい気味もあるようだ。彼女を私たちと一緒に歩かせるのはとても難しく、姿が見えないのでうしろを振向くと、数百人の群衆の輪の中に日本式に座って、人びとの誉め言葉や感嘆を受けて離れたがらないでいることが、二、三度あった」。
(『逝きし世の面影』渡辺京二 平凡社ライブラリー 2005年) ルースが同国人よりも、日本人と一緒にいたがった理由はあきらかだ。
日本人の子どもに注ぐ強い愛情は、彼女にとって初めて知る蜜の味だったのである。
彼女の同国人は、そういう手放しの愛情は子どもをスポイルするものだと考えていた。
バードはこう書き加えている「日本人は子どもに真の情愛を持っている。だが、ヨーロッパの子どもが彼らとあまり一緒にいすぎるのはよろしくない。彼らは子どもの倫理観をだめにするし、嘘をつくことを教える」。 日本人はルースに、いったいどんな道徳的悪習とどんな嘘を教えたというのか。
エヴァの子守り婆さんは、まさか彼女に喫煙を仕込んだのではあるまいが、少なくともそれを助長した形跡はある。
日本人の大人は子どもを自分たちの仲間に加え、自分たちに許される冗談や嘘や喫煙や飲酒等のたのしみのおこぼれを、子どもに振舞うことをけっして罪惡とは考えていなかった。
すなわち当時の日本人には、大人の不純な世界から隔離すべき〝純真な子ども〟という観念は、まだ知られていなかったのだ。
むろんそういう観念は西洋近代の産物である。
バードは偏見の少ないすぐれた観察者であるけれども、彼女の使用する「道徳的堕落」とか「嘘」という用語には、西洋近代において成立する神経症的オブセッションが色濃くまつわっている。
ちなみに、ルースの父親ファイソン( Philip Kemball Fyson 1846~1928)は1874年に来日し、新潟で7年間伝道に従事した英国人宣教師である。 盲愛とはもっとも純粋な愛のかたちなのかもしれない。
少なくとも、中勘助(1885~1965)の『銀の匙』に描かれた「伯母さん」の、主人公たる少年への盲愛ぶりには、私たちにそのように感じさせるなにものかが存在する。
中の年譜によれば、この人は彼の母の一番上の姉ということだが、勘助が生れる頃は中家に寄寓していて、どういう事情があったのか母代りのようにして勘助を育てた。
つまり彼女は、ベーコンのいうあの不孝にして幸せなおばさんの一人だったのである。
『銀の匙』前編はこの伯母にからむ思い出で成り立っている。
母親はほとんど出てこない。
この人の夫はもともと小身ながら、美濃今尾藩の藩士であった。
夫婦そろってお人好しで、秩禄処分で得たわずかな金も人に借り倒され、夫はコレラで亡くなって、旧今尾藩主家の家扶として東京へ出ていた中家に寄寓するようになったのである。 勘助は外に出るときは必ずこの伯母に負われ、五つぐらいまではほとんど土の上に降りたことがなかった。
この子は人間というものがこわい子どもで、伯母に負われて近所へ遊びにゆくほかは、家にこもってこの伯母と遊ぶのが日課だった。
彼女は戦さ道具をひと揃いもっていて、勘助には烏帽子をかぶせ刀を差させて、自分は薙刀とった鉢巻姿で廊下で山崎合戦を演じるのだった。
勘助は加藤清正、彼女は四天王但馬守で、最後は清正が四天王の首をとるのである。
彼女は立ち廻りに息をからして立ち上がれぬこともあった。
おそらく五十路にかかっていたのだろう。
目が悪くて、外に出るときは勘助に鈴をさげさせていた。
勘助はひよわで食が細かった。
そこで彼女は庭の築山を東海道に見立てて、お伊勢詣りの趣向でぐるぐる歩き廻らせたあげく、石燈籠にかしわ手を打って弁当をひらく。
説話まじりに偏食の彼の気をひきながら、竹の子や蛤をたべさせる。
自分で箸をとらないと、小さな茶碗を口にあてがって、「すずめごだ、すずめごだ」といいながらたべさせてくれる。 彼女は漢字は読めなかったがおそるべき博聞強記で、勘助にありとあらゆる説話を語ってくれた。
彼はそのようにして賽の河原の巡礼歌も、千本桜の初音の鼓の話もおぼえた。
百人一首も彼女の口移しでおぼえた。
彼女は大の信心家で、おなじく大の迷信家だった。
勘助は彼女から、夏雲の形に文殊や普賢菩薩の姿を見ることを教わった。
彼女はべつに勘助を教育しようと思ったのではない。
この病弱で人みしりする子がただ盲目的に可愛かったのである。
彼女は自分のすべてをこの子に注ぎこんだ。
びっこの鶏を見ても涙する人であった彼女は、万物が愛と涙の対象である世界に、この子とたったふたりで棲んでいたかったのである。 勘助は明治33年、中学3年のとき、故郷でわび住いをしている彼女を訪ねた。
彼女は目の見えぬ老婆になっていた。
その不自由なからだで彼女は魚屋に足を運び、勘助に夕食を作ってくれた。
皿には二十数匹の鰈(かれい)が並んだ。
勘助のために店の鰈をありったけ買い求めたのだ。
彼女が世を去ったのはそれから間もなくのことだった。
ふたたび言う。
子どもを可愛がるのは能力である。
だがその能力はこの女人だけが授かっていたのではない。
それはこの国の滅び去った文明が、濃淡の差はあれ万人に授けた能力だった。
しかしこのような盲愛に近い子どもへの愛情は、子どもの基本的な情感と自我意識につよい安定を与えると同時に、一方で別種の問題を生じさせる可能性もあった。
…後略…
(『逝きし世の面影』渡辺京二 平凡社ライブラリー 2005年)今朝の父の一枚です(^^)/
ハクセキレイがキリッとした顔つきで佇んでします。
伊丹(いたみ)・昆陽池(こやいけ)の鳥 伊丹三樹彦(いたみみきひこ・俳人)
…前略…
セキレイとヤマセミ、カワセミ
セキレイにはハクセキレイ、セグロセキレイ、キセキレイが最も普通に見られる。
むろん、昆陽池と限らず、各地各所で接するが、僕には帰盆したふるさとの播州三木の川のほとりで眺めたセキレイのことが忘れられぬ。
その川は美嚢(みのう)川といい、川幅は百メートル以上もあろうか。
七夕には笹を流し、盆には精霊舟(しょうりょうぶね)を流す。
が、川下に大きな呑吐(どんと)の堰(せき)があり、笹も舟もそこで停滞してしまう。
それだけに、セキレイの好個の餌場ともなったようで、彼らは堰を越す僅(わず)かな流れの上を、右に左にと敏捷(びんしょう)な千鳥歩きをしてあわただしく嘴を突っ込む。
千鳥歩きとは、そのようにジグザク歩きをすることであった、酔漢のようにふらつきはしないのだ。
また、立ち止まったときには、尾羽を盛んに上下させる。好んで石の上に止まるため「石叩(たた)き」の別名が生じ、俳人はこれを大いに活用する。
石叩き 礎石ばかりの陣屋跡
という具合で、これは、越前の朝倉遺跡を訪(おとな)うた折の、僕の最近作である。
セキレイの一種、ハクセキレイの繁殖地は、北海道と青森県にとどまっていたが、近頃は南下して、加賀、越前にまで及んでいるとか。
面白い符号である。
石叩く限り生きている 石叩き 後藤八重
…後略…
(『野鳥の歳時記1 春の鳥』 日本鳥類保護連盟監修 小学館 昭和59年)