2023年2月23日木曜日

天皇誕生日

目が覚めて天気予報をチェックすると公園を歩いている時間帯に雨…
予報通り雨が降り、帰る頃に小雨で傘を閉じてもいいほど…
でも、今までの雨と違って春が近づいているなぁと思いました。
朝ドラ「舞いあがれ!」を帰宅後、見逃し配信で見た後の楽しみが
俵万智さんのTwitterで朝ドラ受けならぬ朝ドラ詠み(*´▽`*)
今朝の短歌を全部載せるのはやめておいて最後の歌

第二歌集収録短歌(妄想)

…中略…

(現実)
非公式応援歌人と呼ばれてる
妄想短歌とまらぬ我は


プロフェッショナル 仕事の流儀
平凡な日常は、油断ならない ~歌人・俵万智~
27日(月)午後10時から放送されます。

今週は、町工場の騒音が問題になっています。
父の勤めていた工場も近隣にマンションが建ち防音壁などを設置しましたが
苦情が絶えなかったので大阪市内から他市へ移転しました。
移転によって自転車通勤だったのが、電車、駅からはバスでの通勤になりました。
天皇陛下 63歳の誕生日を祝う一般参賀 即位後初」(NHK)
父の時代は「天長節(てんちょうせつ)」(「天長地久」から名づけたもの)。
大元帥陛下 親臨天長節観兵式」(NHKアーカイブス 1941年)

天長節を調べていると皇后の誕生日の旧称「地久節(ちきゅうせつ)」があるのを初めて知りました。
 昭憲皇太后 ◆片野真佐子◆
[しょうけんこうたいごう 1849-1914(嘉永2-大正3、公式には1850-1914)]
明治天皇の皇后美子(はるこ)の(没後に贈られた)称号。
学問を好み聡明なことから皇后位に就き、後宮を改革して天皇を補佐し、教育・文化・社会・外交の各方面に活躍した。
天皇との間に子はなさなかったが、進取の気象に富み、近代的、西洋的男女関係を垂範し、富国強兵、殖産興業という当時の国策の推進を行動規範として、近代皇后としてのあり方を定式化した。
(『岩波 天皇・皇室辞典』原武史・吉田裕編集 岩波書店 2005年)
 皇后になるまで

 美子は左大臣一条忠香(いちじょうただか)の3女、生母は新畑大膳種成の娘民子である。
1849(嘉永2)年4月17日に誕生し、はじめ勝子(まさこ)、富貴君(ふきぎみ)と称したが、58(安政5)年に孝明天皇皇女富貴宮(ふきみや)誕生により寿栄君(すえぎみ)と改称した。
その生育歴は、もっぱら修学に集中して伝えられている。
3、4歳で『古今集』を読誦したのに始まり、11、2歳になると『女四書(おんなししょ)』を白文で学んだという。
12歳で治部(じぶ)卿倉橋泰聡(くらはしやすとし)に習字を、福永らくに箏曲を学び、さらに権(ごん)中納言清水谷公生(しみずだにきんなお)に作歌を、権大納言橋本実麗(はしもとさねあきら)に笙を学んだ。
後に『源氏物語』や『枕草子』を得意とした。
 誕生以来しばしば罹病したが大患なく、8歳で種痘を行い、14歳で鉄漿始(おはぐろはじめ)をなした。
幼児には父から庶民生活に親しみ実地に学ぶようにという教育も受けた。
67(慶応3)年の天皇睦仁(むつひと)の践祚(せんそ)後、女御(にょうご)として入内(じゅだい)準備の際、天皇より3歳年長の勝子は俗にいう四目十目の四つ目として不縁に当たるというので、生年を50(嘉永3)年として女御に治定(じじょう)し、高倉寿子(たかくらかずこ)を女御の上臈(高位の女官)とした。
68(明治元)年12月に勝子を美子と改名、従三位に叙せられて入内、即日女御宣下があり、ついで皇后となった。
 宮中改革の中で

 入内直後の69年、版籍奉還にともなって女官制が改定され宮中改革が始まった。
天皇の近くにあって後宮の取締と対外交渉事務を担当していた勾当内侍(こうとうのないし<長橋局(ながはしつぼね)>)という官職は廃止された。
71年の廃藩置県発令直後、宮内省官制を改定して女官総免職がなされ、72年にかけて皇后主宰による新たな女官制が断行された。
この改革は、天皇の周囲から公家と女官を遠ざけて天皇を武家化、男性化し、奥向きの決定権を女官から奪うことを意味した。
皇后は妻の役割が期待され、日課には福羽美静(ふくばびせい)による『古事記』、中国の『列女伝』の購読、元田永孚(もとだながざね)による『帝鑑図説』(中国明の張居正著)の講義の他に、加藤弘之による『輿地誌略』(内田正雄編の世界地理書)など西洋事情の学習が課せられた。
73年に皇后は鉄漿と眉墨(まゆずみ)を廃止した。
薄化粧に結髪の天皇が断髪したのは、この直後である。
また77年には、皇后は一般庶民の生き方を紹介した『明治孝節録』(近藤芳樹編)4巻を宮内省より出版させた。
 71年、岩倉遣欧使節団に同行する津田梅子(つだうめこ)ら日本人初の女子留学生を将来の日本女性の模範となるよう激励した。
初めての公式謁見であった。
以後、女性の学業を重視し、学校行啓を積極的に行った。
75年の東京女子師範学校開校に際しては女子教育の普及を願う祝辞を与え、愛読していた『フランクリンの十二徳』を12首の和歌に詠み込んで、勤労を奨励した。
77年、華族学校開業式に出席、85年に華族女学校が分離改称した際には、人の母となる女子教育の重要性を述べた令旨(りょうじ)を与えた。
87年3月、同女学校には、学業を奨励した教育の指針を示したことで知られる、「金剛石もみかゝすは珠のひかりはそはさらむ」で始まる「金剛石」の唱歌と「水は器」(「水はうつはにしたかひて…」)の唱歌を下賜した。
美子は、この歌により女子教育だけでなく教育そのものを奨励した皇后として後世に語り継がれた。
同年に美子の内旨(ないし)で西村茂樹が編纂した『婦女鑑』全6巻は、俗にいう「女子大学」の「三従四行七去」(父・夫・子に従うなど)から男尊女卑の封建的性格の色濃い「三従七去」を抜き取った「四行」(婦徳・婦言・婦容・婦功)を主軸に、広く和漢洋の婦女子の善行を孝行と貞節、母性と慈善の事績として列挙しており、当時西欧に倣って鼓吹された、進歩的な女性の地位向上論と軌を一にした。
 皇后美子の教育能力は、まず政治君主として未知数の若き天皇に注がれ、77年に始まった内廷夜話と金曜陪食に同席した。
これはともに君徳輔導するための試みで、皇后は天皇と臣下の間で見事な輔導役を演じた。
つづく…
(『岩波 天皇・皇室辞典』原武史・吉田裕編集 岩波書店 2005年)
今朝の父の一枚です(^^)/
今日もカワセミを写すことができて大喜びでした。

カワセミ
 将来を見据えたメスは オスをプレゼントで品定め


 オス(男性)がメス(女性)にプレゼントを贈るということは人に限らず、動物でもよく見られる行動です。
繁殖期のカワセミのオスは、メスに気に入ってもらうためにエサをとってきて、メスにプレゼントします。
このような行動を、動物学的には「求愛給餌」といいます。
 プレゼントの質は、メスにとっては重要です。
まともなエサをとれない頼りないオスでは子育てに失敗してしまう可能性もあります。
メスはオスに子育ての能力があるかなどの品定めをし、気に入ったらプレゼントを受け取り、つがいが成立します。
オスはメスに気に入ってもらうために苦労してエサをとってきますが、メスも自身と子どもの運命がかかっていますから、冷たくあしらってしまうこともあります。
…後略…
(『身近な「鳥」の生きざま事典』一日一種著 SBクリエイティブ 2021年)