2023年2月21日火曜日

風が冷たいけど

天気予報では、公園を歩いている時間に雪が降るとの予報。
黒い雲が浮かんでいましたが、雪は降りませんでした。
昨日から咲きだしたのかな?
冷たい風の中に河津桜がポツポツと咲いていました。
厚労相 マスク着用以外の対策見直しも検討 アクリル板設置など」(NHK)

マスク着用 “3月13日からは個人の判断で”政府が決定」(NHK 2月10日)

これからもマスクをします。
と言うのは、コロナ対策だけではなく、
寒い季節、冷たい空気を直接吸い込まないようにするため
そして、これからは花粉の季節ですし、もうまもなく黄砂の季節です。
黄砂は、非常に細かいので通常のマスクでは防ぐことはできないと思いますが…
黄砂(Dust and sandstorm:DSS)環境省

ある国会議員が
「陽だまりの老夫婦。なぜマスクをしているのだろう?不思議の国・日本。」
と呟かれています(リンクの貼り付けはしません)。
ご自身の価値観でしかものごとを見ることができないのかな?
このような発信をする方が、国会議員(元東京都知事)であり、作家でもある不思議の国・日本。
第12章 万葉の男と女
 万葉びとは恋をうたう


 万葉びとは、とにもかくにも恋をうたいました。
 万葉集全20巻に収録された4516首の歌は、内容によって、雑歌(公的な歌、その他〝雑〟の歌)・挽歌(死に関わる歌)・相聞(恋の歌)の三つに大きく分類され、これを三大部立(ぶだて)と呼んでいますが、正確に勘定したことはないけれども、まず全体の七、八割は相聞歌といってよいのではないかという感触を、私は持っています。
自然を眺めても、酒を呑んでも、旅をしても、そして働いていても、人を思う思いにとらわれ、それをうたわずにはいられない。
万葉びとに限らず、元来、詩歌を生み出す衝動の根元は、恋する心にあるのではないでしょうか。
 この最終章では、そんな万葉の時代の、女ごころ男ごころの諸相を、できるかぎり見ていくことにしましょう。
(『万葉の女性歌人たち』杉本苑子 日本放送出版協会 1999年)
 焼きつくす恋

 ひとつの恋からうまれた歌としては集中最多、63首もの歌をものした一対の男女がいます。
二人の名は、狭野弟上(さののおとがみの<茅上(ちがみの)>)娘子(おとめ)と中臣朝臣宅守(なかとみのあそんやかもり)
 狭野弟上娘子の出自(しゅつじ)は不明ですが、各巻の最初に掲げられている目録に「蔵部(くらべ)の女嬬(じょじゅ)」と書かれているところをみると、大蔵省・内蔵寮(くらりょう)の蔵部かまたは後宮の蔵司(くらづかさ)に所属する下級の女官だったようです。
一方、中臣宅守は刑部卿・中臣朝臣東人(あずまひと)の七男で、まあ中級官僚だったのでしょう。
 その中臣宅守が、あるとき罪を得て越前に流罪になったのですが、しかしこの罪とは何を犯したのか、はっきりしません。
従来、弟上娘子との恋愛問題が原因であろうと思われていたのですが、当時の律令(りつりょう)によれば、例えば娘子が宅守の部下であったとしても、彼らの恋は流罪に該当するほど重い罪ではなく、杖(じょう)八十、つまり杖で80回打たれる罰にしか当たらないとして、原因を他に求める説も出てきています。
 ともあれ、仲を裂かれて配所に旅立つ宅守と、それを見送る娘子との間に交わされた一連の歌は、後期万葉中の愛の絶唱として広く知られており、ことに、63首中で23首と数においては少ないけれども、狭野弟上娘子の歌は激しく、ひときわすぐれています。
うちの5首を見てみましょう。
  君が行く 道のながてを 繰(く)り畳(たた)
    焼きほろぼさむ 天(あめ)の火もがも (巻15―3724)

「あのかたが、やがて辿(たど)るはずの道。長い長い配所への道を、手(た)ぐり寄せて畳んで、ひと息に焼き亡ぼしてしまうほどな、天上の火がほしい。ないものだろうか。そのような火が……」
 不可能なことは、わかっている。
わかってはいるが切望せずにいられない。
道が憎い。
道があるから行ってしまう、道があのかたを連れてゆく……そんなふうに錯乱されてくるほど深い悲愁といえましょう。
「天の火」とは雷火(らいか)・稲妻のたぐいです。
  命あらば 逢ふこともあらむ わが故に
    はだな思ひそ 命だに経(へ) (巻15―3745)

 「命さえ保っていれば、かならずまたお逢いできます。私ゆえに、ひどくお心を労して、病気になどなって下さいますな。命ひとつを……お命ひとつを……どうぞいとしんでくださいまし」
 「はだな」は「甚(はなは)だ」の意。
「命あらば」「命だに経ば」と言い重ねたところに、切迫感の盛り上がりがあります。
  畏(かしこ)みと 告(の)らずありしを み越路(こしぢ)
    手向(たむけ)に立ちて 妹が名告(の)りつ (巻15―3730)
 
 「一生懸命がまんしていたのです。でも、もうあとひと足で、配所の越前へはいろとする愛発(あらち)の、峠の関所……そこの道祖神(さえのかみ)に幣(ぬさ)を手向けているうちに、とうとうたまらなくなって、あなたの名を呼んでしまいました」
 この一首のみ中臣宅守の歌。
旅の空で人の名を呼ぶと、魂が抜け出して、相手は廃人のようになる……そういう信仰が、当時ありました。
宅守はしかし、恋しさに耐えきれず、ついに娘子の名を口にしてしまったのです。
  帰りける 人来(きた)れりと いひしかば
   ほとほと死にき 君かと思
(も)ひて (巻15-3772)

 「遠国から流人が許されて都へ帰ってくる――そう聞いた時には、うれしさのあまりほとんど絶息しそうでした。でも……あなたはおられなかった。帰京してきた人々の中に、あなたの姿はなかったのです」
 「ほとほと死にき」とまで狂喜しただけに、期待を裏切れた絶望感はひどいものでした。
740年(天平12)の春に流された宅守は、同じ年の夏の大赦では、その恩恵からはずされたのです。
  わが背子が 帰り来(き)まさむ 時の為(ため)
    命残さむ 忘れたまふな (巻15―3774)

 「もうこうなったからには、ひたすらただ、あなたといま一度、相見る日のために、露命を保(たも)ちつづけてゆこうとだけ決意しました。何年、何十年時がひだとうとも、この私の存在を忘れてはくださいますな」
 こう決心した娘子ですが、じつは宅守は翌年の741年(天平13)秋にはゆるされ、奈良に戻っているようなのです。
しかし、宅守帰京後、二人の仲はどうなったのか、その消息を伝える歌はこの歌群にはありません。
狭野弟上娘子のその後も不明です。
ただ、中臣宅守は、のち763年(天平宝字7)に従(じゅ)五位下に進みましたが、翌年の藤原仲麻呂(ふじわらなかまろ)の乱によって「除名」されたことがわかっています。
(『万葉の女性歌人たち』杉本苑子 日本放送出版協会 1999年)
今朝の父の一枚です(^^)/
ムクドリは評判が悪いのですが…
人に嫌われることも多いですが、農耕地や草原で虫をとるプロフェッショナルですから、
畑や芝生のグランドキーパーの役目をしてくれています。


ムクドリ[椋鳥] スズメ目ムクドリ科
 実は昔からずっと日本にいる野鳥

 黒い毛の下から、ちらほろまばらに見えるグレーの毛。
薄汚れた感じの見た目。
何故か突然クチバシと脚のみ黄色というバランスの悪さ。
そして人前でもズケズケと歩き回り、ギャーギャー鳴きながら集まって街路樹を埋め尽くしている。
カラスのような知性も見られない。
ムクドリに関してポジティブな情報がまったく出てこないところからも、いかに広く人間に嫌われているかがよく分かる。
悪さをするので、いかにも外国から来た外来種という感じがするが、ムクドリは昔からずっと日本にいる鳥。
江戸時代には田舎から出て来た出稼ぎの者をムクドリに例えたそうだ。
あか抜けず、何だか分からない田舎言葉でやかましく喋っている。
ちなみにムクドリは1万羽ほど一度に集まることがある。
魚で言えばイワシの群れのように、ムクドリもまた集団で空に塊の模様を描くことがある。

カラスやトビ、猫などから身を守るため、集団行動で身を守っている。
(『子どもと一緒に覚えたい 野鳥の名前』山崎宏監修 momobook 2018年)

転記していると、ムクドリが可哀想だなと思うのですが…